夜乃 -3

「それは教えても大丈夫でしょう。憑路の地図ですよ」


 地図。

 憑路は衛星写真に写らない地であり、結弦の見た範囲でも相当な広さと入り組んだ道を孕んでいる。仮に憑路の存在に気づいた人間がいたとしても、歩き回ることすらままならないのではどうにもならないだろう。菖蒲が自分の足で通い詰めて作った地図ならば、必要とする人間にとっては何にも代えがたい価値があるに違いない。

 なればこそ。結弦は考える。


「先輩、ひとつ提案があります。そのために一点お尋ねしたいんですが」

「なんですか?」

「――先輩が着てるそのジャージ。この近くの中学校ですよね?」


 それから一時間後、結弦たちは地元つくばの隣市、土浦市にいた。

 関東在住者でも知らない者は多いが、茨城県土浦市の土浦駅近郊には中規模程度の歓楽街が存在する。曰く、「北関東最大の歓楽街」。


「自称だそうですけどね」


 JR常磐線で東京から約一時間。茨城県内では比較的アクセスのよいことで知られる土浦駅だが、結弦たちの住むつくば市からだと少々事情が異なる。柏市を通って土浦市に至る常磐線と、その少し北の守谷市を通ってつくば市に至るつくばエクスプレスは地図上ではほぼ並行して走っている。それが最終的に合流するのなら話は早いところ、なんとつくばエクスプレスはつくば駅でストップ。もし線路が伸びていれば五分とかからないであろう土浦駅とは断絶しているのだ。


 なぜそんなトンチキなことになっているのか、結弦も友人、今村薫から聞いたことがある。なんでも東京とつくばを結ぶ鉄道計画はJRが「採算がとれるはずない」と放棄したもので、それを今の運営会社が拾い上げたのがつくばエクスプレスらしい。


 そうして蓋を開けてみればつくばエクスプレスはドル箱路線。利用者数は右肩上がりで沿線の地価もうなぎ上り。そんな経緯があったものだから、未だにJRとは折り合いが悪く土浦駅とつながる見込みは立たないとかなんとか。

 利用者にとってみれば迷惑極まりない話ではあるが、文句を言ったところで何が変わるわけでもなく。バス移動で片道五五〇円という、高校生にとっては決して安くない出費を結弦は甘んじて受けていた。


「先輩、いえ、四条生徒会副会長」

「なんですか急に」

「歓楽街って立ち入っていいんですかね、校則的に」

「……これは立ち入りではなく通過だからセーフです」


 液から徒歩十分、昼間でも色とりどりな看板の間を歩く菖蒲の足は、言葉通り店の並びからやや外れた隅の方へと向かっている。


「ここです。これから面会の約束があります」


 その灰色の三階建てビルに掲げられた社名は、『洪企画』。


「こうきかく、ですか?」

「中国語読みで『ホンきかく』です。社長の父親は台湾系の裏稼業、母親は日本から派遣されていた会社員。なにがしかの縁で結婚して息子をもうけましたが事業に失敗し、母親の親類を頼って日本へ来て、東京でも似たような事業を始めてまた失敗。縄張りを失って行き着いたのがここです。今の社長がその息子です」

「詳しいんですね」

「大変でした……」


 この手の相手は苦手だからこそできる限り調べてきたと言いながら、菖蒲は煤けたインターホンに指をかけた。


「四条です。食事のお約束をしております」


 飯の話。

 そこらの女子高生が、こんな場所に事務所を構える相手と仲良くランチの約束などするはずもないことは結弦にもすぐ分かった。つまり。


「ここも憑路の関係者ってことですね」

「憑路を、食らおうとしている人たちです」


『どうぞ、お入りください』

 電子ロックの錠が外れる音がした。


「おたくが四条サンか。はじめましてだが自己紹介はいらないね?」

「はい、お互いに」


 普通の事務所だ。

 ビルの三階に通された結弦が初めに抱いた印象はそれだった。虎の毛皮だとか日本刀だとかよく分からない達筆の掛け軸だとか、極道ドラマで目にしたそういうものはない。机に座っているのがいやに目つきの悪い男ばかりである点を除けば、パソコンの乗った事務机と書類ばかりの、なんなら職員室と大差ない空間だった。

