桃を喰む

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第1話

 澄み渡るような青空が、遠く蜃気楼ににじむ夏の日。少女は人を待っていた。何度も足を運んだ父方の祖父の家。母屋の最奥に位置する一室で、すでに一時間は待っている。暇つぶしに持ってきた本も読み終えてしまった。締め切られた障子のおかげか部屋の中は日陰になっていたが、額が汗ばむほどには蒸し暑い。


沙良さよ。お待たせ、暑かったろ。障子を開ければよかったのに」


「日に焼ける……」


「そうか、麦茶持ってきたから飲みなさい」


 沙良は男から麦茶を受け取ると一口飲んで盆に置いた。


「お父さん、探し物は。私も探そうか」


「いやいや、見つかったから大丈夫。倉は酷い有様だったよ。母さんが整理していた倉を半年であそこまで汚く出来るのはもはや才能だ。弟ながら呆れる」


 沙良の父、四之助しのすけはコップに注いだ麦茶をグイと一息に飲み干すと、愚痴をこぼしながら障子を開けた。沙良は日陰へと座り直し、父のコップに麦茶を注いだ。


「おじさんはだらしない。私でも分かる。ねぇ、それより用事が済んだなら帰ろう」


「そうだなぁ、暑いし帰ろうか。親父も今日は帰らんって言ってたしなぁ。お爺ちゃんに挨拶するのはまたお盆に改めてにしようか」


 沙良はいそいそと帰る準備をする。残った麦茶を飲み干し、なんとなくスマホを見た。


「うん。……あ、でもお墓行っていい?」


 台所に向かおうとする父に声をかける。すると「じゃあ、先に行っていなさい」と父が言ったので、沙良は玄関に向かった。


 玄関から裏手に回り、畑に入る。途中神社を横切って、少し山に入ると小さな墓地があった。ざわざわと辺りを囲む木々が揺れる音と、虫のさざめきが涼しい風と共に運ばれてくる。彼女は桶に水を汲んで、石畳を進んでいった。年季を感じさせる墓石の前に立ち止まると桶を置く。「日高家の墓」と書かれた墓石をじっと見つめ、一度会釈をする。ふと、新しい花が供えられていることに気が付いた。大きな百合の花だ。

 少女は疑問に思った。この墓は父方の家族が代々守ったきた墓で、父の先祖や沙良の祖母も眠っていた。今この墓を守るのは祖父と祖父と共に住んでいる叔父だが、どちらも菊などの小ぶりな仏花を備えることはあれど百合のような派手な花を供えることはないのだ。

 百合に触れようとすると、誰かがこちらを見ているような気がした。振り返ると遠くの藤棚の下に見慣れない若い男が佇んでいる。染めたとは思えないほど綺麗な白髪の彼は、こちらをじっと見て固まっていた。


「沙良。お婆ちゃんに挨拶したか」


「まだ。これから」


 父がパタパタと手で顔を仰ぎながらやって来た。下ろした手には雑に切り揃えられた菊を持っている。


「あれ、誰か来てたのか。親父じゃないよなぁ」


 父も百合を見て首をかしげる。「まぁ、いいか」と勝手に納得したようで百合の脇に菊を刺した。そして二人で軽く墓掃除をし、手を合わせた。


 車に乗り込み、帰路につく。沙良は助手席でスマホを見ていた。


「……さっき、お墓で知らない人見た。若い男の人。真っ白な髪の」


「太田さんのところの子じゃないか?帰って来てるって聞いたぞ」


「違う。痩せてたしイケメンだった」


「失礼だなぁ。そんなこと言うんじゃない」


 そう注意した父はくつくつと笑いを殺しきれずにいた。


「……はぁ、じゃあお父さんも知らない人だなぁ」


「そうなんだ」


 沙良はまたスマホに目を落とした。こちらが見知らぬ人間だと思ったように、彼もまたそう思って私を見ていのかもしれないと納得し、考えに切をつけた。母からのメッセージに返信をし、まだ長い帰路にため息をついて目を閉じた。


