願いに触れる ―1

 レイが目覚めると真っ先に見知った天井が目に入る。大した模様もなく、まるでまっさらな紙を思わせるような天井は、ボーッと見ていると吸い込まれていくようだった。そして、辺りには消毒液のツンとした匂いが漂っていた。ここが医務室であることを強く思い出させてくれると同時に、どうしてか安静にしていなくてはならないという気持ちにさせる、不思議な香りだ。


 医務室のベッドの上にいるということは、何らかしらの理由があるのだろうが、目覚めてすぐのレイにそれを分析するだけの気力は無かった。仰向けに寝た体勢で、どこか身体が痛むわけではなかったが、頭が浮ついたようなぼんやりとした感覚を覚える。


 ふと視線を左にやると、椅子に座ったまま身体を丸めて静かに寝息を立てるリリィの姿があった。無防備すぎるその姿はレイの記憶の中にある幼い頃のリリィと重なるようだった。それも相まってレイの側でリリィが眠っている、という異様な光景が余計に夢の中なのではないかと誤認させる。


 もし仮にこれが夢ならばどれどけ良かったことだろう。もう一度だけ、仲睦まじい穏やかな時間を過ごしたい、とそう思った親友が今目の前にいる。今のレイにはそれを眺めていることしかできなかったが、それだけでも十分すぎるほど心が満たされていくようだった。


 しかし一方で、リリィが目覚めてしまえば、これまでのように互いの存在を避けながら生活を送らなければならない。レイが自らそれを望むことなど断じてなかったが、これまでのリリィの態度からリリィはどうやらそう思ってはいないようだった。

 どうあっても埋め立てることができないほど、今の二人の間には深く暗い溝が開いていた。あくまで仲が良かったことなど過去の話であり、レイがどれどけ強く関係の修復を望んでいたとしても、今は対立するほかない。そう思い出すほどにレイの頬を熱いものが伝うのを感じた。


 希って手を伸ばした存在が、今文字通り目の前にいる。しかしどれどけ近くなったとしても、どれどけ手を伸ばしたとしても、あの頃のような関係にはもう戻れないのだ。今はただ親友の寝顔を静かに見守ることしかできないでいる。


「リィちゃん……」


 レイの声が力無く溢れる。声を届けるつもりなど微塵もなかったが、レイの声に合わせてリリィの瞼が震えた。ゆっくりと目を開けるとすぐにレイと目が合う。しばらく無言のまま見つめあっていたが、急にリリィがハッとした表情を見せた。


「レイ…………目、覚めたんだ」

「うん……」

「どこか身体、痛かったりする?」

「ううん、全然大丈夫だよ」

「そう、良かった」


 一言ずつのぎこちない会話が往復してはすぐに途切れた。以前までのようにレイの存在自体が不快であるかなような雰囲気はリリィから感じられなかったが、そうであったとしても今さらどんなことを話せば良いのか全く分からない。


「あ、あのさ、リィちゃん」


 布団を退けるとレイは壁にもたれかかるようにゆっくり起き上がる。どれぐらいの期間眠っていたのは見当もつかなかったが、案外身体はなんともないようだった。


「何?」

「私ってどれくらいこうしてたの? 次の試合もあるし早く戻らないと」

「…………一週間よ」


 レイの問いに一呼吸おいてリリィが答える。その雰囲気は、二人の関係を抜きにしてもどこかどんよりと重かった。


「一週間? そんな、嘘でしょ?」

「嘘なんか付くわけないでしょ。試合が終わってからあんた、一週間眠ったままだったのよ」


 呆れたようにそう言うリリィを前にレイは言葉を失っていた。


 全十試合ある試験のうちリリィとの試合の後に控えている試合はそう多くはない。それが全て不戦敗になっていたなどと眠り続けていたレイには知る由もなかった。しかし、それならばレイの勝敗数は絶望的なものとなり、必然的に卒業が難しくなることも当然である。勝敗など関係なしに無事に卒業するためにここまでやってきたレイにとってその現実はあまりに非情だった。


「何をそんなにしょぼくれてんのよ」


 リリィの呆れた声が再びレイに向けられる。レイが顔をリリィの方へと向けると、リリィは背もたれのない木製の椅子に足を組んで不服そうな表情を向けていた。


「だって……あんな試合の結果じゃ、卒業できるか怪しいから。折角ここまで頑張ってきたのに……」

「何言ってんのよ。実技試験なんて勝敗だけじゃなくて試合の内容だって評価の対象内でしょ。それなら何も問題なんてないじゃない」

「それなら余計に、だよ。結局、碌な魔法も使えてなかったんだから……」


 話すたびにレイの頭は床に向かって徐々に落ちていく。どこに視線が向かおうとも、今まで積み重ねてきた練習の記憶がレイの頭をよぎった。大した成功体験のないレイにとっては、そのどれもがなんの価値も無いものに感じられてしょうがない。


