第6話 先物取引
市場が動いた。
ウエリントンの市場が開いた直後、サグラダファミリアのオフィスのホットラインが鳴り響いた。
電話番のミカエルが機敏に受話器を受け取る。
「はい、毎度ありがとうございます、こちらサグラダファミリアでえす」
受付は代々、女性の仕事だと決まっていると思い込んでいるミカエルが声色を作る。
「先物取引の情報だ」
ミカエルの神経が張り詰める。
2月、先物取引といえばアレしかない、そうカカオだ。
「ちょっと待ってほしい、責任者と電話を繋ぐ」
声色が地声に戻る。見た目だけでもと常にOLのコスプレをしているわけだが、オフィス内は撮影禁止措置を徹底しているため写真を掲載できないのが残念である。
責任者というのはマタイである。徴税人の異名がある彼は金に関してはかなりシビアな感性をもっている。また、カカオの先物相場というのはサグラダファミリア全体の経済にかかわってくる重要作物であるから、この時期というのは皆が神経を尖らせている。
「マタイ、あたしだ!今いいか?」
マタイは今出張で北京にいる。大した時差はないものの、中国に慣れ親しんでいるここ数日のせいで、日本語を忘れてかけていることは否めない。
「いいアル、いいアル、今私、起きているネ」
同室の通訳の中国人男性が手帳に「否」と3つ書いたことは言うまでもない。
早朝の先物取引の情報が錯綜する中、イスカリオテのユダはヤコブと寝息をたてていた。ヤコブと眠るイスカリオテの目はしっかりと開かれている。ふたりで眠る夜、イスカリオテのユダがしっかりとまぶたを閉じたことはなかった。
ユダは不思議な能力を持っている、予知能力のようなものだ。
カカオの先物市場が動いたという何か神のお告げをキャッチしたのか、寝起き悪いながらに幽体離脱を引き摺りながら、洗面台に走っていく。
何かに取り憑かれたように、すぐに走っていく。まるでルーティンのように。
「やっぱりだ」
ウインクしながら、洗面台の鏡を見つめるユダの顔がみるみるうちに赤くなり、青くなり、ツノが生え、髪が逆立っていく。憑依体質は芸術家ならではなのだろう。
「今日の俺はちげえからな、マジで」
やはり、カカオの先物価格の高騰を神お告げで知らされたということなのだろうか。
しなりしなりと階段を登っていく。ヤコブは腹を出して眠っている。
オフィスではマタイに電話を繋ぎ自分の大きなお役目をやり終えた達成感でほっとした表情になったミカエルが電話番を継続している。「あたしは企業戦士だ」とつぶやく自分の声の色っぽさにうっとりしながら。もはや自分は、女に生まれるべきだったのかもしれない。バンビのような美脚にうっとりする。無毛、、、いや、違う、剃っただけだ。パンツの中を確認してホッとする。有事はいつ発生するかわからない、備えあれば憂いなし。いや、備えのために剃っておくべきか、、、
北京のマタイはウエリントンの市場関係者と先物価格についてやり取りをしている。
「違うアル、違うアル、私、そんなこと言ってないネ!」
自分も国際人になったものだ、こんなにも中国語を使いこなしている!
マタイが悦になればなるほど、同室の中国人通訳の男性が手帳に否を力強くひとつ、またひとつと記していく。
階段を登りきった、ユダは静かにヤコブのほっぺたに油性マジックでなるとマークを書いている。
「私の、、まぶたに、、」
力を込めすぎず、フェザータッチを心掛けながら、
「何度、目ん玉を、、、」
なぜ我が家に油性の赤マジックがないのかと湧き上がる血潮の怒りに手綱をひきながら、
「書くなと言ったら、、わかるのか、、、」
なるとは両方に記された。
「ヤコブ、後ろから抱っこしていい??」
甘ったれた声でヤコブに囁く、眠気まなこのヤコブはにゃんにゃんしながら素直に後ろを向く。最近、散髪に行ってうなじはしっかりと出ている。
「ありがとう、ちゅき!うなじにちゅーしちゃお!」
「ばか、やめろよ、、」
眠気まなこである。何も気づいていない、うなじのくすぐったさはきっとユダの唇だろう。
ユダはヤコブのうなじに文字を刻んだ、
「童貞乙」
その瞬間、日本の市場が開いた。
オフィスに集う、サグラダファミリア。ヤコブのうなじの件は皆が知っている。なぜ書かれたのかは皆が知らない。犯人はひとりしかいないこともわかっているが、なぜそんな怒りをかったのかも誰も知らない。
先物相場とはそういうものである。
知らないうちに値段が釣り上がり、知らないうちに値段が下がっている。
「俺、今日キャバクラ行こうと思うんだけど、ヨハネもどう?ユダは鈍感だから言わなきゃわかんねえよ!」
給湯室で誘われるヨハネ、その横を顔色ひとつ変えずユダが通り過ぎていく。ヨハネはユダが真っ直ぐ前を見つめるその愚直さに背筋が凍った。
、、、、アメリカの市場が開くまでまだ時間がある。それまで保留としておこう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます