願いに触れる ―3

 あの日、レイに魔法を向けたその瞬間から、レイのことを忘れたことなど無かった。初めはただ傷付けたことに後悔と自責の念を覚え、謝りたいという気持ちだけを抱えていた。しかし次第にそれらが肥大化して、いつしかリリィ自身をも押しつぶしていった。時が経ち、気付けば顔を合わせることすら気まずくなっていたが、それを自覚すること自体を恐れてレイを避け始めたのがその頃だ。最終的にはレイを避けることそのものが目的となり、遠ざけるためなら心ない言葉を投げつけ魔法を向けることも厭わなかった。


 しかし今はどうだろう。今さらながら再び傷つけることを拒み、その気持ちを押さえつけていた。しかし、そうして地に伏したのはリリィの方だった。そして今、都合の良いタイミングで自分の辛さを吐き出している。


 あまりに自分勝手であることはリリィにとって明らかであった。しかしそれが知れていたところでどうとできるわけでもない。見窄らしく理不尽で不器用な方法でしか想いを伝えられないこともまた事実であった。


 こうして吐き出されたリリィの想いは、誰の手に触れることもなくその場に転がった。溜め込んでいただけでも重苦しく場所を取ったそれは、たとえ体外に出ようとも煩わしさに変わりはない。目にすることさえ億劫に感じられた。


「自分勝手で、わがままで。あんただけに理由を押し付けて。その上傷付けたのは間違いなく私の方。それなのに、今さらあんたと仲直りなんて、できるわけないじゃない」


 そう告げるリリィの言葉はあまりにも弱々しかった。こうして自身の想いを吐き出すことでリリィだけが苦しさから解放される。一方でレイを置いて一人だけ楽になろうとするその傲慢さが、リリィだけをもう二度と戻ってこれない谷の底へと突き落とす。しかしこれが当然の報いなのだとリリィは思っていた。


「違うよ。リィちゃんがどれだけ努力してたかなんて私、あの時全然想像もしてなかった。傷付けたって言うのなら私だってそうだった」

「それでもよ。私たちはもう、あの頃みたいには戻れないのよ」


 リリィの言葉は相変わらずレイを遠ざけるようなものだったが、以前とは打って変わって突き放すようなものではなかった。ただそれは、後悔の念を漂わせ、過去の行いの報いであれば仕方ないと自身に言い聞かせているようだった。


「どうして? リィちゃんは私が友達なのがそんなに嫌なの?」

「そうじゃない、けど……でも何度も言ってるでしょ? 私にそう言える資格は無いの。いくら歩み寄られたところでその手を取ることはできない」

「誰がそんなこと決めたの? 友達と仲直りするのに資格が必要だなんて聞いたことないよ」


 顔を伏せたリリィとは対象に、レイは拳一つ前に身を乗り出した。頑なにレイと視線を合わせようとしないリリィの顔は、陽が当たらないことを考慮しても暗く翳っていた。


 今なら確実に手が届く場所にリリィがいる。たとえリリィ本人がその気でなかったとしても、その事実を目の当たりにして引き下がるほどレイは聞き分けが良い方ではない。こうして想いを伝えても、それでも引き下がろうとするリリィを見て心に火が付くようだった。


「逆に、自分を傷つけた相手にどうしてそんなことが言えるの? 自分がそうだったから、なんてそんな理由じゃない。もっとちゃんとした、納得できるような理由」


 膝の上に置いてあったリリィの拳が硬く握られている。喧嘩別れで遠ざけたはずのレイがどうしてここまでするのか、その意図が理解できていないようだった。


「理由って言われても、リィちゃんが友達だからとしか……」

「そんなの理由になんかなってないじゃないっ!」

「リィちゃん……」


 声を荒げたリリィがレイの言葉を待たずに続けた。


「友達、友達って。私はあんたなんか友達じゃないって、大嫌いだってそう言ったじゃない! これ以上私に関わらないでよ。こんな私のことなんか放っておけばいいじゃない!」


