願いに触れる ―2

 レイとリリィとの試合が終わった次の日の昼、リリィは見慣れぬ天井の下で目を覚ました。周囲や自身の服装を見て、すぐさまそこがどこかは理解できたが、いつ運ばれたのかは定かでは無い。


 自分の敗北がやけに脳裏に焼き付く中で、カーテンを隔てた向こう側にも一人、横たわっている影が見えた。聞けば同時に運び込まれたレイだと言う。何故試合相手同士で隣に寝かせるのかと悪態をついたが、同時期に運ばれたのであればなんら不自然なことはない。初めのうちはリリィもしょうがないと割り切っていた。


 カーテンで隔たれている以上、わざわざレイの方から干渉してくることも無く、それぞれ身体に異常がないことが分かればすぐにでも退出許可が出るはずだ。それまでの短い間であれば、たとえこれほどまでに近くにいたとしても気に触ることも無いだろう。リリィが少し我慢すればそれで済む話だった。


 しかし、どうせ一晩経てば、丸一日経てば、もう一晩、もう一日、といくら待ってもレイが目覚める様子がなかった。あれだけの魔法を行使したからだろうか、身体に深刻なダメージでも負ったのだろうか、いくつか理由を考えてみたが、眠っているレイの姿を見ることも無く、専門知識も持たないリリィには到底分かるはずもない。


 三日目の夜に差し掛かって初めてリリィはカーテンの向こう側を覗いた。穏やかな表情で僅かに月明かりに照らされているレイは、リリィがよく知っているレイに他ならなかった。


 恐る恐る近寄ると、リリィが寄せていた心配など他所に、レイは静かに寝息を立てていた。青白く照らされた頬にリリィは思わず息を呑む。上下に小さく動く胸が無ければまるで作り物のようにすら感じるほど綺麗な肌。ただ眠っているだけのレイがそう見えるのは、他に誰の気配もないこの非日常的な状況が故なのかも知れない。


 黙ってレイの寝顔を眺めていると、リリィの中でレイとの試合が思い出された。レイが編んでみせた今までに見たことのない魔法たちは、そのどれもが深々とリリィの記憶に焼き付いていた。リリィが高を括って、レイが格下であると信じ切っていたことは間違いない。それもあって初めて目にする光景に思わず身が竦んでいたことを他ならないリリィの身体が今でも強く覚えている。


 本来なら試合開始と同時に有無を言わさずレイを地に伏せることも可能だったはずだ。しかしリリィ自身がレイを恐れ傷つけることを躊躇っていたのもまた事実だった。高々試験の一環だ、などと頭では理解しているつもりでも、レイに向けた手は左右に逸れ、体内の魔力もいつものように素直に動いてはくれなかった。


 今目の前で眠っているレイからはそんなことがあったとは微塵も感じさせない。リリィがよく知っている、魔法が使えないレイと何も変わらない。


 いつのことだったか、ティアが言っていたことを思い出していた。レイならいつか必ずリリィの元まで追いつくだろうと。追いつくどころか通り過ぎて置き去りにされたことはさて置いても、あれら全てがこれまでのレイの努力の証だったのだと言える。


「ねえ、レイ……」


 名を呼んでみたが、当の本人はピクリとも反応を示さない。それはこれまでのリリィの態度に対する当て付けのようにも感じられた。


 何も物言わぬレイの様子は、ともすれば死人も同然と見まごうほど静かで穏やかだった。数日もすれば何事もなかったかのように目を覚ますだろうとリリィは楽観的に考えていたが、しかし一方でレイがこのまま目を覚まさないかもしれない。そんな考えがリリィの頭をよぎった。


 レイが何事もなく目を覚ます保証などどこにも無い。そして、レイをそんな状態にしたのはリリィ以外に考えられなかった。


 もう二度とその手で傷つけたくないとそう願った。だからこそあえて脅し嫌われるような言葉を投げつけて自分に近づけさせないようにした。しかし、リリィがそんな思いを抱えているとも知らずに、レイはリリィへ向かってくる。これまでのレイとはまるで別人かのように感じられ、それに恐れをなしたリリィは気付けばそこに手を向けていた。


 その時になれば震えていた手もレイを真正面に捉え、魔力も血液のようにリリィの身体を隅々まで満たした。身体を押さえつけようとしても恐怖に支配されたリリィにはもはや無駄な足掻きだった。


