仲介人 -2
菖蒲の言葉を証明するように、路地を進むほどに闇はどんどん濃くなってゆく。すでに周囲は暗がりに生きる妖怪の世界、光に生きる人間の踏み込んでよい領域はどこまでなのだろう。結弦がそんなことを考え始めた頃、菖蒲はようやく一軒の屋敷を指さした。
「あそこです」
暗闇の中にぼんやりと浮かぶ和風の屋敷。門構えの表札は読み取れず、ただそこにあることだけが分かる程度の存在。目を凝らしてそれを視認し、結弦が抱いたのは疑問だった。
「あれが?」
違和感があった。羽織の少女と邂逅した後だから分かる、そんな違和感。
あやかしの気配が強い憑路にあって、あれは総元締めとされるほどの存在がいるという屋敷。そこから漂う空気が結弦に疑問を抱かせた。
「『浅い』……?」
暗いほど深い。その原則に照らせば最も深みにあるはずの場所で、結弦が感じたのはほのかな『浅さ』。夜道に立つ煤けた街灯のような、打ち捨てられたホーロー看板のような、どこか安っぽい無機質さが眼の前の屋敷からじわりと滲み出している。
「どうしました?」
「先輩、引き返しましょう」
「え?」
「何かがおかしい」
「何かじゃ分かりません。そんな理由で引き返して、機会を逸したらどうするんですか」
おそらく、『霊感』とでも呼ぶべき何かだ。まったく科学的ではない、だが現代においても多くの人間がその存在を心のどこかで否定しきれない、そういう感覚が危機を訴える。
だが憑路に慣れているはずの菖蒲がそれを気にする様子はない。足踏みする結弦に焦れたのか、先を行く菖蒲の語気が強まる。表現し難い感覚に言いよどむ結弦を待つ時間も惜しいのか、菖蒲は屋敷の門を叩いた。
その瞬間、結弦は叫んだ。
「……下がれ!!」
「なっ」
屋敷から感じていた浅い気配。それが急激に接近する感覚に、結弦は反射的に菖蒲の腕を引っ張り門から遠ざける。直後、門が乱暴に開いた。
「人間!?」
中から現れたヒトガタ、その数一〇以上。露店の主人のような亜人型の妖怪ではない。武器を携えた普通の人間たちだ。
「逃げましょう四条先輩!」
「で、でも」
「早く!!」
門をくぐって出てくる男たちから感じるのは明確な悪意。話し合いが通じる様子ではない。屋敷にこだわる菖蒲をどうにか説き伏せて駆け出す。妖怪変化の危険にばかり目が行っていた自分を恨みながら事態を理解しようとするが、まったく頭が追いつかない。
「なんなんだ、あいつら!」
「……洪社長の差金です」
少し冷静さを取り戻したらしい菖蒲が、追ってくる男たちを一瞥してそう即断した。
「情報は独占することに意味がある、ですか」
「はい。私がいなくなれば地図の内容を知る人間はいなくなる。それが理由でしょう」
「くそっ……。何か対策はありますか?」
洪のことをあれだけ調べていた菖蒲のことだ。こうして自分を消しにかかることも容易に想像できるというのなら、何かしらの策を用意しているはずだろう。
そう期待した結弦に、菖蒲は首を横に振る。
「ありません。元より、腕力で迫られれば対処のしようがないと思っていましたから」
「それなのにどうして……」
「話は後です。一旦あそこに隠れてやり過ごしましょう」
「あそこは……」
結弦の足元に目をやりながら、菖蒲が指さしたのは先刻結弦が覗こうとしてやめた木戸。手で押せば拍子抜けするほど簡単に開く。その先には、木塀の隙間を縫うような細く昏い路地が伸びていた。
十字路、丁字路を左右交互に数回曲がり、奥まった場所に見つけた物陰に身を寄せる。息を整える菖蒲を奥に押し込みながら結弦は外の様子を伺う。ひとまず怒声は聞こえない。
「こんな場所でどこまでもつか……。もっと先へ行きますか?」
「ここより先の道を私は知りません。用意もなく踏み込むのは自殺行為です。それに、彼らはここを見つけられるほど憑路の構造には慣れていないでしょう」
初対面のはずの相手について、そうまで断言する菖蒲に結弦は疑問符を浮かべる。
