骨喰い・a -1

「詰んだな」


 二〇二一年六月十五日、夜。吾川結弦は自身の学生鞄の中身を見てそう呟いた。

 六月半ばといえば梅雨の真っ只中、つくば市南部の万博記念公園駅から徒歩七分のアパートでも篠突く雨が窓をびしびしと叩いている。憂鬱な空模様の中にあって、結弦の声はそれ以上に重い。


「もしもし……。やっぱお前も持ってないか。じゃあ……いや、うん。たぶん学校だな」


 彼が沈んでいるのは至極単純、課題に使う教材を学校に忘れたのである。近所に住む友人が間違って持って帰った可能性にすがって通話をかけてはみたものの、予想通りといえば予想通りの返答であった。


『大丈夫なの?』

「大丈夫と思うか?」

『大丈夫じゃないよね』

「かなり大丈夫じゃない」


 問題は、それがよりによって社会の重松教諭の課題だったことだ。前職は予備校講師だったとかで尋常でない量の課題を出し、提出に遅れや妥協は許さない……までなら、まだ教育熱心ととれるのだが。

 彼は人格面でいささかの問題があることで有名なのである。


「そうかそうか。そうかそうかそうか。あーそうかー」


 以前、プリントを紛失した生徒が友人にコピーさせてもらった際の、重松教諭の台詞がこれであった。コピーしたのは問題だけで回答はきちんと自分でしたにも関わらず、一時間に渡ってこの「そうかそうか」責めを受けた生徒は熱を出して三日休んだという。

 要するに課題を紛失したことが彼の逆鱗に触れたわけだが、生徒が何を言おうが「そうかそうか」だけを繰り返したというのだからぞっとしない。


『ひとつだけ言えるのは』

「ああ」

『このままだと、明日の吾川が「そうかそうか」の犠牲になるでしょう、ってことだね』

「そうか……」


 紛失と忘れ物でさほどの差もあるまい。前述の通り重松教諭の課題はボリュームが圧倒的であるため、明日の朝早く登校して始業前に終わらせるというのも現実的でない。


『写させてあげよっか? 私が朝練終わるまでにはできるでしょ』

「いや、それはいい」


 友情には感謝しつつも、もし発覚すれば友人にも迷惑がかかる。ありがたいからこそ断らなければならない、そういうことが世の中には存在している。


「ちょっと学校まで取りに行ってくる」

『いやいやいやめっちゃ雨だよ? それにカギも閉まってるだろうし』

「まだギリギリ開いてるかもしれない。残業する先生もいるだろうし」

『だったらいいけど……。開いてなくても裏路を探したりはしないでよ?』


 今どき、不審者等の侵入に備えてどこの学校もセキュリティシステムを置いているのが当たり前だ。一昔前のドラマのように校門を乗り越えて侵入し校舎のガラス全部割る、なんてことは不可能な時代になっている。

 だが学校の裏手は少々事情が違う。地区が再開発された際に利権で揉めて打ち捨てられてしまった区域からなら、一切のセキュリティにかからず侵入できた者が何人かいると、そんなようなことが囁かれているのを結弦も聞いたことがあった。

 曰く、『裏路(うろじ)』。何者かは抜け穴でも通ってきたかのように校舎内に現れ、センサーやカメラにもかからず消えたという。


「また古典的なタイプの噂だな」

『溺れるものはなんたらかんたらって言うし。残ってる建物のタイシンキョード? も怪しいみたいだから近寄らない方がいいよ』

「耐震強度な。分かったよ」


 制服に着替えるべきか考えて、そんな時間も惜しいと気づいた結弦は、手早くレインコートをまとって雨の中を駆け出した。

 それが、おおよそ二〇分前のこと。幸いにして校門の錠は開いており、これなら校舎にも入れるのではないか。そう期待して昇降口前でレインコートを脱いだ結弦は、不意に聞こえた声に呼び止められた。


「完全下校時刻は過ぎていますよ」


 唐突だが、この学校は校則で染髪を禁じている。となれば、地毛と言い張れるギリギリの茶髪を攻める生徒が出そうなものだが、そんな女生徒はほとんどいない。理由のひとつは生活指導が厳しいこと。そして、もうひとつ。

 誰もが憧れる黒髪の持ち主がいることだ。


「貴方、一年三組の?」

「四条先輩、俺のこと知ってるんですか」


 四条菖蒲。生徒会副会長として入学式でも登壇し、生徒会長を差し置いてその黒の長髪が女子の間で話題になった二年生だった。彼女がいるから我が校に染髪する生徒はほとんどいない、らしい。


「生徒会の仕事の都合で新入生は覚えてしまいますから。今村薫君よね?」

「吾川結弦です」


 あいうえお順で後ろの席だったために話し始め、なんだかんだでつるみ続けている結弦のクラスメートである。つまりはさっき電話していた相手だ。


「ちなみに今村薫は女子です」

「……ごめんなさい」


 素直に謝られた。


「いえ、番号は惜しかったですし男でもありうる名前なんで……」

「昔から人の顔と名前を覚えるのは苦手で。知ってますか。あなたの学年って『あ』行の名字がやたら多くて先生も混乱しているんですよ」

「確かにうちのクラスも今村、今給黎いまきいれ、和歌ノうたのはら荏開津えがいつといますね」

「それはさすがにあなたのクラスだけです」


 なんというか、普通だ。

 それが、実際に四条先輩と話した結弦の印象だった。

 クールな風貌と美しい黒髪のせいで完璧超人をイメージしていたが、よくよく考えてみれば壇上で生徒会長の月島修司の横にすらりと立っている姿しか結弦は知らない。人を外見で判断してはいけないとはいやほど教わってきたが、彼女もそういう苦労をしているのだろうかと、ふとそんなことを思った。


「それで吾川君はどうしてこんな時間に? 制服を着てないってことは家から戻ってきたのかしら」

「ちょっと忘れ物をしてしまって」

「そう。教室?」

「たぶん」

「まだ教頭先生がいるはずだから教室のカギは借りられるはずよ」


 彼女が指差す二階、職員室の窓は、たしかに少しだが明かりがついている。


「先輩は生徒会の用事ですか?」

「え? ああ、ほら、体育祭の関係で」

「体育祭って十月では」


 繰り返しになるが今は六月の梅雨時である。


「……学校行事は早めの準備がいるんです。では、私はこれで」


 足早に立ち去ろうとする先輩の髪がふわりと広がる。この雨の湿気でもしっとりと美しい黒が夜闇によく映えていた。


「廊下、暗いし滑るからお気をつけて」

「ありがとう。貴方も早めに帰ってくださいね」


 結弦としても早く回収して課題に取り掛かりたい。菖蒲と別れを告げ、職員室で借りたカギで教室のドアを開けると、当然にプリントは机の中に忘れられていた。

 雨で濡れないようクリアファイルに挟んで鞄にしまい、教室を出る。さて、帰ったらまず風呂が先だろうかと窓を見やりながら考えたところで、眼下に目についたものがあった。


「……先輩?」


 学校の裏手には、再開発で取り残された区域がある。傘もささずに歩く菖蒲の足は、そちらの方に向かっていた。


「たしか、耐震強度がどうとか」


 奇妙な『裏路』の噂はともかく、今村が言っていたことが気にかかった。


『残ってる建物の耐震強度も怪しいから近寄るなよ』


 もし、さっき菖蒲と話していなければこんなに気にかかることもなかっただろう。結弦にとって、自分よりはるか有能で完璧な相手であれば、心配することも失礼と考えたかもしれない。


「……一応、かな」


 危ないですよ、のひと言だけ言っておきたい。

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