憑爺 -2
子どもといえど現世を生きて十年と十二年。母のハンバーグ、ファミリーレストランのドリア、コンビニで買った駄菓子などなど、質はともかく食べた数だけは馬鹿にならない。
「私たちもカレイドみたく、その『食べた』経験を売り買いできるってことですか」
「菫くんといったか、君は聡いな。幸い、十年も欠かさず食事を与えられてきた子供の舌は珍しい。君らふたりぶんも合わせればこの石に釣り合おうさ。いかがかな、店主?」
「へ、へぇ! そんだけいただけば十分でごぜえます」
「そうだろうとも」
手に入る。世界一の料理人の知識が。あらゆる美食を収めた偉人のレシピが。
「でも、それを買うと今まで食べたものの記憶とかどうなるんですか」
「無論、消えてなくなる」
微笑のまま返された回答に、菫の背中がビクリと震えた。
生まれてから今までに食べたもの全てを失う。自分の舌が全ての味を忘れる。それがどのような体験なのか、それは菫が想像できる範囲を超えすぎていた。
躊躇う菫を横目に見て、だが菖蒲は前に出た。
「……私のだけじゃ、ダメですか? 私たち、だいたい同じものを食べてます!」
子供の夢など週ごとに変わることも珍しくない。浮草の方がまだ頼りがいのあるくらいのものだが、それでも。それでも菖蒲は本気だった。料理人になりたいという菖蒲の思いは、少なくとも今この時は、母の味を差し出すに足るものだった。
「これこれ、半額はちと値切りすぎというものだろう」
「……菖蒲、私のも出すよ」
「で、でも……」
「これを買えたら、菖蒲がもっと美味しいものを作ってくれるんでしょ?」
お姉ちゃんはその方が楽しみだよ、と。無理に作ったような笑顔で、菫はそう言った。
「……作る。いくらでも、世界一美味しいものをお姉ちゃんに食べさせてあげる!」
「うん。それで、どうすればいいんですか?」
人の決意が鈍ることを、小学生ながらに菫は知っている。自分のそれがまだ強いうちに話を済ませてしまおうと憑爺を急かすと、憑爺は露店にぶら下がっていた紙束を一枚ちぎりとって菖蒲に渡した。
「憑路での取引にはこれが使える。『契紙(ちぎりがみ)』といって、束からちぎって売り買いの仔細を書き、互いの血判を押せば商談成立だ。憑路においてこれを破ることは一切通用しない。これを使って不正を働けば憑路を追放されることすらある。なぜだかどういう仕組だか誰も知らないが、そういう風にできている」
「契約書?」
「そうさな。商売人の基本のキだ」
「じゃあ、これに私たちの記憶とカレイドの記憶を交換するって書けばいいんですね」
「うむ。書き方を指南しよう」
慣れない毛筆に悪戦苦闘しながら、菖蒲が書き上げたミミズがのたくったような契紙。それに露店の店主と菖蒲と菫の血判――指を切ると聞いて決意が鈍りかけたことはお互い黙っていた――を押す。
「おめでとう。改めて、ようこそ憑路へ」
『デコピン』。
菖蒲が感じたそれを、十歳の菖蒲の知る言葉で表現するならば『デコピン』だった。弾かれるような衝撃とともに脳が揺さぶられる感覚。痛みはないが後頭部まで貫く一瞬の不快感。
それが終わった時、菖蒲と菫は体験したことのない虚無感と空白感に思わずうずくまった。
「あ、あ、あ、あ」
「うぇぇ……」
今までの生で積み上げてきた何かを失い、何を失ったかは知っているのに何を失ったかが判らない。その矛盾が幼い少女たちの脳を締め上げる。耐えきれず嘔吐した菫は、舌を這う未知の味が胃液の酸味と苦味であることを理解してもう一度吐いた。
「ふむ、少々身に応えると先に言っておけばよかったかな。なに、じきに慣れる」
「カレイドの、石は」
「おや、もう立ち上がったか。菖蒲くんはたくましいな」
「これ、どうやって、使うの」
青い顔で買い取った碧色の宝石を握りしめる。日頃から姉を振り回してばかりの菖蒲だったが、ここまで巻き込んでおいて黙って寝ていられるほど不義理でもなかった。
「頭に押し付ければよい。深く呼吸し、真綿に水を染みさせるように」
「こう、かな」
すぅ、と。菖蒲の手で生ぬるくなった宝石が菖蒲の額に吸い込まれ、真鍮の台座だけが石畳に落ちる。カランと軽い音が鳴ったと同時、菖蒲は先ほど以上の不快感にのたうって地に転がった。
