精算

 その後、菖蒲が目覚めたのは真夜中を過ぎてからのこと。『道草』を使って現世へと戻ると、すでに洪が回した人間たちは引き上げたのか道に棒切れや瓶の破片が散らばっているのみ。


「救急はまだ開いてるでしょうから、病院に向かいましょう。事故ってことにして……いろいろ理由考えないと」

「ありがとうございます」

「いえいえ」

「……条件、けっこう満たしたんだな」

「何か言いました?」

「聞こえないように言いました」

「えぇ……?」


 とにかく廃墟から出なくては病院も何もない。

 互いの息遣いと体温を感じながら。菖蒲と結弦は、十二時間ぶりに茨城県はつくば市へと帰っていった。




    ◆◆◆




「四条です。精算をしに来ました」


 憑路での騒動から経過すること、二週間。

 さしもの洪も多数の負傷者を抱えた中、入院した菖蒲に手を出すほどの愚を犯すことはなく。何事もなく退院した菖蒲は傷の残る身体で洪の事務所へと直行した。


「さすが四条サン、行動の速さはさすがだね」

「そういうそちらはのんびりされているようで。事務所がずいぶんとお静かになられましたね」

「まあ、いろいろあってネ」


 洪の目尻がピクピクと震えたことには気づかないふりをして、菖蒲は持参した封筒を応接机にドンと載せた。人が減って閑散としたオフィスに、前回と違って分厚く重い封筒が木製の机に叩きつけられる音が響く。


「私の命を狙っている輩がいるようなんです。これで護衛を頼みたいんですが、いかがでしょう?」


 鞄の中身は帯のついた壱万円札の束。すなわち、百万円。


「こいつは大きく出たね。よほどしつこい相手とみえる」

「私としてもやらないといけないことがある。活動資金のつもりで貯めたお金ですが、命にはかえられません。全額差し上げますから必ず守ってください」


 建前にしてもいい加減なことこの上ないが、金さえあれば文句はないとでも言いたげに洪は札束を改める。贋札でないことを確認して懐にしまうと、ゆうゆうとソファに腰掛けて足を組んだ。


「いいだろう、オレもビジネスマンの端くれだ。引き受けた仕事はきっちりこなすよ」

「そうですか、お願いしますね」


 それだけ言って、早々に席を立つ。菖蒲の背中がドアの先に消えたのを待って、洪はもう一度封筒を取り出して口角を上げた。


「素人サンが焦って金に頼みだしたか。こりゃあ面白くなってきた」

「社長、やっぱり護衛ってのは?」

「必要のないことを聞くんじゃないよ。そりゃあ守ってほしいって意味に決まってんだろ、オレたちからな!」


 呵呵! と笑い飛ばし、万札の束をパラパラとめくってゆく。山のような怪我人を抱えた今、この臨時収入は地獄に仏だ。地獄から生還して仏になるとは、四条サンも因果な人だねと洪はひとりごちる。


「ま、前回は上手いこと逃げおおせたみたいだけど、オレらと真っ向からやりあってるようじゃ憑路じゃなんにもできないからねぇ。警察に駆け込んだところで説明のしようもなし、四条サンはこうやって金でお目こぼしをもらうしかないのサ」

「といっても女子高生ですぜ? その百万円でもどこから持ってきたのやら」

「そりゃお前、女子高生だからいいんだろうに。金がないなら稼がせるのサ。日本の自動車クルマもテレビもカメラもみーんな落ちぶれて、それでも健在なのが女子高生ブランドだよ」

「なるほど。では次は?」

「二ヶ月後、ってとこかな!」


 それが次に金を強請るまでの期間だということは、部下が聞き返すまでもなかった。




    ◆◆◆




 二ヶ月は、すぐに過ぎた。


「結弦ー、あんたどんだけ食べるの?」

「食える時に食うの精神」


 上野駅の南側、中華系の人々が営む店舗が連なる高架下の商店通り。土曜休みに賑わうアメ横ことアメヤ横丁に結弦はいた。買い物に付き合ってほしい、と言ってきた今村薫と歩く結弦の手には、アメ横名物のメロン串とラム串が握られている。


「今村は食べないのか? 俺だけ食べてるのもアレだし」

「私は歩き食いはしちゃいけないって親から躾けられて……ごめん、結弦のとこの事情忘れてた」

「今さら気にしないって。天涯孤独も十年たてばプロだ」

「天涯孤独のプロって何……」


 他愛もない話をしながら歩く人混みには、国籍すら様々な老若男女があふれている。その中のひとり、上野公園で寝泊まりするホームレスとおぼしき汚い風体の男とすれちがったとき、男の独り言が耳に入った。


「か、ね……。かね、を……」


 誰に言ったわけでもない、うわ言のような言葉。それに反応して振り返り、薫は顔をしかめる。


「何今の、生ゴミみたいな臭いしたんだけど」

「……今のは?」

 友人に促されてちらりと視線を向けて、結弦は首をかしげる。

「結弦?」

「ああいや、なんでもない。知ってる人に似てる気がしたけど。人違いだ」


 口ではそう言っておくが、おそらく人違いではない。

 忘れもしない中国系の男、洪博文。

 すでにあそこまで落ちぶれたのかと、もう一度振り返ってみれば男はすでに人の流れに消えた後だった。


「あれからもう一ヶ月か……」


 夜乃に助けられた一件の後、しばらくは帰り道も背後を気にしながら歩いた結弦だったが、結局は洪からの報復のようなことは何もなかった。

 怪我で入院していた――示し合わせて通り魔にやられたということにした――菖蒲に尋ねてみて、その手口の辛辣さに背筋が寒くなったものだ。とはいえそれも日常の忙しさに飲まれてゆき、今では頭の片隅に残る程度の存在になってしまっている。


「結弦、セール始まっちゃうよ」

「待ってくれ、すぐにこれ食べ終わるから」

「なんで増えてるのよ」


 湯気の立つ小籠包のスープに苦戦しながら歩く結弦が思い出すのは、菖蒲が口にしたある『虫』の名前。


『金食い虫』。


 金を浪費するモノを指す慣用句ではない。

 あらゆるものを『食う』憑路に棲む、現世にはいない小さな小さな虫。その名の通り、金に取り憑いて食らい尽くす悪性の害虫だ。それに冒された金を懐に入れれば、やがてすべての金は食い尽くされ、ついにはわずかな小銭すらも手元に残らなくなる。

 一切の富が指の隙間をすり抜けていく、その力は現代の貨幣経済に置いては『命を喰らう虫』と呼んで差し支えない。先刻すれ違った男の惨状こそがその証左だろう。


 こうして菖蒲が身の安全を確保したことを知って、結弦が思わず手持ちの貯金を一円玉一枚に至るまで虫眼鏡でチェックせずにいられなかったことを知っているのは、本人と夜乃ばかりである。

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