「慣れてないって、そんなことまで分かるんですか?」
「彼らは、捨て駒です」
菖蒲は苦々しくそう答えた。
「洪社長が組織だって憑路を利用しているのは話しましたね。そういったところで、現世と幻世を行き来するための『道草』が希少品なのは変わりません。憑路に行き来できるのはほんのわずかな人数だけなんです」
「でも、さっき十何人もいましたが」
「つまり、そういうことです」
「なるほど、外道すぎてすぐには発想できませんでした」
捨て駒。死ぬことを前提とした戦力。
その意味がやっと理解できた結弦は、あまりの悪辣さに吐き気を覚える。
「おおかた、憑路のシステムを知らない人間に金を握らせて送り込んだというところでしょう。私たちを処分し、実行犯はそのまま帰れず妖怪に食われて消える」
「現世からすれば完全犯罪の成立ってわけですか」
「……吾川くんの言うとおりでしたね。私は洪社長という男を見くびっていたようです。いえ」
過大評価していたと言ったほうがいいか。そうこぼした菖蒲の言葉に、結弦はふと思いついたことを口にする。
「四条先輩、『道草』は使えない……んですよね?」
一応聞いてみるが、期待はしていない。即座に現世に帰れる『道草』をこちらが持っていることくらい、洪社長は想定済みのはずだから。
「『道草』を使えば、無防備で憑路への門の前に出ます。どこの門に出るかは『道草』を使った場所次第ですが、どこも手が回されていると考えたほうがいいでしょう。ここでやりすごす方が賢明です」
「向こうも地図を持ってますからね……。でも、それじゃいつまで経っても出れないんじゃ」
「全部の門をバラしていれば、そうですね。吾川くん、私がなんて言って地図を渡したか覚えていますか?」
そう言って、菖蒲はどこかいたずら好きな子供のような不敵な表情を浮かべた。
「たしか……。先輩が足で調べた、憑路の入口と道を全て記した地図と」
「いいえ? 『私が足で調べた、憑路の入口と全ての道を記した地図』です」
「……ああ、道は全部書いてあるけれど」
入口は全部とは言っていない。そう返した結弦に、菖蒲は小さく頷いた。
「ふふ、私だって不用心に全て渡したりはしません。とはいえ、ここから洪社長の知らない門までは距離があります。あの暴漢たちをやりすごすまでは息を潜めていましょう」
「ですね」
結弦の返事を最後に、しばしの沈黙が流れる。ほとんど光の差さない物陰で、身を寄せ合うふたり分の呼吸音だけがやたらと耳につく。
密着した左腕から伝わる菖蒲の体温ばかりが気になって落ち着かない結弦だが、それは菖蒲も同じだったらしい。
「あの」
「あの」
沈黙に耐えかねて何か言おうとして、声が重なった。
「あ、先輩お先どうぞ」
「で、ではお言葉に甘えて……。どうして、なんですか?」
「はい?」
「お屋敷の前です。妙に何かを気にした後、彼らが出てくる前に逃げろと叫びましたよね。あれはどうして?」
「ああ、あれは……俺にも分かりません。でもなんだか、屋敷の中だけ憑路の浅い部分と同じ感じがしたというか、何か憑路っぽくない匂いがしたというか。夏の満員電車で、ひとりだけ制汗スプレーをしっかり使ってる人を見つけたような」
「……例え方はともかく、言いたいことはおおよそ分かりました。吾川くんは霊感が強い方なのかもしれませんね」
「そうなんですかね?」
「おそらくの話です。私にはまるでない感覚なので、詳しいことは分かりません」
妖と霊の地である憑路を渡っていく上で、霊感がないというのはおそらく不利なのだろう。歯がゆそうな菖蒲になんと言葉をかけようかと思案する、その思考は即座に中断された。
「……先輩、まさにその感覚の話ですがいいですか」
「え?」
「奴ら、こちらに向かっています」
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