衝突と到達 ―4


 リリィからそう離れていない場所に、倒れて伸びているはずのレイがそこに立っている。黙って俯いたままのレイは、リリィが想像したように頭や腕、腹部などあらゆる箇所から血を流し、脇腹を土塊の槍が貫いていた。


「レイ……」


 不安の入り混じった声でリリィはもう一度その名を呼ぶ。しかし、返事はない。


 会場からもレイを心配するような声が聞こえ始めていた。満身創痍などとっくの昔に通り過ぎている。見るも無惨なほど痛々しい姿になっているにもかかわらず、そこに立つ姿はむしろ見るものに恐れを感じさせる異様な雰囲気を放っていた。


 沈黙を貫いていたレイだったが、しばらくすると咳と共に血の塊を吐き出した。同時に観客らのどよめきが大きくなる。しかしそれ以上にその様子にリリィは目を疑った。


 それまでの重苦しい振る舞いとは打って変わって、レイは何事もなかったかのような表情で自身の身体を見回していた。流血の量を確認し、腹部の傷を触診している。時たまブツブツと独り言を言っているようだったが、リリィの位置からでは聞き取ることはできなかった。


「あーあ、思ったよりも手ひどくやられちゃってるなぁ。後遺症とか残らなきゃいいけど」


 腹部の傷を一撫でしてレイがそう言う。先程まで必死な形相でリリィに向かっていたとは思えないほど今のレイは穏やかとも平凡とも感じられるような様子だった。


「その傷でどうしてそんなに平気でいられるの? それに保護カプセルだって」


 あまりに異質な様子にリリィは疑問を投げずにはいられない。今もなおレイの脇腹を貫いている槍はいくら魔力が込められているとはいえ、元は実態を持っている土である。高度な医療魔法を使用しているのならまだしも、何の処置もせずに平気でいられるほどの代物でもない。でなければ、ついにレイが壊れてしまったとも取れる。


「保護カプセル? ……ってこの腕章のことか。それなら、随分と大きな音が鳴りそうだったからさっき止めておいたけど」

「止めたって何言ってるの?」

「それは、そのまんまの意味だけど」


 リリィが知る中では保護カプセルは着用者の生命維持に危険が生じた場合に作動する緊急用の防御魔法が込められた魔導具であったはずだ。今のレイの状態を見れば誰であろうとその生命維持に危険が生じていると答えるはずだ。脇腹を貫かれて無事でいる人間など存在しないはずなのだから。しかし目の前に立っているレイはそんな様子など微塵も感じさせない。今もリリィを不思議そうな眼差しで見つめている。


「保護カプセルが動作しなかったことなら故障の線もあり得るし百歩譲って納得はできる。でもその傷で無事だなんて思えない」

「あ、やっぱりそうだよね。今すぐどうにかするから、ちょっとだけ待っててよ」

「待つって一体何するつもり——」


 リリィの声を無視してレイはもう一度自身の右腕にある傷を撫でた。するとどうだろうか、今の今まで流れ出ていた鮮血がレイが撫でた側から消えてなくなった。続けて左腕、両足、頭と怪我を負った箇所を順に巡る。その度にまるで傷など元から無かったかのように綺麗に傷跡が消えていった。最後に脇腹の槍を撫でると、魔力が籠っていたはずの槍すらも宙に溶けて消えていった。


「魔法の類……いや、でも詠唱なんて一度も。それにレイが基本以外の魔法を使えるなんておかしい」

「さっきから何驚いてるの? らしくないなぁ。それに、今は試合中なんだよ? そんなところに突っ立ってたんじゃ勝負にならないじゃない」

「うるさい! さっきまでやられっぱなしだったくせに!」


 声を張り上げたリリィが勢いに任せて魔力を集約させて右腕を一文字に振るう。一瞬で複数放たれた闇の刃が真っ直ぐレイの保護カプセル目掛けて飛んでいった。


「おっと、危ないなぁ。ああは言ったけどいきなりは聞いてないってば」


 目を見張るほどの速度で飛来したリリィの魔法をレイは涼しげな表情のまま身を翻して去なしてみせた。


「そっちがそのつもりなら、私からも何かしなくちゃね」


 そう言ってレイが左手を正面に向けた。並の魔法使いが相手ならばこの至近距離でどんな魔法が飛び出すのか分からない。詠唱が必要とは言ってもそこから対処するために魔法を紡ぐことは至難の技だ。しかしそれがレイであれば、飛んでくるのは七つの基本魔法のうちのどれかに過ぎない。リリィほどの腕があれば見てからでも相反する属性の魔法が紡げるはずだった。