シチリア島のパティスリー、塩とレモンカードのケーキ。
カンボジアの夜市、発酵した魚肉で和えたサラダ。
福岡のレストラン、魚卵のホットソース漬けを用いたソース。
セントヘレナ島のカフェ、ナポレオンが愛したコーヒー。
「なに、これ、どこ、どこ、だれ、どこ、なに」
これまでの人生全てを足しても到底及ばない量の知識が、情報が、情景が、脳の皺を押し広げて割り込んでくる感覚。頭蓋骨の中身が両目から噴き出すがごとき激痛。
「だれ、ダレ、だれダレだれ、誰誰誰誰誰誰誰誰誰ダレ誰誰誰誰」
記憶の中、鍋を混ぜるこの手は誰の手だ。いま目の前にある子供の手と、神業で料理を仕立てる老人の手が、頭の中で重なり合い溶け合ってゆく。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「なるほどなるほどおっかない、齢十の子供に八十余年分の知恵を詰め込むとこうなるか。これはひとつ賢くなった」
「あ、菖蒲?」
「寄らぬ方がよかろう。苦痛で加減を忘れた人間の力は侮れん」
八十年かけて蓄えた知識と経験。料理の知識のみといえど、それは十歳の自我を蝕むには十分な負担だった。頭をかきむしりながら石畳の上を転げ回る菖蒲に菫も手を出せない。
しかし、それも数分のこと。
「あぁああああああ!!」
最後に一声叫ぶと、菖蒲は電池が切れたようにパタリと動かなくなった。
「菖蒲? ねえ、菖蒲!?」
ひとしきり苦しんで動かなくなった菖蒲の肩を菫が揺する。白目を剥いた菖蒲はただただ無反応だったが、やがてゲホゲホと咳き込んで目を覚ました。
「だ、だいじょうぶ、ほんと」
口では強がってみる菖蒲だが、目の焦点が合っていない。小四しては平均的なはずの身体が異様に軽く、小さく感じる。尋常でない悪寒を覚えていることは、菖蒲の顔を覗き込んだ菫にも容易に見て取れた。
「平気に見えないわよ」
「お姉ちゃんだって唇まっさお……あはは……」
「またそんなことを……。もう帰ろうよ。これ以上は無理だよ」
「……うん」
菖蒲はグラグラと焦点の定まらない目をどうにか開き、未だ破裂しそうな頭を持ち上げる。早々に現世へ帰らねばどうにかなりそうだ。肩を貸し合って立つふたりを、憑爺は相変わらず微笑を浮かべたままに眺めている。
「憑爺さん、憑路の仕組みはよく分かりました。そろそろ帰る方法を教えてくださいませんか」
「うむ、やはり物事は万事身を以て学ぶに限るな。よかろう、では問おう菫君、君たちはここで何をした?」
「何、って、買い物です」
「もっと広い意味で、だ。本当は別の目的地があったところ、ここで寄り道をしたのだろう」
かすみのかかった頭で菖蒲は気づいた。
寄り道をした。憑路風に言うとそれは。
「道草を、『食った』……?」
憑路では、食ったものは戻らない。
「その通り。そして憑路では『道草』とはこのように形を持っている」
藍染の袂から取り出したのはひと束の青草。形はヨモギに似ているがやや大ぶりで、色も遥かに青々しく毒々しい。
「『憑路で食ったものは戻らない』。君たちが食った道草はなくなってしまった、だから現世へ帰るにはこれを新たに買って食わねばならない。とまあそういう道理だ」
「買う、って。そんな、だって私たちはもう」
憑爺の言葉を理解した菫の顔が青ざめてゆく。『道草』がいくらするのか菖蒲も菫も知らない。分かっているのは、今しがた自分たちが全財産を支払ったばかりだということだけ。
カレイドの知識も『貪って』しまった以上、菖蒲と菫に払えるものは何も残っていない。
「いやいや、諦めることはない。人間その気になれば売れるものはいくらでもあるでな、ちと長くなるがひとつひとつ順を追って教授するとしよう。さてはてまずはどれからいったものか。順序の誤りは理解の誤り、ここは思案のしどこだぞ」
うんうんと唸り始めた憑爺。そうする間にも菖蒲の呼吸は荒く、目は虚ろになってゆく。
「……から」
「む、何か言ったかな」
「なんでもあげるから、私たちを早く帰して!!」
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