憑爺 -3

「なんでもあげるから、私たちを早く帰して!!!」


 歪む視界と耳鳴りの渦中、吐き気をこらえて無我夢中で叫んだ菖蒲の言葉。それが憑路に吸い込まれた途端に、憑爺の纏う雰囲気が熱を失った。常に浮かべていた微笑がわずか、ほんのわずかに、口角の歪んだものへと変化している。


「そうかそうか。では菫君、これは君のものだ」


 持っていた『道草』を、菫の空いた左手に握らせる。手触りは普通の草と変わらない。


「それではごきげんよう。気が向いたらまた遊びに来たまえ」


 ひらひらと右手を振る憑爺に、しかし菫は食ってかかった。


「待ってください! 『道草』がひとつしかありません!」

「うむ、だからそれは君のだ」

「菖蒲のぶんももらわないと帰れません!」

「おや、これは異なことを言う」


 やはり。浮かべていた微笑はもう疑うまでもなく歪んでいた。


「『なんでも』、くれるのだろう? ならば遠慮なくと、子供をひとり譲り受けただけのことだ」


 肉として『食う』、精気を『吸う』、あえて泳がせつつ『骨の髄までしゃぶる』。食われる側としての子供の価値は侮れないのだよ、と。

 さも当然のように、藍染の袖を揺らしながら、男はそう言った。


「でも! 私たちは契紙にまだ何も書いてません!」

「おやおや、契紙を『ちぎらなくてはならぬ』などと言った覚えはないぞ。君は茶屋で団子一本買うのにもいちいち契約書を書くのかね? そんな手間をかけずとも、そこに同意さえあれば取引は成立する。ごくごく当たり前の話だろうに」

「初めから、そのつもりで……!」

「いやいやそんなことはないとも。これは小さな不幸、ほんの些細な認識の相違が生んだ事故だ。もっとも事故だろうと同意が成立すればそれは覆らないがね」


 震えながら憑爺を睨む菫に体重を預けたまま、菖蒲は朦朧とした頭で必死に考える。だが破裂しかかった脳では解決策はおろか状況の理解すら追いつかない。このままだと自分たちの身が危ない、それだけが直感的に分かる。


「菫、どうしよ……むぐ!?」


 口に感じる青臭い繊維質。それが菫に口移しされた『道草』だと菖蒲が気づいた時には、狐火も提灯も露店も、全てが闇の中へ遠のき始めていた。

 菖蒲の顔から血の気が引く。吐き気もめまいも忘れ、おぼろげになりはじめた姉に手を伸ばすが霞でも掴んでいるかのように届かない。


「お姉ちゃん! 何してるの!?」

「菖蒲は『なんでも』としか言ってません。対価として子供ひとりが妥当だっていうなら私でもいいでしょう?」

「ほう、これはこれは。料理人の知識を持った彼女の方がいくらかの価値はあったが、まあ黒字には違いない。ここはその意気に免じてよしとしよう」


 鬼の好物といえば人間の子供と相場も決まっていることだしと、露店の主に向かって愉しげに嗤う憑爺の声だけが菖蒲の耳に反響する。その声を辿って戻ろうともがくが、身体はどんどんと憑路から引き離されていく。

 憑爺に促されて市の奥へと向かう小さな背中。それが、菖蒲が最後に見た菫の姿だった。




    ◆◆◆




「そうして何もできないまま送り返され、気づけば築地の路地裏に立っていた。それが事の顛末です」


 結弦の想像以上の話だった。理解はできるが追いつかない、そんな表情を浮かべる結弦に、菖蒲はさらに続ける。


「三年前に築地市場が移転して、手がかりは全て失われたと思ってました。でも調べているうちに、この学校と憑路が繋がっていることが分かったんです」

「それでここに入学を?」

「ええ。憑路と、憑爺と名乗っている男に近づくためです」


 収穫はまだゼロですが、と少し震える声色で言い、菖蒲は冷めきったコーヒーを流し込む。空になったコーヒーカップからの残り香が鼻をくすぐる。


「学校理事長、月島継嗣。私は奴が何かを知っていると考えています」

「月島理事長? 何故?」

「同じなんです。あの日に聞いた声と、あの男の声が」


 高校生にとって、身近なのは普通は『校長』の方であって『理事長』は目に触れることもほとんどない存在だ。それでも結弦のような一般生徒でも月島継嗣を知っているのは、彼が生徒会長である月島修司の父親だからだ。