 青白く照らされる自身の両手を見つめる。他でもないこの手がたった一人の親友を傷つけた。その事実は変えようもなく、リリィの脳裏に強く残っている。


「ねぇ、私は…………どうしたらいいの? こんな手でもう一度あんたに触れることなんてできない」


 覆い被さる泥に依然としてリリィの手は塗れていた。一方で傷つけたくないと強く思い、もう一方では傷つけてでもレイを拒もうとする。自分でも理解ができないほどにリリィは矛盾していた。だが、もう二度と陽光の下には出られないだろうと自分を卑下するその考えだけは唯一揺らがなかった。


 その夜はどうやって明かしたのか、リリィ自身も覚えていない。しかし次の日から退出許可が降りたにもかかわらず、リリィは医務室に残り続けた。何をするでもなく、ただレイを傍で見守り続けた。そうするのがリリィに課せられたせめてもの報いであるであるかのように。


 だからこそレイが目覚めたことを目にした時は、一瞬現実かどうかを疑うほどだった。しかしそれが本当だと知った時のリリィの安堵感は計り知れなかった。


「一週間ずっとだなんて、リィちゃんも起きてすぐだったのに大変だったでしょ?」

「別になんともなかったわよ。ただ……」

「ただ?」

「あんたが無事に目覚めてくれて……安心した。それだけ」


 今のリリィにはそう伝えるだけで精一杯だった。僅かながらでもそれが本心であることには違いない。しかしそれ以上何かできるわけでもなく、二人の間に開いた深い溝を越えてまで手を伸ばすことは絶対に叶わない。そうするだけの資格も無いのだとリリィはしつこく自身に言い聞かせていた。


「ねぇ……リィちゃん」


 躊躇いがちにレイがリリィを呼ぶ。リリィが振り向くと、声色と同じように不安そうな表情をレイが浮かべていた。


 何、とは聞かずに、リリィはただレイが口を開くのを待っていた。しかし言葉を選んでいるのか、レイの口から言葉が出てくるまでにはしばらく時間を要した。


「ねぇ、リィちゃん。私たち、仲直りできない、かな?」


 レイから告げられた言葉に、一見リリィは落ち着き払っている様子だった。一方であらかじめレイが何を言い出すのか予想できているようでもあった。


「それは…………できない」

「どうして? 元は私たちこんな関係じゃなかったでしょ?」

「昔は確かにそうだったかもしれないけど、今じゃ違う。そうでしょ」


 現状をよく見てみろ。言外にそう言われているようだった。こうして言葉を交わしていても、互いに一歩引いているような感覚が否めない。現に元の関係に戻りたいと心の奥底から思っていたレイでさえ、それを否定することはできないでいる。だからこそ懇願や押し付けなどではなく、遠慮がちな提案することしかできなかった。


「でも、私嫌だよ。リィちゃんとこんな関係のまま、もう少ししたら卒業して会えなくなるだなんて」

「もう会えなくなるなら別にそれでいいじゃない。これ以上気にすることなんてないわよ」

「良くない! だって……少なくとも私のせいでこうなったんだから。心残りだよ。また昔みたいに一緒に笑って、一緒にご飯食べて。リィちゃんとやりたかったことだってたくさんあったのに……」


 初めに引き金を引いたのは自分の方だったとレイは自身を責めていた。目には見えないリリィの信念を傷つけたことが取り返しのつかないことだったと。それが悪意のない、ただ純粋に当時のレイの本心から漏れた言葉であるのなら尚更だった。


 一方で、レイが自責をする言葉を聞いてもリリィは黙ったままでいた。自虐するレイに腹を立てたわけではなく、ただ不機嫌そうな表情を浮かべて自身のことを振り返っていた。何度も当時のことを思い出そうとしたが、その度に自分の行動の節々が気になってしょうがない。


 レイの努力を見ずにその意義を否定した。自身の力に高揚し、驕り高ぶったような態度でレイに接していた。そして何より親友をこの手で傷付けた。揺るぎのない過去の過ちたちがキリキリとリリィの身体中を締め付ける。


「違うわよ。悪いのは、レイじゃないから」

「え、でも……」

 じゃあ他に誰が、とレイが続けるよりも先にリリィの口元が動く。

「私が……私が悪かった」


 震えるほど拳を堅く握りしめ、リリィの視線は自身の足元に向いていた。何重にも重ねられた感情が重苦しくその場に落ちる。誰も拾おうとしないそれはこれまでずっとリリィの中で燻っていた想いだった。

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