骨喰い・a -3
「これが憑路だ。ご理解いただけたかね?」
「すごい……!」
食えるものなら全てが売り買いできる。それはまさしく言葉通りの意味だった。
この世ならざる法則を知った結弦は、冴え渡る頭のままに憑爺へと詰め寄っていく。
「もしかして、『甘い汁を吸う』とか『辛酸を舐める』とかも?」
「あるともさ。その様子、何やら探しモノでもあると見える」
「ええ、俺の――」
問われるままに開いた結弦の口は、しかし突然に塞がれた。
憑爺との間に割り込んだのは結弦より小さな人影。つややかな黒髪だけで、それが自分の知る人物だと結弦は理解できた。
「菖蒲先ぱ……!?」
言い切る間もなく唇に感じる柔らかい感触。それが菖蒲の唇だと気づくが早いか、何かを流し込まれる感覚に頭が混乱する。いつか食べたヨモギに似た、だがもっと濃い香りのそれを飲み下した途端、全ての音が遠くなった。狐火と提灯は消え失せ、微笑を浮かべた憑爺が急激に遠のいていく。
数秒後か、あるいは数時間後か。我に返った結弦はアスファルトの上に立ち尽くしていた。狐火の灯と異界の香りはすでになく、梅雨のカビ臭い雨の匂いが鼻をつく。
「先輩……?」
四条菖蒲がそこにいた。
ビルの壁に挟まれた小路のただ中、曇り空と雨音を背に立つひとつ年上の少女は、どこか泣いているように見えた。
「先輩、今のって……」
「何のことですか」
どう聞いたものか、夢か現か幻かと絵本でしか聞いたことのない質問でもしようかと逡巡する結弦を遮り、菖蒲は背を向けた。
「あなたはここで倒れていて、私がそれを介抱した、それだけです。おそらく夢でも見ていたのでしょう」
「……忘れろってことですか」
「覚えていても何ひとつ益なんて無い。世界にはそういうものもあります」
混乱しつつも明瞭な頭で菖蒲の意図を理解し、結弦は立ち去ろうとするセーラー服の背中を睨みつける。
どうやら助けられたらしいことは結弦にも分かる。だが何故、何から、如何にして救われたのか、それを知る機会はここを逃せばおそらく無い。結弦は踵を返して再び路地の奥へ歩き出した。
「教えてもらえないのなら、もう一回行って確かめてきます。道なら覚えていますし」
「莫迦を言わないでください!」
菖蒲の足が止まる。傘もささないその姿は、今までよりずっと小さく見える。
「本気です。あんなものを見ておいて、リアルな夢でしたで片付けられるほど器用な方じゃありませんので」
「あそこを便利なフリーマーケットだとでも思ってるんですか。あなたは何も分かっていないからそんなことが言えるんです」
「だから分かりに行ってきます」
「何のために貴重な『道草』を使ってまで連れ戻したと……」
「それも行けば分かるんですよね」
『道草』。気にかかる単語を頭の片隅に追いやり早足に奥へと向かう結弦の右手を、菖蒲の小さい手が掴んだ。
「……憑路のことなら私が教えます。だから、やめてください」
「分かりました。……あとその、すみませんでした」
事情はどうあれ、菖蒲が『道草』と呼ぶ何かを結弦に飲ませるためにはああいう手段をとらざるを得なかった。それが分かった上での謝罪だったが、菖蒲は複雑そうな顔をしている。
「……謝られるのもなんだか釈然としません」
説明するにせよ、内容が内容だけに公の場は好ましくない。そう言った菖蒲が向かったのは自身の家、曰く築三十八年のアパートの一階に位置する和室ワンルームだった。親に先輩の家で勉強を教わると連絡を入れながら、結弦は一人ぶんしか生活不可能な部屋を見渡している。
「先輩、一人暮らしだったんですか?」
「ええ。狭いところだけど座ってください。幻世より安全なのだけは保証します」
「家にお邪魔してあの世と比較されたのは初めてです」
人を上げるなんて何年ぶりかな、などとつぶやきながら菖蒲は心底落ち着かない様子でコーヒーを出す。型通りの礼を言ってそれを口に運んだ結弦は、しかし思わず嘆息した。
「……うまい」
整理整頓はそこそこといったところに、大量の書物や写真が積み上げられた古い和室。おおよそ『女子高生の部屋』と聞いて想像するものとは程遠い空間に据えられたちゃぶ台で飲むコーヒーに風情も何もないが、口にしたコーヒーに結弦は目を見張った。
「すごい、家で飲んでるコーヒーと全然違う。コーヒー自体は普通なのに味や香りがずっと引き出されてるような」
「そこらのスーパーで買ってきた豆ですよ。美味しいとすれば淹れ方の問題でしょう」
面白くもなさそうにブラックのままのコーヒーをすすり、菖蒲は手元にあった一冊のノートを引き寄せた。
「元よりただの好奇心でしょう? 必要なことだけ説明したら帰ってください」
「分かりました」
それは説明の内容次第と思いつつ結弦は素直に答えた。菖蒲は渋い顔をしつつも頷き、ノートに挟んであった一枚の写真を取り出す。おそらくガラケーのカメラで撮影して印刷したのだろう色あせたカラー写真には、笑顔で肩を組むふたりの少女が写っていた。日付けは、七年前。
日当たりのよくない部屋の薄暗さに目を凝らした結弦は、触れないよう注意しつつ右側の少し年下の少女を指差した。
「これ、小さい方が四条先輩ですか? じゃあ隣のこの子は……」
「四条菫。私の姉だった娘です」
「『だった』?」
「今はいません。私が、憑路で売り払ったから」
◆◆◆
――二〇一三年七月三〇日。
早朝、水産関係者で賑わう築地駅の改札から駆け出す少女がふたり。少し年下の快活そうな少女が、対照的におとなしそうな黒髪に麦わら帽子の少女を急かしつつ築地市場へと足を早める。
「菖蒲、走ったら危ないってば」
「時は金なりっていうでしょ!」
「もー」
夏休みに電車で東京までやってくる。つくば市に住む十二歳と十歳の子どもにとっては一大イベントだ。常磐線の上り列車を北千住で乗り換え、築地駅で下車、地上に出て数分を歩けばそこはテレビや雑誌で見た通りの築地市場。後ろで息切れ気味の菫をよそに菖蒲は目を輝かせている。
「築地といえばセーチだからね、セーチ!」
「聖地ね。最近覚えたのね。そりゃ料理人を目指してる菖蒲にとっては聖地かもしれないけど、私にとってはお寿司を食べる場所でしかないし、ふぁああ」
「テンションひっくいなー。ここはあの世界一の料理人、シェフ・カレイドも愛した食の天国なんだよ?」
「だれ?」
菖蒲は元気溌剌といった様子だが、時刻はまだ午前七時半であり、茨城在住のふたりがこの時間に到着するには六時前の電車に乗らざるを得ない。「いっしょに行くはずだった友達にドタキャンされたー!」と前日になって姉を巻き込んだ自分の落ち度は棚に上げ、あくびを噛み殺す菫に菖蒲は口を尖らせる。
子どもなりに、あるいは子どもらしく『世界一のシェフ』という夢を持つ菖蒲は以前から大阪新世界、天神、箱根といった食の名所に強い興味を抱いていた。日本一の魚市場である築地もそのひとつであったことは言うまでもない。そんな妹のワガママに付き合ってくれる姉を引きずり、菖蒲は意気揚々と築地市場へ足を踏み入れた。
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