 今までやってきたことが全て無駄だったなどと、たとえそれがレイ自身のことであってもそう思うことすら嫌悪した。落ちこぼれのこんな自分でも、努力することが無駄になるわけではないと胸を張るために、血の滲むような日々を重ねて来たのだ。今になって結果に及び至らなかったなど、これ以上打ちひしがれることもなかった。


「あんたそれ、本気で言ってるの?」

「本気も何も、リィちゃんが一番近くで見てたじゃない」

「そうだけど、まさか私との試合結果覚えてないの?」

「リィちゃんとの試合結果? 私がこうなってるってことは負けたんじゃ……ないの?」


 レイが話しているうちにリリィの表情が変化していった。呆れから怒りとも驚きとも取れる感情を露わにして、言葉が出ないことがリリィから伝わってくる。それを感じてかレイの声量も尻窄むように小さくなっていった。


「私が負けて、あんたが勝ったのよ。全く……覚えてないなんてどうかしてるんじゃないの」

「ご、ごめん……」


 棘のあるリリィの言葉にレイは咄嗟に謝った。リリィの前ではもはやそれが癖になっているかのようで、レイ本人も何のために謝っているのか判然としていない。


「別に怒ってるわけじゃないわよ。ただ、私もびっくりして。あんたが……あんなに強かったなんて」

「それってさ、本当なの? 私、そんなこと全然覚えてなくって。私がリィちゃんに勝っただなんてイマイチ理解できないよ」


 もちろん最初から負けるつもりで挑んだわけではない。しかし明らかな力量の差と今こうして自分がベッドの上にいることから、レイには俄かに信じられないことだった。


「その顔、本当に知らないって感じね。でも本当よ。あんたの戦績は一勝九敗よ」

「リィちゃんは?」

「七勝三敗」

「そう、なんだ」

「なんか、あんたにそんな反応されると癪ね」

「ごめん、なさい」

「別に怒ってないってば」


 リリィが大きくため息を吐いた。過去どのように言葉を交わしていたのかを思い出すまでには、これまでと同じだけの時間を要するのかもしれない。少なくとも、あの頃の二人の様子は、今のように互いに怯えているような表面上だけのものではなかったはずだ。


 こうして二人きりで向き合う機会ができたというのに、どのようなことを話せば良いのか、レイの頭の中は真っ白になっていた。試合の前であれば話したいことなど容易にいくつも浮かんだものだったが、今はそれすら思い出せない。


「「あの————」」


 同時にぶつかった二人の声が医務室に反響した。すぐさま掠れ消えていったが、いつまでもそこにとどまり続けているようで、レイとリリィも見つめあったまま硬直した。


「り、リィちゃんから良いよ」

「私は、別に良いわよ。大した話じゃないから」

「そう? じ、じゃあ、えっと、私が寝てた間にティアとか来なかった? 私もこんな状態だし、試合が全部終わってるなら心配してると思うんだけど」

「ティア?」

「あ、えっと、ティアっていうのは私の友達で————」

「知ってるわよ。面識もあるし。でも、あんたがここに運ばれてからは一度も見てない」


 慌てて捲し上げるレイを尻目にリリィは声色ひとつ変えずにそう返答してみせた。

「そう、なんだ……」


 ティアやルクスが様子を見にきていないことに不安を覚えたわけではなかったが、何も音沙汰がないのはそれはそれで寂しいような気もした。記憶にないリリィとの試合の様子など知りたいことは山ほどあるというのに、二人がいないようでは聞きようもなかった。


「あれ? でも私が運ばれてからってことは、その間リィちゃんがずっと看ててくれたってこと?」


 落ち込もうとしていた気を振り払って、レイはリリィの方へと身体を向けた。当のリリィはと言えば図星だったのか、レイと顔を向き合わせないように壁の方を向いていた。


「そうなの?」

「…………そうよ。だから何だって言うの」

 わざとらしくきつくした語調も、今のレイには肯定の合図にしか聞こえなかった。

「……ありがとう、リィちゃん」


 ぎこちない関係とは裏腹に、レイの口からいとも容易く感謝の言葉が溢れ出した。レイにはいつかのあの頃を思い出させるような、そんな懐かしささえ感じられた。


「別に感謝される覚えなんてないわよ。たまたま一緒に運び込まれて、私の方が先に退出許可が出ただけだから!」


 思わず笑みを浮かべるレイとは対象にリリィは無愛想そうな様子を示した。しかし言葉とは真反対に真っ赤に染まるリリィの横顔はどこまでも正直だった。


 確かにリリィはレイに感謝されるためにわざわざ看病していたわけではなかった。無論、学院の担当医に頼まれたからと言うわけでもない。しかし何かに追われるように、何故かリリィは気付けばそうしていた。

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