 レイたち二人を除いて誰もいない医務室にリリィの声が反響する。この部屋に他に誰もいないとしても、廊下からはこの会話が筒抜けなのだろう。


 息も絶え絶えに捲し立てたリリィの表情をレイからは窺い知ることができなかった。一層硬く握り込まれた拳にはうっすらと汗が滲んでいるようだ。


 リリィ本人はそう言って何もかもを拒絶していたが、レイが目覚めるその時まで傍を離れず見守っていたリリィの行動は明らかにその思いと乖離していた。


 本心ではどう思っているのか、知りたいと思い歩み寄ろうとしてもリリィの心は固く閉ざされ中を覗き見ることも許されない。それでもレイは声をかけ続けた。今はただそうする他なかった。


「放ってなんか置けないよ。リィちゃんは大切な友達だからさ」

「結局そればっかりじゃない。違うって言ってるでしょ」

「……でも、何度考えてもそれ以外の答えなんて見つからないよ。友達だから大切に思うし、手を繋いで寄り添おうとする。喧嘩だってしたけど、それでも友達だからこそ仲直りしたいって、私はそう思うよ」


 顔の見えないリリィに代わってレイは屈託の無い笑顔を向ける。それは暗く影を落とすリリィの心に陽を刺すような笑みだった。


 何度傷付けられようとも、何度拒絶されようとも、レイの中でリリィが親友であるという位置づけに代わりなどなかった。レイにとってはそれが全てであり、故にここまでリリィとの関係を保ち修復することに固執してきた。


「私にとってはこの学院に入って初めてできた数少ない大切な友達なんだよ。喧嘩なんかしたってそんなことで友達辞めるほど適当に思ってるわけない」


 レイの言葉を聞いても、依然としてリリィは黙ったままだった。身も心も俯いて、足元に視線を落とす。もう一度前を向くことなどできない。そう思えるほどに、その姿勢のまま体表を覆う感情の泥は固まっていた。


「分からない……全然分からない。それなら私はどうすればいいの」


 レイの真意を問うようなことはもうしなかったが、代わりにリリィは責めるように自問した。


 口ではレイを拒むように遠ざけた。しかしこの期に及んでレイと同様に互いの関係を修復しようとする自分がいることも疑いようのない事実である。矛盾した二つの感情は確かにリリィのうちにあるもので、真反対の方向にリリィを引きちぎろうとまでしている。


 しかしそうまでしてもリリィの口から仲直りがしたいというその言葉はついぞ出ることはなかった。


「ねぇ、リィちゃん。手、伸ばしてみてよ」


リリィに向けてレイが左手を伸ばしていた。リリィのほんの少し前に掲げられたその手はリリィが一度目を背けた、あの頃の懐かしさを感じさせている。


 その手に向かって、ほとんど無意識のうちにリリィは左の手を伸ばしていた。出来ることなら手を伸ばしてそこに触れたい。そうすれば胸の中で渦巻くモヤモヤとした気持ちも、全身を蝕む苦しさも全て跡形もなく晴れるに違いないと藁にもすがる思いでそう願っていた。


 しかし、同時にそれがいとも簡単に壊れてしまうほど脆く儚いもののようにも思えた。自分如きが触れてしまえば、今度こそ本当に失ってしまう。そんな恐怖心がリリィの奥底に巣食っていた。近づくにつれその想いは膨れ始め、次第にリリィの全身を恐怖が支配し始める。気づいた時にはそれ以上前に進めなかった。


「……怖いの?」


 しばらくして宙にとどまったままのリリィの手を見てレイの柔らかな言葉が届く。自身の胸中を見透かされたような言葉にリリィは一瞬全身が跳ねるような感覚を覚えた。


 強ばった表情でレイの顔を見るが、そんなリリィのことなど分かりきったような雰囲気でレイは笑顔を向けていた。


「前まではリィちゃんの存在が果てしなく遠く思ってた。どれだけ私が頑張っても、あの頃からリィちゃんは私のずっと前の方にいたし、同じ時間努力してもリィちゃんの方がずっとずっと遠くに行っちゃってて。でもね、今はこんなに近くにいる。遠いと思ってたリィちゃんに今なら簡単に手が届くの」