「サヨ。寒くはないかい」


「サヨ。もう行かなくちゃ」


「サヨ。サヨ。さよ。……沙良」


「着いたぞ沙良。起きなさい」


 揺すられた肩が過剰にビクッと飛び跳ねる。その拍子に肘を打ち付け、痛みで意識を覚醒させることとなった。夢を見るほど熟睡していたようで、肩口によだれが垂れている。よだれを拭いながら車から降りると既に日が暮れていた。車で寝たせいでバキバキになった体を鳴らしながら家に入る。


「ただいま」


「おかえり。あら、寝てたの?顔に跡ついてるわよ。ご飯の前に顔洗ったら」


「ん……」


 沙良は眠気眼をこすりながら先ほどの夢を朧げな記憶から思い出していた。顔は見えなかったが、優し気な誰かがこちらに語り掛けてくる夢。誰かがこちらの頬を撫でる手の暖かさや、感触が妙に現実的だった。まるで記憶を追想しているかのような現実感があった。しかし彼女にはあのような記憶はない。頬を撫でてくるような相手は父や母ぐらいしか思い当たらないが、幼い頃の記憶だろうかと一人ごちる。


 顔を洗って台所に向かう。冷蔵庫を開けて水を取り出す。


「向こうは暑かったでしょう。お爺ちゃんに挨拶した?」


「今日はお爺ちゃん居なかった。町内会の集まりだって」


「そう、じゃあお盆にまた挨拶に行かなきゃね。今度はお母さんも行くから」


 水を飲み干してコップを流しに下げる。コップを洗い始めると、ついでと言わんばかりに母が皿を流しに下げた。それらもついでに洗ってしまう。


「……お母さん、私のほっぺ触って」


「なに?まだ跡は残ってるよ」


 母はグイと沙良の頬を撫でる。骨ばった細い指は、直前まで水仕事をしていたからか冷えている。先の夢のものとは違う様だ。


「……なんでもない」


「そう?」


 母は大して不思議がることもせずに食事を盛りつけ始めた。沙良は洗った食器を拭いてしまうと、食卓に食事を配膳した。そして三人そろって食卓に着く。



 食事を終えて、風呂も済まして夜もすっかり更けた頃。リビングを見ると、ソファで持ち帰った小箱を睨みつけている父の姿が見えた。

 父は唸りながら小箱を傾けて揺らしたり下から覗き込んでいる。


「んん?……ここを押すのか?いや引く?」


「何してるの」


「ああ、今日持って帰って来た箱なんだけどさぁ。細工箱で開けられないんだ。お婆ちゃんが残したもので中身はお前にやるって話なんだが、肝心の中身がなんなのか……」


「じゃあそのまま頂戴よ。開けるのもあたしがやるから」


 父から小箱を受け取る。一見してただの桐の小箱だが、蓋はついておらず開け方は一目に解らなかった。


「お父さんじゃあ壊すところだったよ。お前は器用だからお父さんよりは適任だ。開けたらお父さんにも中身を教えてな」


 父はそう言ってリビングを後にしようとした。


「待って」


 父の手を掴んで頬に当ててみる。厚く固い掌はザラザラとしており、あの夢のようなすべらかな感触は無かった。


「どうした」


「いや……何でもない」


「そうか。じゃあおやすみ」


 父は訝し気な表情で首をかしげると、リビングを後にした。沙良はあの夢を思い出し、あの妙な現実感は何だったのかと、少し気味悪く思った。愛おしそうに声をかけ、頬を撫でる彼は誰なのかと思った。ぐるぐると思考を巡らせながら布団に入る。それを考え始めると止まらなくなり、何故か寂しくも思った。そうしてまた微睡みの中で、彼の声が聞こえ始めた。







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