 そんな事務所を抜けて応接室と書かれた場所に待っていたのは、短くそろえた黒髪に茶色い色メガネをかけた長身の男。年の頃は四十前後といったところか、タバコの匂いが染み付いたソファで足を組んでいる。

 挨拶もそこそこに席についた菖蒲に続いて、結弦も小さく頭を下げてソファに腰掛けた。


「ところでそちらは? 彼氏同伴とは意外だね」

「どうも、荷物持ちAです」

「彼もあの場所には行ったことがありますしあらましは知っています。これでいいですか?」


 端的に説明する菖蒲に、洪はどこか愉快そうにパンと手を打った。


「オーケー、さすが『骨喰い』の四条菖蒲。よく分かってるじゃないの」


 骨喰い。肉親同士の争いを骨肉の争いと呼ぶことから転じて、実姉を代価に料理の腕を手に入れた菖蒲を指す憑路関係者間での通り名だと、結弦はそう聞かされている。


「恐縮です、憑路嫌いのホン 博文ブォエンさん」


 憑路嫌い。その言葉に洪の口角がにやりと上がる。


「あそこの連中はダメだ。言葉遊びだかなんだか知らないが、何を言うにも回りくどくて埒が明かない。必要なことを必要なだけ言えばいいって、そう思うだろ少年?」

「その点に関しては分からなくもないです」

 憑路で出会った憑爺の芝居がかった言い回しを思い出しながら、結弦は頷いた。

「さて、お互い暇ってわけじゃない。今日はどんなご用向きかな?」

「『夜乃よの』とコンタクトしたいので方法を教えてください」


 単刀直入。まさに洪の言う通りに目的を明かした菖蒲に、にやついていた洪の目が急に熱を失った。


「目的は?」

「それは答えないといけませんか」

「分かりきったことを言わせんじゃないよ。オレは必要なことしか聞かないし言わない。目的は?」

「姉を探しています。憑路で別れてから年が経った今、その足取りを知っているとすれば憑路の全てを知るあの方だけです」

「好耶! そういう理由はあの女好みだ」


 好み。ものの白黒を好みで決められるのは特権の持ち主だけだ。


「下手な人間を取り次いだとなれば、そちらも憑路でやりにくくなる、と。なるほど聞いていた通りに力のある女らしいですね」

「これを」


 そう言って、菖蒲は茶封筒を取り出した。先程、自宅で結弦に見せたのと同じサイズに厚みの、細長い定形封筒。


「この大きさに薄さ、金だとしたらずいぶんとケチだね。小切手かい?」

「おっと」


 封筒を手に取ろうとした洪から、結弦が封筒を引き離す。これは見られればその時点で効力を失う、そういうものだと理解したらしい洪は目で続きを促した。


「これは私が足で調べた、憑路の入口と全ての道を記した地図です」


 洪の眉がピクリと動いた。しかしそれも一瞬、元のにやけた笑いに戻る。


「バカ言っちゃいけないよ四条サン。ウチだって憑路でビジネスやってるんだ。入口なんて知ってるに決まってるだろう」

「ええ、ひとつだけですね」


 洪の言葉にも動じず、菖蒲は机上の封筒をトントンと指で叩く。


「貴社のビジネスについては存じています。現世で仕入れた食品を廃棄したことにして憑路に売り払い、得た利益を『誰かが吸った甘い汁』だとか『誰かが貪った暴利』だとか、それ自体は形を持たない有価物に変換しているんでしょう?」

「仕入れたものを廃棄したことにすれば、利益はマイナスで資産はゼロだから税金がかからない。憑路を使った脱税とはよく思いついたもんだ」

「それだけじゃないサ。廃棄扱いにするには廃棄証明書が必要なんでね、大陸各地の業者に金を流して工面している。それに全部を廃棄だとさすがに税務署も感づくから買ったことにしてくれる相手だって必要だ。そうやってコネクションも広げるところまで含めてウチの商売だよ」

「だが、それももう長くは続かないでしょう?」


 トントンと封筒を叩いていた菖蒲の指が止まった。


「夜乃のせいで」

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