 瞼を落としてレイはこれまでのことを思い返していた。どれだけ懸命に手を伸ばしても、どれだけ必死に努力をしても、一向にリリィの姿が見えなかった。自分の力では到底追いつくことなど、ましてこうして面と向かって話をすることなど不可能だとそう信じ切っていた。


 しかし、今なら望めば手が届く。これが今までの努力の成果だ、などと軽々しく口にするつもりはないが、今この状況が何物にも変え難い、これ以上ないほど愛おしく幸せを感じさせるものであることは疑いようがなかった。


「だから、今ならもう少しだけ、手を伸ばすことだって簡単なんだよ」


 二人の手が再びゆっくりと近づき始めた。今でさえレイとリリィの間に深く底の見えない溝がある。しかし、その上で手が結べない通りなどどこにも無かった。溝の深さにのみ目を取られていた二人には、それが容易いことも知るよしも無い。


 リリィの薬指がレイの手のひらに触れた。


 それでもリリィは恐れていた。泥に塗れたこんな手でレイの手に触れようとも、そう遠くないうちに再び離れてしまうのではないかと。


 そんなリリィの恐怖心を包むように、レイがリリィの手を握ると自身の方へと引き寄せた。レイの胸に抱かれると陽の暖かさがリリィの凍った心を溶かし、柔らかな香りが荒れ果てた心を鎮めるようだった。


「ね、こんなに簡単だった」


 リリィの頭上でレイの優しげな声がする。しかし今のリリィにレイの顔を見ることはできなかった。それどころかリリィの歪んだ視界ではもはや正確に物の輪郭すら捉えられないだろう。


「どうして……私はあんたに、レイに許されていいわけないのに」

「許すも許さないもないよ。私はただ、リィちゃんと仲直りしたいだけだってば。何度も言ってるでしょ?」

「でも、次またいつ傷付けてしまうかも分からない。私が望んで得た力で、また望まない結果を作り出してしまう。それが怖い、怖いの」


 嗚咽と共にリリィの中で永らく留まっていた感情が堰を切ったように止めどなく溢れ出していた。自身の努力で結果として本当に大切だったものを失った。努力することへの意欲が削がれたことはなかったが、自分がそうすることで大切なものはもう戻ってこないのだと深く心に刻みつけることになった。たとえレイの方から手を伸ばされたとしても、それを断ち切ってまた無下にするのは自分の方だと、そう思えて仕方がなかった。


「じゃあその度に仲直りしようよ」

「そんなの、いつか絶対にできない日が来る。今回上手くいったとしても次の保証なんてないじゃない」

「それなら、次上手くいかないなんて保証もないよ。今仲直りができるなら次だってきっと、何度だってできるよ。それが友達なんだから」

「またレイのことを傷付けるかもしれない」

「それでも仲直りしよう。今度もまたリィちゃんのことは諦めないから」


 レイがより一層リリィを強く抱きしめた。諦めないとそう言ってみせた自身の言葉を示しているようだった。


「どうしてこんなに私のことを気にかけるの? 私のことなんか気にせず放っておきさえすれば、変に悩みの種を抱えることも無かったかも知れないのに」

「そんなの簡単だよ。言ったでしょ? 私は欲張りだから。リィちゃん一人だって手放したくない。今までも、これからも諦めたくないって思うし、諦めるつもりもないよ」


 ここまで言っても折れる様子のないレイにもう何を言っても無駄だった。何度傷付けられようとも、何度跳ね返されようとも、その度にレイはリリィの手を取ろうとするはずだ。自身をわがままだと自称するレイの言葉には明確な形などない、しかし確固たる自信がそこにはあった。


 恐怖に怯えていたリリィを優しく包み込んでなおレイは暖かった。それは窓から差し込む小春日和の日差しのおかげだけではないのだろう。


 陽射しで暖められた泥はいずれ崩れ落ちる。今はまだ泥で汚れているリリィの手もいつかは素肌を晒し、真にレイと触れ合うことができるはずだ。そう遠くはない日々をそばに据え、今はただほんの小さな幸福を優しく、その胸に宿すに留めた。

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