骨喰い・a -2
危ないですよ、のひと言だけ言っておきたい。
そう思って早足にカギを返却し、結弦は菖蒲の後を追った。早く帰れという菖蒲の言葉を忘れてはいなかったが、薄暗がりでちらりと見えた思い詰めたような顔が気にかかった。
「君」
そうして踏み出した足が、ピタリと止まる。結弦を呼び止めたのは、落ち着き払った男の声。結弦はその声の主を知っている。
「理事長先生?」
「どうしたのかな、こんな時間に」
学校理事長、月島継嗣。ロマンスグレーの髪に上品な仕立てのダークグレースーツを着こなした、学校経営陣のトップがそこにいた。
「ちょっと忘れ物を。理事長こそどうして」
「いやなに、仕事が長引いただけさ」
その外見も相まって生徒からの人気も高い人物だ。そんな月島理事長と親交を深めておくことはメリットもあるのだろうが……。結弦にとってより優先すべきことが今はある。
「では急ぎますんので。お疲れ様です」
「ああ。気をつけて帰りなさい」
早歩きで廊下を渡り、校舎の外へ。雨の中を走って校舎裏へ向かう。理事長と話していたぶんの時間は食ったが、十分に追いつけるはずだ。
「あれ?」
そろそろ追いつくと、そう思った瞬間。前を歩いていたはずの菖蒲の姿は、風で掻き消えたように見えなくなっていた。そこには煤けた建物と建物の隙間に伸びる閑散としたアスファルトの小路があるのみ。
「見間違え、じゃないよな」
小路に入ったのかと踏み込んでみるが、暗い上に幾度も折れ曲がっており見通しが悪い。その先も、さらにその先も曲がり角や十字路を繰り返し、気づけば帰り道を見失うほど奥まった場所に結弦はいた。
「廃棄地区、初めて入ったがこんなに入り組んでたのか……。だいたい学校から遠ざかる方に歩いてきたから、あっちが駅方面、のはず」
これは菖蒲より自分の身を案じるべきと思い直し引き返し始めるが、同じようなコンクリートの路地はどこまでもどこまでも続いていく。スマホのGPSを頼ろうにも詳細な座標を絞れず頼りにならない。
スマホを見ればすでに七時半、路地に入って三十分以上が経っていたが、一向に出口にたどり着かない。ここは本当に学校の近所なのか。焦りが募り始めたその時、暗い通路の先に光が見えた。開けた場所があるらしいと安堵し、早足で抜け出した結弦の前に広がった光景は、しかし結弦の想像したそれではなく。
「なんだ、ここ」
空が、暗い。街灯とビルに照らされた現代日本ではありえない黒さが頭上を覆っている。
漆黒の中に点々と赤提灯が並び、その彼方では金色の月が鈍く輝く。石畳に隙間なく舗装された道のほんの数歩先では、羅生門を彷彿とさせる朱塗りの門が口を開き、さらにその先に人影がひとつ。
「ここは幻世の台所、誰が呼んだか『憑路(ツキジ)ノ市』。ゆるりと愉しまれるがよい」
藍染の和服に身を包んだ白髪の男が、大仰に頭を下げていた。
◆◆◆
憑路に漂う匂いはあらゆるものを内包する。魚介とそれを調理する香りに満ちた築地場内から一転、歩いているだけで肉、穀物、野菜、結弦には素性すら分からぬ食材の匂いまでが折り重なって鼻をくすぐる。混然一体とした憑路のそれは結弦にとって未経験のものだ。
憑爺(つきじい)と名乗った青年に導かれるまま歩く結弦は、不安と好奇の入り混じった目で周囲を見回している。同時に同じような目で見られてもいる辺り、人間の新参者というのはそれなりに珍しいのかもしれない。
「よいものだろう。古今東西の珍味妙味から陰謀の香りまでよりどりみどり。恋の香りもあるやもしれんが、探してみるかね? 意中のおなごの名でも言ってみるといい、ほらほら」
「急に修学旅行の夜みたいな話題ですね」
「かか、つれないな」
そんなことよりも、と結弦は疑問を投げかける。
「ツキジって、何年か前に閉鎖した市場ですよね。東京にあったやつ」
