夜乃 -2

「それで素直にやって来るところ、私は好きですよ」

「それは皮肉ですか?」

「はい、これは皮肉です」


 英語の教科書みたいなやりとりをしつつ、結弦はコーヒーを出してくれた菖蒲に小さく頭を下げる。

 羽織の少女との出会いから一夜明けて土曜日。理事長の月島が憑路に絡んでいるという菖蒲の考えが正しいなら、学校で声をかけるのは危険。何よりそう判断した結弦は、休日の朝に菖蒲の部屋を訪れていた。呆れた顔をしながらもコーヒーを出してくれる辺り、やはり根からいい人らしい。


「吾川くん、二度と私と関わるなって言いませんでしたか?」

「言いましたね」

「言いましたよね」

「俺、分かりましたって言いましたっけ」

「……言ってませんね」

「屁理屈ですみませんが、事情が事情なもので」

「もう……」

「お礼はしますから」


 反論しようにも言葉が出てこない様子でぐぬぬとしばらく唸ったあと、菖蒲は観念したように佇まいを正した。卒業してから部屋着にしているのだろう、中学の校章が入ったジャージのポケットからメモ帳を取り出してパラパラとめくっている。


「それで、何を食い逃げしたんですか?」

「『誰かが貪った惰眠』をひとつ」


 憑路には『知識』だとか『惰眠』だとかの無形の概念を、宝石のような見た目に固定する技術があるらしい。結弦が食い逃げしたことにされているのも、そうして固められたもののひとつだ。


「技術というほどのものでもありませんよ。誰もが涎を垂らして欲しがるのに口では食べられない、そういうカタチを自然ととるように憑路ができているだけです」

 だから宝石や貴金属に似るんだと挟んで、菖蒲は続ける。

「それを買った夜のことは覚えていますか?」

「はい?」

「夜です。何をしました?」


 意図の読めない問いに首を傾げつつも結弦は記憶を辿るが、なにしろ一ヶ月前のことである。

「すみません、細かいことまでは覚えてません。四条先輩と別れた後はまっすぐ家に帰って、早めに寝てしまったので」

 あれだけのことがあった後でよく重松教諭の社会の課題を終わらせたものだと、結弦は今さらに一ヶ月前の自分に感心する。おかげで翌日の授業では眠気との戦いだったが。


「次の日、眠かったんですね?」

「相当に」

「そうですか、不幸中の幸いですね」


 真夏だろうと構わず淹れたホットコーヒーをひと口すすった。コーヒーはあくまでホット派らしいと結弦は特に必要のないことを知る。


「憑路にも胡散臭い商売をやる店はあります。同じ『惰眠』でも質はピンキリで、高価なものなら一週間はシャッキリポンです。次の日に眠くなったくらいの品なら三級品、支払い自体は難しくないでしょう」


 ひとまずの良い返答に結弦は胸をなでおろす。食い逃げ容疑の方はどうにかなりそうと分かったところで、残るはもうひとつの問題だ。


「その後、帰るための『道草』も買ってもですか?」


 現世を生きるヒトが幻世である憑路に入りこむことは、たとえ狙っていたとしても『寄り道』とみなされる。つまりは『憑路で道草を食った』ことになり、もう一度『道草』を手に入れて食べなくては永遠に憑路をさまようことになってしまう。

 異世界生活と言えば聞こえはいいが、そんなファンタジー小説が如きもののために現実を捨てられるほど結弦は夢見がちな少年ではなかった。


「それはまた別の問題です」


 それまでよりも幾分か温度の低い口調で言い、菖蒲は空になった自分のカップにコーヒーを注いでひと口飲み下す。


「誰かがどこからか仕入れてきたものが、いずれかの店にふと並ぶ。『道草』はそういうものです。その場で探して手に入るものではありません」

「そんなに……?」

「そもそも憑路に行って帰ろうなんて人の方が少数派ですから。築地市場と繋がっていた頃ならともかく、存在自体がほとんど知られていない今では需要も減っていますし、需要が少ないなら供給もしかりです」


 一ヶ月前に口に詰め込まれた青臭さが急に高級なものに思えてくる。とすれば、と結弦は身を固くする。


「もしかして、俺に食べさせてくれたのってものすごく貴重なものだったんですか。もう残り少ないとか、まさかあれが最後なんてことは」

「その質問には答えられない理由があります。吾川くん、ここに来たのは憑路の使いに勧められたからと言いましたね」


 実のところ、あくまで自分の問題なのだからと、ひとりで向かおうと考えたこともあった。だがそれが自殺行為でしかないことは結弦にも分かる。そう考えてのことではありつつ、羽織の少女の言葉に従ったのかと言われればその通りだ。


「カモにゃんですよね、その子。私のところにも来ましたよ」

「カモにゃん」


 二択でそっちを選んだのかと結弦は意外そうな目を向ける。菖蒲の方は結弦の視線の意味が分からず眉を寄せるのみだが。


「あれ、そう呼べと言われませんでしたか?」

「あ、いえ、なんでも。先輩のところにも行ったんですか?」

「全く同じことを言われました。嘘は嫌いなので正直に言いますが、私も協力者が必要だったんです。憑路のことを話しても大丈夫な人で、できれば頭が切れて腕力と迫力のある大人の男性を探していました」


 言いながら、菖蒲が取り出したのは味気のない茶封筒。厚みはほとんどなく、中身が紙一枚程度だろうと推測できた。


「吾川くんは……全て満たしているとは言い難いですが、ないものねだりはやめましょう」

「どれが不合格だったかは聞かないでおきます。それで、これは?」

「交渉材料です」


 手伝いが必要、用意された交渉材料。

 菖蒲は淡々と言っているが、ここから察することができるのはあまり穏やかでない未来。


「危険な相手と交渉しないといけない、と?」

「ええ、必要なので」

「なるほど」


 そこまで聞いて、結弦は思案する。

 相手が憑路絡みであることは間違いない。憑路のことを話しても、という表現からして相手は現世、こちら側の世界の人間だろう。さらに危険が伴うとなれば自ずと相手は絞られてくる。

 暴力団、ないしはそれに近い何かだ。その手の相手に、『道草』の残量すら知られるのは弱みを晒すことになる。結弦にも安易には教えられないのだろうと、結弦は理解して話を進める。


「じゃあ先輩、この封筒の中身はなんですか?」

「それは教えても大丈夫でしょう。憑路の地図ですよ」

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