第6話

 降りしきる雨の中、長屋の戸を叩いたのは笠をかぶった坊主であった。サヨは坊主を長屋に招き入れ、手ぬぐいを渡す。


「酷い雨ですものね……弱まるまで、ここで休まれてください。ボロ屋で申し訳ありませんが」


「ええ、お言葉に甘えて。……そうだ。お礼と言っては何ですが、異国から持ち帰った果実があるのです」


 坊主は笠を取り、手ぬぐいで足や手を拭う。サヨは笠の下から現れた、黄色い爬虫類のような目に奇妙な恐怖を抱いた。

 坊主は懐から包みを取り出す。包みをそのままサヨに渡し、開けるように促した。サヨが包みを開くと、中に入っていたのは赤子の頭ほどの大きさの果実だった。白く丸いその果実は柔らかな産毛に包まれ、眩むような甘い香気を放っていた。


「まあ、いい香り。これは何という果実なのですか?」


「桃です。いいかおりでしょう。異国の桃は甘いかおりを放つのですよ。さあ、今食べてしまって下さい。足が速い果物ですから」


 そう言いながら微笑んだ坊主は、眉を顰めて鼻を袖で覆った。サヨは促されるままに桃に刃を入れる。一つ傷をつければ、果実を覆っている薄皮は簡単に剥けた。


「お坊様も一緒にどうぞ。私一人では勿体ないですから」


「いえいえ、私はまだ持っていますから、お気遣いなく。貴女一人で召し上がってください。そのままかぶりついてしまいなさい。その方がいい」


 坊主は急かすように言った。彼女が言われるままに、その白い果実に歯を立てたその時。バンッと音を立て扉が開いた。


「サヨッ!!」


 息を切らし、ずぶ濡れの男が立っていた。先ほど見送ったはずの男、葛が泥だらけの姿で立っている。

 サヨは驚いて、食べた果実を飲み込んでしまった。不意に飲み込んだため、ゲホゲホと咳き込む。彼はぐるりと部屋の中を見回し、坊主を睨みつけた。


「何故ここにいる。雷公!」


「雨宿りさ、葛。……そうかそうか、ここが君のねぐらだったのかい。知らなんだねぇ。いやいや、私はもう行くから、そう睨むんじゃない」


 葛のいきり立った顔を見て、雷公はくつくつと笑った。口角は耳まで裂け、まるで蛇のような恐ろしい笑顔で葛に微笑む。


「貴様!貴様ッ……!」


 その場を去ろうとした坊主に掴みかかり、土間に押し倒す。葛は雷公の首を鷲掴み、爪を食い込ませた。


「ははは、はは。お前が久しぶりに人の身に戻りたいと言うから、いったいどういう風の吹きまわしかと思えば、こんな女に現を抜かしていたとはね。駄目だよ。私は嫉妬深いんだ。思い上がったもんだねぇ。お前は私のモノだ。生きるも死ぬも私の指先ひとつさ。……解るだろう」


 首を絞められていることを意にも解さず、「ただし……」と雷公は続ける。


「人の身に戻りたいという願いは叶えてやろう。お前の望みなら叶えてやりたいのさ」


 ベキベキと音をたてて雷公の首がへし折れる。雷公は笑みを深くするばかりで、身じろぎすらもしなかった。葛の目の前が赤く染まり、思考が収縮していく。


「ゲホッ!……ゲホゲホッヒュッ!ヒュ……ッエゲ、おええぇえッ!…ヒュッ!ゲホッ!ゲホゲホゲホ……!!」

 

「サヨ……!しっかりしろ!」


 咳き込んだサヨの声に意識を引き戻され、葛は女に駆けよる。葛は倒れこんだサヨを抱き上げる。サヨはひゅうひゅうと喉から息を漏らし、目は虚ろだ。ぐったりとした彼女を抱き寄せて肩を揺するが、彼女の視線は彼を捕えなかった。

 ごとりと彼女の手から零れ落ちた果物を見る。奥歯がぎりりと鳴った。


「その女がお前を誑かすからいけないんだよ。だから殺す。黄泉にも連れて行かない。黄泉と現世の狭間で彷徨うのさ。悪鬼羅刹になったとしても」


 ずるりと雷公が葛の背中にすり寄る。虫が這うような不快感が彼を襲った。雷公の爪がゆっくりと一本ずつ葛の頬をなで、猫撫で声で言う。


「可哀そうかい?なら……選んでもいいよ。お前が人に戻るか。この女を生かすか」


「……」


 

 葛の意思は決まっていた。彼女がいない世界で自分一人が人として生きることは耐え難かった。ぐったりと意識を失ったサヨを見る。


「その女の記憶を奪え。そうすれば今は命は奪わないでおいてあげるよ……そうだな、口づけでもしてやればいい。そうして鬼の力を使えば記憶を取れるだろうさ。もし、人になりたければ私の前にその女の首をもっておいでね」


「今は?」


 低い声で問い返した彼は雷公を睨む。雷公はきょとんとした顔をして葛を見返す。


「おや?そうだよ。いずれこの女は死ぬが、その時黄泉には迎え入れてやらないよ。だから来世はないし、黄泉と現世の狭間で羅刹になっちゃうだろうね。だから、その時は私が直々に殺してあげるよ。何度でも。ああ!優しいよねぇ」


 そう言って雷公は無数の蛇となって散り散りとなった。


 雷公が去った部屋で、葛はしばらく立ち尽くした。考えがまとまらなかった訳ではない。彼はサヨに生きていて欲しいと願っていた。しかし、雷公の言う通りにするだけでは彼女を救うことは出来ない。

 彼女の前から自分が居なくなることは仕方がないことだ。そもそも鬼と人間が交われるはずもなかった。

 だが、彼女がまた夜に怯えなくてはいけないことは、輪廻転生の輪を外れてしまうことは必然ではないと考えた。彼はサヨを抱き寄せ、髪をすく。


 男は口づけを彼女の頬に送ると、女の懐から櫛を取り出し、少しずつゆっくりと束をとり、その櫛で彼女の髪をすいた。


「君の記憶と魂の少しをこの櫛に閉じ込めていくよ。この櫛をお守りにして、今世はせめて安らかに」


「……だけど、俺は君を守れなかった。酷いことをした。君を黄泉にも極楽にも行けない魂にしてしまった。だから、待っていて。この櫛と待っていて」


「俺が必ず、君の魂を黄泉に連れていく。何年かかるかは分からないけど。……ああ、サヨ、もういかなくちゃ」


 すうすうと緩やかな寝息を立て始めたサヨに櫛を握らせ、葛は立ち上がった。

まだ雨で白む外に出る。彼は振り返らなかった。


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桃を喰む 40_ @40_

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