だから彼女は骨を喰った

黄波戸井ショウリ

『憑路ノ市』

 食欲、睡眠欲、性欲。

 この三つが生物の三大欲求と言われていることに、吾川結弦は昔から結構な疑問を抱いていた。たしかに生物が種として存続していくには不可欠な三つだが、個体として見たらどうだろう。食欲と睡眠欲はともかくセックスはしなくても死なない。いや、セックスしたことない男が社会的な死を味わうことはあるけれども、とりあえず命は失わない。では個体としての人間がやらないと死ぬこととは何か。

 排泄、すなわちウンコである。

 個体としての三大欲求を定義するなら食欲、睡眠欲、そして排泄欲であり、なんなら食べたら出るのは当たり前なので食欲と睡眠欲の二大欲求にしてもいい。それが彼の持論だった。

 それも結局は『食というのは重要だ』という当たり前の言葉に集約されるのだけども。なぜか妙な話題になった世間話をそう結んだ結弦に、目の前の男はくつくつと笑う。


「ふむ、食の市場ですべき話かはさておいて一理はある。君はなかなか面白いな」

「食の市場?」

「然り。ここは幻世の台所、誰が呼んだか『憑路(ツキジ)ノ市(イチ)』。ゆるりと愉しんでゆきたまえ」


 狐の面をつけた和装の男が手を広げる。芝居じみた声と動きで分かりづらいが高校生の自分とさほど歳は離れていない気がする、と吾川結弦は感じた。

 それよりも気にすべきは男の背後。そこに広がる光景は、おそらく現世のそれではない。

 朱い提灯、金の月。空に狐火、地には蛇。開かれた大門には『憑路』の文字。そこから延びる通りには屋台と露店が立ち並び、灯籠の光の向こうに霞んで消えるまでまっすぐ続く。在りし日の京の都を思わす町並みを、しかし行き交うのは人の身ならぬ妖怪変化、魑魅魍魎の姿ばかり。3DCGだとかVRだとかを見慣れた世代だからこそ分かる『本物』の存在感が、ここがたしかに妖怪の市場だと語っていた。


「あの、俺って学校にいたはずなんですが」

「知っているとも。今現在、ここの『表側』には学び舎が建っているのだったな。そしてここは裏側たる『憑路(ツキジ)』の地。強運の持ち主が時たま迷い込むのでな、こうしてまあ暇を持て余した爺が道案内を務めているというわけだ」

「爺?」

「人は見かけによらずというだろう? 爺のことは気兼ねなく『憑爺』と呼んでくれたまえ」


 古風な藍染の和服と髪の白さを含めても爺には見えない男が、戸惑う結弦を手招きする。


「さあさ、せっかくの客人だ。歓迎がてらしばしの見物といこうじゃないか。なに、幻世といえど市場は市場。取って食われやするまいよ。売って買われることはまあ、分からんがね」

「いや、もう遅いし帰らないと」

「急ぎの用事でもあったかな?」

「あるっちゃあるといいますか……」


 明日の課題がまだ終わっていないというのが、妖怪変化ひしめくの市場からの帰還を急ぐ理由になるだろうか。真顔でそう尋ねる結弦に男はカラカラと笑いかける。


「いやいや、学生の本分は勉学だとも。だがだがまあまあ、後ろを見てみたまえ」

 言われるがまま首を背後に向けて、結弦の身体がビクリと固まった。

「道がない?」


 振り返ればあるはずの、学校の裏手に見かけた小径。辿ってきたその道は結弦の背後でぷっつりと途切れて、墨汁のような黒だけが立ちふさがっていた。迫る宵闇に気圧されたか結弦は一歩後ずさる。


「行きはよいよい、帰りはこわい。出るにはしきたりがあるのがこの市場でな。こればかりはまあ、ひとまず門をくぐってもらわねば仕様がない」


 初対面の得体の知れない狐面についていくほど結弦も不用心ではないが他に手立てなどありはしない。それでも他の可能性を思案すること数秒。


「分かりました」

「肝が据わっているのはよいことだ。改めてようこそ、食えるものなら遍く売り買いできる虚ろの市場、怪異の故郷『憑路ノ市』へ」

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