憑爺 -1
「で、菖蒲? どこに行くの?」
「『鮨処 しばらく』って店! お父さんのお友達がやってて、大サービスでお寿司を出してくれたりバックヤードも見せてくれるんだって!」
「しばらく、しばらくね。えっと……」
事前に用意していたらしい地図を広げる菫の横で、菖蒲は落ち着き無く周囲を見回している。
「ぐるっと回り込んで行く感じになるから、ここからちょっと歩くね。はぐれないように気をつけないと」
「えー」
時間が惜しい。即座にそう考えた菖蒲が目をつけたのは、右手に見える店と店の間の狭い路地。
「お姉ちゃんお姉ちゃん、ここ行けば近道できるんじゃない?」
まさにそういうことをしないで欲しいと言いたげな菫を手招きしつつ、菖蒲は路地を覗き込む。ダンボールやポリバケツに遮られて見通しはよくないものの、薄暗い小路は確かに目当ての方角へと向かっていた。
「んー、地図には載ってない道だしやめた方がいいんじゃないかな……。変なところに入って怒られても大変だし」
「とりあえず行くだけ行ってみる!」
「ちょっと菖蒲―?」
駆け込む菖蒲の後ろから覗いてみて、路地の奥がかなり入り組んでいることが菫にも分かる。こんな場所で菖蒲を見失っては大変だという判断に、少しばかりの冒険心も手伝って、菫もまた路地へと潜り込んだ。
そうしてふたりはたどり着いた。当時は築地の裏側、今は学校裏の廃墟にある『憑路ノ市』に。
「おやおや、今日の客人はずいぶんお若い。まあここのご歴々からすれば人間みな童子のようなものだがね。ともあれ、ようこそ憑路へ」
突然目の前に現れた朱塗りの大門と、その向こうに広がる狐火の夜市。ひと目に異質と分かる光景を前に立ち尽くした少女たちに声をかけたのは古めかしい言い回しを使う和服の男、『憑爺』であった。仮面で分かりにくいが、歳は菖蒲たちの父親よりは上、といったところだろうか。
「なるほどなるほど、菖蒲くんは料理を学ぶため築地へ。実に感心感心。それに付き添う菫くんも妹を案じる心意気の持ち主らしい」
「すごーい、妖怪だよ妖怪」
「あの、それでどう帰れば……」
少女ふたりを伴い、憑爺は迷いない足取りで憑路を奥へ奥へ向かう。キョロキョロとよそ者丸出しの菖蒲の分まで不安になってきた菫が問いかけると、憑爺は足を止めた。
「なに、入るは自由だが出るには少々手順があるのがここの仕組みでな。それを理解してもらうためにあつらえ向きの場所を目指している。心配するなと言っても無理な話だろうが、こればかりは着いてきてもらわぬことには話が始まらんのだよ」
「そう、ですか」
知らない人には着いていかない。
菫にもそれくらいの分別はあるが、全身毛皮のヒトガタやら口の裂けた犬やらがうろつく場所で、少なくとも目がふたつに鼻と口がひとつ、手足が二本ずつで人語まで解する相手と出会えたことが類まれな幸運であろうこともまた事実。迷いながらもおとなしく憑爺の後ろを着いて歩いていた。
黙り込んだ菫に「よきかなよきかな」と頷いて再び歩き出そうとした憑爺は、しかし菖蒲に目を向けて小さく微笑んだ。
「ふむ、あつらえ向きの場所をと言ったが、どうやら順序が変わったらしい」
「……菖蒲?」
菖蒲は露店の前で立ち止まっていた。赤い提灯の下がった木造の露店にはこまごまとした品が雑多に並び、右の骨には細長い紙束が麻紐で吊り下げられている。その奥から菖蒲をじろりと見つめる店主は痩せこけた単眼の男、否、目を凝らすと頭に小さな小さな角がある。
「鬼の店なんてあるんだ……」
「角を折られた鬼にはままあることだとも。百年かけて生えそろうまで自慢の剛力は戻らんでな、荒事は休業して商いに精を出す。鬼の販路は他と異なるゆえ珍品が入ることもあるが……さてはて、掘り出し物でも見つけたかな」
菖蒲が魅入られたように見つめるのは西洋風に装飾された碧の宝石。日本昔話のような怪異がひしめくこの市場――昔話の方が憑路を基にしたのだと憑爺は言ったが――にあってはやや異質な品だ。
菖蒲に駆け寄った菫は、宝石につけられた札を見て首をひねった。
「シュヴァリエ・カレイドの知識……? ねえ菖蒲、カレイドってたしか」
築地市場での会話を思い出した菫が尋ねるまでもなく、菖蒲は小さく震えていた。
「レジオンドヌールとか国家最優秀職人章とか、とにかくとれる勲章ぜんぶとってるフランスが産んだ美食の奇蹟。フランス料理だけじゃなくて中華もトルコも和食もこなすから万華鏡(カレイド)って呼ばれてたんだけど五年くらい前に突然引退しちゃって、それがなんでこんな場所に……」
「とのことだが店主、こいつをどうした?」
「憑爺の旦那じゃねぇですか。こいつはどうも」
見るからに無愛想だった店主が、憑爺が現れた途端に背筋を伸ばした。自分たちが拾われたのはそれなりに立場のある人物のようだ、と菫は察する。
「彼らは暇な爺に付き合ってくれる心優しい少女たちだ。よければその品について聞かせてもらいたい」
「そりゃもう喜んで。こいつは正真正銘の本物、稀代の料理人かれいどが短い一生を使ってせこせこ『貪った』知識が詰まってまさ」
「短い……? カレイドはもう八十何歳だよ?」
何百年と生きるここの住人からみれば人間みな童子、という憑爺の言葉は菖蒲の耳のは入っていなかったらしい。
「その知識って、本当に料理の作り方の知識ですか?」
「そうよお嬢ちゃん。料理人のケツの拭き方をご所望なら、すまんがよそを当たっとくれよ」
「いくらですか!?」
店主の冗談も聞き流し、菖蒲が身を乗り出す。
なるほど、店先に並ぶ商品はどれも名前だけで値札がない。だが菫は首を横に振る。
「ダメだよ菖蒲、こんなの絶対高いって」
「これがあればすごい料理人になれるんだよ!?」
「そうかもしれないけど、お土産買えるだけのお金じゃ無理だよ」
「う……」
「ところがどっこい、そうでもないぞ」
消沈しかけた菖蒲と菫の間に憑爺が割り込む。手には緑色の宝石『カレイドの知識』がつままれている。
「見たところこいつは『作り方』の知識であって『食べた』知識ではない。さて、そのふたつの違いが分かるかな?」
「作り方の知識と」
「食べた知識の違い?」
「書に記せるか否か、さ」
宝石の中身を見透かすように朱色の提灯にかざしながら憑爺の解説が続く。
「
「だからって、私たちのお小遣いでどうにかなるのかな……」
「残念無念、それは大人の買い物にはちと足りん。だが言ったろう、ここは食えるものならなんでも売り買いができる場所。そこにはひとつの決まりごとがあると」
授業の復習をする教師のように問いかける憑爺に、菖蒲に代わって菫が答えた。
「『現世で食べたものは憑路で売り買いできる。でも憑路で食べたものはもう戻らない』」
「うむ、正答だ。素寒貧の君たちでも、腹と頭に売れるものを蓄えているというわけさ」
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