第2話

 生ぬるい風を肌に感じながら月光に照らされる背中を見ていた。涙ながらにその背を見つめる自分は誰か別人の視界を借りているようだ。これは夢だろう。潤む視界の先にある背中の彼は着物を身にまとい、弓と刀を携えている。


「どうしても、行かなくてはならないのですか」


「……必ず帰る。心配するな」


 視界の主である女は、沙良の意思に反して男の背に泣き縋る。


「怪我をさせてまで、私は貴方に守られたくはありません」


「俺のことは大丈夫。お前が安心して眠ってくれればそれでいい」


「ですから……!心配で眠れないのですよ……っ」


 離すまいと強く着物を握る。沙良もこの背から離れては、二度と会えないと直感し、何故かこの手は決して離してはいけないと感じた。しかし、その小さな白い手は意とも簡単に引きはがされた。

 男は振り向くと、手の甲で優しく女の涙をすくった。男の顔はよく見えない。


「……朝には帰る」


 子供を諫めるように頭を撫で、男は闇夜に駆けだす。追い縋ろうと手を伸ばすも、雲に隠れた月と共に男は見えなくなった。涙で頬を冷やしながら、女は闇夜を妬ましく見つめていた。


「――なさい、沙良!沙良!お母さんもう出るからねー!」


 ドンドンと扉を叩く音で目を覚ます。時計を見ると七時を少し過ぎていた。大きく伸びをして布団からズルリと抜け出す。そのまま机の上を探り、ペンと紙を取る。夢の記憶が確かなうちに書き出しておかなくてはならないと考えたのだ。沙良はあの夢の男が妙に気になっていた。「探したい」という奇妙な感情さえも浮かんでいて、夢の中の人物に会えるはずもないと思いながらも、男の特徴を紙に書きなぐった。

 背が高い。着物を着ている。刀を持っている。

 ――これだけの情報ではなにも分からない。夢の中の男は顔も見えない。髪の色、瞳の色、口の形。何一つ分からなかった。ただ、はっきりと覚えているのは彼の手の温度と感触だけだ。

 沙良は書きなぐったメモを鞄にしまい、制服に着替えた。リビングに向かうと、父がコーヒーを飲みながら天気予報を見ていた。


「おはよう」


「おはよう。味噌汁、温まってるから食べなさい」


「うん」


 冷蔵庫からおかずを物色し、味噌汁をよそう。簡単に朝食を済ませ、食器を流しに下げる。バタバタと歯磨きをし、足早に玄関へと向かう。


「おぉ、もう行くのか。傘忘れないようにな」


「うん。行ってきます」


 やや駆け足になりながら学校へ向かう。特に急ぐような用事は無いが、今日は早く学校に行きたかった。信号を待ちながら、傘を忘れてしまったことに気づく。折り畳み傘は無かったかと鞄を漁る。ごそごそと底を掻きまわしても、傘は見つからなかった。帰って父に笑われるかと思うと、少しげんなりする。


「あの、すみません。コレ落としましたよ」


「ああ、ありがとうございます!」


 背後から声がかかり、ヌッとハンカチが差し出される。どうやら鞄を漁った拍子にハンカチを落としてしまったらしい。振り返ると、パーカーを着た若い白髪の男がハンカチを差し出していた。沙良は既視感に一瞬固まった。記憶をたどりながらハンカチを受け取る。


「あれ……昨日の」


「ああ、信号変わりましたね。じゃあ、また」


 白髪の男はにこりと笑って、信号が変わると共に人ごみに紛れて消えてしまった。少女は彼の背を追おうと手を伸ばしたが、何故手を伸ばしたのか分からず、直ぐにそれをひっこめた。



「あれ、今日沙良早くない?いっつもギリじゃん」


「おはよぉ~沙良ちゃん。走って来たの?顔赤いよぉ」


 教室に入るとクラスメイトが珍しそうな顔をして迎える。少女の友人である美歩みほ真利亜まりあが手を振る。気が付かなかったが、耳に通う血がドクドクと主張している。顔が熱い。


「いや?なんか、なんとなく走って来たくて?」


「なんで?ウケるわ」


 真利亜は失笑し、首をかしげる沙良の写真を撮った。


「おい、日高」


「うわ、里中さとなかなにぃ。朝からうっざ」


 教室の入り口から覗いていたのは、隣の組の生徒だった。眼鏡をかけた堅物そうな少年。沙良は彼の顔には見覚えがあったが、誰だったかは思い出せない。真利亜がからかう様に笑うのも気にせず、里中と呼ばれた彼は沙良に歩み寄る。


「日高、なんか最近肩が重かったりしないか?謎の視線を感じるとか」


「いや……ないけど。てか誰だっけ?」


 彼の言葉に眉を顰める。いきなり意味の分からないオカルト話を吹っ掛けられるようないわれはない。


「ウケる!里中あんた誰って!!」


「やめなよ里中、お寺ジョークは沙良ちゃんには通じないよ」


 真利亜は笑い過ぎてむせている。隣の美歩は里中のことを可哀そうなものを見るかのように見ていた。その様子にはぁと一つ溜息を吐くと、彼は呆れたように口を開いた。


「いや、ジョークじゃ……。まぁ無いならいいか。それより日高。俺とお前委員会一緒だぞ。しかも去年も!」


「そうだっけ、顔は覚えてるよ」


 沙良は人の名前を覚えることは珍しく、交流が無くなればすぐに忘れてしまう。彼のことも顔は覚えていたが、一度聞いたきりだったであろう名前は覚えていなかった。

 悪びれる様子も無く言った彼女に、彼はまたため息を吐いて、「ジョークじゃねぇからな、一応」と言って教室を後にした。

 彼と入れ替わるように担任教師が教室に入ってきた。チャイムがなり、各々が自分の席に戻る。沙良も席に着き、ほどなくして朝礼が始まった。


 西の空が灰がかってきているのを眺めながら、沙良は帰り支度をしていた。天気予報の通り、雨が降りそうだ。濡れることを覚悟して、教科書をロッカーに置いていく。


「沙良もう帰んの~?」


 部活用のユニフォームに着替えた真利亜が彼女を覗き込んだ。


「今日は部活あるからまだ帰んない」


「え!今日何作んの?前のクッキー美味しかったからまたお裾分け欲しいなぁ~なんて」


 目を輝かせた真利亜に「今日は鍋掴みです」と言うと、残念そうに嘆いた。二人で談笑しながら教室を出て、しばらく歩き体育館の前で別れる。

 沙良は家庭科室に向かうと、裁縫セットを広げた。部活があるとは言っても、自由参加に近いような形態だ。今日も二、三人ほどしか来ていない。彼女もここに来る必要性は無かったが、部活を終えるまでの間に雨が止んでくれないかと思ったのだ。


「止まないなぁ」


 望み虚しく、下校時刻になっても雨は止まないばかりか、強さを増す一方だった。彼女は諦めて、学校を出る。

 大粒の雨が打ち付けるように降っている。下足箱の前では部活終わりの生徒たちが傘を出したり、談笑をしたりで込み合っていた。あわよくば誰か友人の傘に入れて貰えないかと首を回すが、友人の姿は見当たらなかった。仕方がないので鞄を傘代わりにして、走り出る。

 雨に打たれながら校門を出ると、ふいに傘を差し出される。


「傘を忘れたんですか」


 少女はその声を今朝聞いたばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る