「字は違うがね。あやかしに憑かれた路、と書いてツキジだ」
字は、ということは繋がりはあるということか。そう問う結弦に、憑爺はうむと頷く。
「もともとこの市場は築地の裏側にあってな。名もそれにちなんでいたが、『表』が市場としての役目を終えたことで宙に浮いた地となるところだった」
「『だった?』」
「役目そのままに繋ぎ止めた者がいたらしいぞ。どうやら印の類を描いた陰陽道の一種ともいわれているが……実際のところは誰も知らん」
「そんな浮草みたいな場所でこんなに大勢暮らしてて大丈夫なんですか」
「どうせ他に行く宛もなし、流れたら流れたでいずれどこかに行き着くだろうさ」
妖怪に陰陽道。あまり詳しくない結弦にはこれ以上聞いたところで分からないだろう。
そう見切りをつけて本題に入る。目下、最大の問題はこれだ。
「それで憑爺(つきじい)さん、どうやって帰れば?」
「心配せずとも帰してやるとも。だが先だっては憑路の理(ことわり)を知ってもらわねばならんのでな、まずはついてきたまえよ」
カランコロンと柾目の下駄を鳴らしながら憑爺は結弦の前を往く。
「今日の目玉は大根だ!」「それよりこっちを見ていきな! こちらなんと現世は西方のインドからきた魚! 珍品中の珍品だよ!」「おや、おいでませ憑爺の旦那!」「今後とも何卒お引き立てを! うちの饅頭いかがですかい?」
沿道の店からは常に声が飛び、鬼や狐といった結弦でも分かるものから見たこともない姿形の妖怪までが商いに精を出す。その光景自体は『表』でも見たものだけに、商人たちの異形がいっそう際立っている。
「どうだね、歩くだけでもなかなか楽しいものだろう」
歩を緩めて尋ねる憑爺に、結弦は曖昧な愛想笑いを返す。
「なんというか、どこにでも胡散臭い商売はあるんだって分かりました」
結弦の見たところ、衆目を集める『インドの珍魚』とやらはインド洋産のカツオだった。
石畳が提灯に照らされる中を歩いた末、ふたりは古びた露店の前で足を止めた。のれんの向こうに座っている着流し姿の何か、人型だが人ではない鱗肌の生き物がじろりと目を向けてくる。だが結弦の後ろに憑爺の姿を認めると、店主らしき生き物は跳ねるように立ち上がって佇まいを正した。
「これは旦那。本日はお日柄もよく……」
「やあやあ主人。なに、固くなることはない。久々の客人にここの手ほどきをしているだけだ」
「へぇ、お変わりないようで。で、何をご所望で?」
「そいつは彼次第。さて、ここは爺の行きつけでね。不躾な質問でかたじけないが、少しばかり寝不足ではあるまいね?」
「寝不足って……。確かにそうですけど」
重松の連日の課題で少々の寝不足は否めない。だがそのことに何の関係が、と訝しむ結弦の視線に、憑爺は芝居がかった身振りで答える。
「それはいただけない。寝不足は美人の敵、ここはこいつをいただこう」
ひょいと取り上げたのは歪んだガラス玉のような何か。憑爺の手で青黒く光るそれにさがった札を、結弦は見たまま読み上げる。
「『惰眠』?」
「『惰眠を貪る』と言うだろう? 貪るとはすなわち食らうこと。言霊の類と言えば分かるかな、まあともかく憑路では当たり前に取引できるというわけだ」
解説を挟みつつ、憑爺は結弦の額に『惰眠』を押し付ける。予想した硬さは感じられないままガラス玉は額へめり込み、焼鉄にバターでも乗せたように結弦の体内へと溶けて消えた。
「え、え、え?」
「落ち着きたまえよ。どうだい調子は」
「おお?」
身体を動かしてみて、気づく。
軽い。目と頭は冴え渡り、凝っていた肩も首も羽毛のように軽やかに回る。たっぷりと睡眠を摂り続けた朝の如き活力が結弦の体にみなぎっている。
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