「それはおかしくないですか?」

「何がですか?」

「今日、俺が会った憑爺は四条先輩の話よりずっと若かった。生徒会長の月島さんの方なら分かりますが……」

「だから収穫はゼロなんです。奴について、私は何も知りません。ここに入学して一年、できる限りのことを調べたのにです」

「それでも、俺を助けてくれたんですね」


 憑爺は菖蒲にとって底の知れない仇敵であると同時に、菫の足取りを追うための最大の手がかりだ。そんな男の前に躍り出る、それが菖蒲にとってどれほど重みのあることかは想像に難くない。


「……たまたま見かけたからです」


 過去の自分と重なったから、などと言わなかったのは彼女なりの意地なのだろうと、結弦は言葉を飲み込んだ。


「警察には、なんと?」


 黙っていても間が持たず、かといってとの気の利いた言葉など出ても来ずの質問。菖蒲もそれを見透かしたように口調で返す。


「なんとも何も、子供の行方不明事件として扱われただけですよ。小学六年生の四条菫さんは妹と築地に遊びに来て、途中ではぐれてそのままいなくなりました、で終わりです」

「そんなはずないでしょう」


 終わりなものか。その状況で、菖蒲が追求されないはずもない。だが正直に言った所で嘘とみなされるか、ことと次第によっては精神病棟行きになるのが関の山。沈黙とはぐらかしを貫くしかなかったことは結弦にも容易に想像できる。

 その問いには答えず、菖蒲は菫の写真をそっとノートに挟み直した。


「それで、どうですか」

「どう、というと?」

「必要なことを聞けましたかと訊いています」

「それは」


 必要なことだけ聞いたら帰る。そういう約束だったことを思い出して結弦は言葉に詰まる。

 結弦の見立てでは、菖蒲の持つ情報はこれだけではない。憑路とは何なのか、目の前のノートには菖蒲が集めた情報の全てが記されているに違いない。自分が見てきたものの答えがそこにあるのなら知りたいと願うのは人間の性分だ。


「……もうひとつだけ」

「なんだ」

「料理人の夢は、どうされたんですか?」


 それを聞いてどうなるのだろうと、結弦も自分で思う。だが他の全てをおいてでも訊かずにはいられなかった。

 結弦たちの通う高校は普通高校だ。調理関係の授業もごく普通の家庭科しかないし、料理部は数年前に廃部になったと聞いている。何より、菖蒲が住むこの部屋にあるのは資料のみで最低限の調理器具すら見当たらない。

 十年分の味と姉。あまりに重い対価を支払って掴んだはずの夢は、どうなったのか。


「憑路から戻って以来、私は誰かに料理を作ったことはありません。これからも作ることはないでしょう。姉を探すために勉強して、進学して、就職して、見つけるまで生き続ける。それだけです」

「……すみません」

「何ですか急に」


 いきなり頭を下げた結弦に怪訝な顔をした菖蒲は、目の前のカップを見てはたと気づいたように目をそらした。


「……コーヒーは料理に入りません」


 しばしの沈黙。結弦からの質問はもうないと見てか、あるいは単に気まずさからか、菖蒲は立ち上がった。

「帰り道は分かりますか? 分かるところまで送りますよ」

 気づけばかなりの時間を話し込んでいたことに気づき、結弦は慌てて鞄を手に取る。


「すみません、長居してしまって」

「いえ」


 梅雨の晴れ間か、雨は上がっているようだ。薄いドアを開け、改めて助けてくれた礼を言う結弦を遮って、菖蒲は言った。


「あなたにも憑路で叶えたい何かがあるのかもしれませんが、やめておくべきです。あそこは人間が通う場所じゃありません。一度でも染まれば、一生を食い潰されます」


 結弦の返事は待たず、それと、と付け加える。


「二度と私とは関わらない方がいいでしょう」

「理事長を敵に回すかもしれないから、ですか」


 あの理事長が本当に憑路を繋ぎ止めたのなら、得体のしれない力の持ち主だ。そんなものを相手取る時に巻き込まないように、という菖蒲の気遣いなのだろう。

 それもありますが、と、菖蒲は首を横に振る。


「私が、実の姉すら売り払う人間だからです」


 結弦の返事を待たず閉じられたドアに、結弦は黙って頭を下げた。助けてくれた礼と、あと、少しでも幸運を祈って。

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