 レイが一呼吸置くと、手が一瞬黄檗色に淡く輝いた。次の瞬間、リリィの頬を掠めて魔法が通過していた。


「嘘……今何を」

「何って当然魔法じゃない。今この場所で、それ以外に何があるって言うの」


 リリィの動体視力を以ってしても何らかの魔法が通過したことしか気付くことができなかった。しかし頬を伝う生暖かい感覚は疑いようもなく本物だった。


「さあ、再開しよっか」


 笑みを浮かべたレイがリリィに向かって歩き始めた。相変わらずフィールドは荒れたままだったが、まるでリリィまでの道筋が見えているかのようにレイは迷いなく歩を進める。


それを迎え撃つようにリリィは魔力を疾らせる。しかし、どんな魔法ならばレイを止められるのか全く検討もつかない。今のリリィへとどんな魔法を放とうとも悉く無駄になるとしか思えなかった。


 リリィが逡巡している間にレイはすぐ目の前まで迫っていた。何か策を打たなくては至近距離で先程と同じ魔法を使われては、如何なリリィといえど無事では済まされない。


慌てて魔力を集めると苦し紛れに火球を投げつける。せめてレイの動きが止まってくれればそれで良いと思い放った魔法だったが、リリィの願いも虚しくレイは身を捩るだけでそれを避けてみせた。


「来ないでっ!」


 声を張り上げ、魔法を乱射してはリリィはレイを拒絶する。近づいてくる恐怖からどうにかして逃れようと足掻くようで、今のリリィからは先程までの冷静さは微塵も感じられなかった。


 それでも止まらないレイに気圧されて、最後に弾幕を張るとその隙にリリィはその場を退いた。それにどれだけの効果があるかは分からないが、ないよりはマシだろう。これで少しでも足止めができるのであればリリィも落ち着けるはずだった。


 しかし、それでもレイは止まらなかった。リリィの弾幕をものともせず、ゆっくりとリリィに向かって歩いている。


 レイが一歩近づくたびにリリィは息苦しさが増していく。レイの姿が大きくなるにつれてリリィの動悸は激しさを増す。試合前に通路で感じていたものとは似て非なる感情がリリィの中で渦巻いていた。


「門を通じ災いを告ぐ。在らざる手を以って蠢動を召し捕らえ!————呪怨じゅおん


 咄嗟に頭に思い浮かんだ魔法を紡ぐ。とにかくどんな魔法でも、近づいてくるレイを止められるのであればなんでも良かった。


 両手のひらに現れた紺色の魔法陣がリリィから魔力を吸い上げて稼働し始める。すぐさま魔法の触手が溢れ出し、レイを捕らえようと襲いかかった。


 レイは何も抵抗しないように見えた。触手が目の前まで迫っていても、魔力を巡らせる動作もなければ、相変わらずゆっくりと歩いているだけで逃げようともしない。


 そのまま触手が四肢に取り付こうとした瞬間、レイが一筋腕を振るうと触手が切り落とされ、力なく地面へと崩れ落ちた。


「いま、何をしたの。詠唱をした素振りなんて全く無かった……」


 リリィの感情を無視して、魔法陣がリリィから魔力を吸い上げては次々に触手を生み出していく。上下左右複雑な軌道を描いてレイへと迫った触手だったが、やはりレイが腕を一振りしただけでその場に落ちて宙に溶けていった。


 魔力で出来た触手を切り落とせるのは同じく魔力で編まれた刃が意外にあり得ない。効力を考えればそれは光の魔法である可能性が高いが、しかし、レイが基本以外の魔法を扱えるはずもない。それとも今までそれを隠してきたとでも言うのだろうか。


 後退るリリィの背筋をじっとりとした汗が伝う。格下と侮っていたレイにここまで気圧されるとはリリィも想像だにしていなかった。


 リリィから数メートルのところまで近づいて、レイが歩みを止めた。自信に満ち溢れたような晴れた表情をリリィに向けている。


 レイがその場で踵を鳴らすと、周囲の地面を覆い尽くしていた土塊の槍が一瞬で砂となって崩れ落ちた。どんなカラクリかは分からないままだったが、これも魔法の一種であることには間違いない。


「本当に、レイ……なの?」


 リリィの口から弱々しく言葉が漏れる。正面に立つレイは、これまでのやりとりが嘘だったかのような雰囲気を纏っていた。これだけのことができることをなぜ隠していたのかはリリィには知る由もない。


「本当に、って。そんなの自分がよく知ってるじゃない。私はあなたがよく知ってる私で、そしてあなたもよく知らない私。だから、ちょっとは覚悟しててよね、リリィちゃん」


 満面の笑みでレイはそう告げる。実に穏やかで、この場には似つかわしくない様相だった。


 リリィに向けられた手には紅の魔法陣が回っている。そこから魔法が放たれる気配はまだ無かったが、遅かれ早かれそれに対処しなければならない。


 覚悟、と言われても、リリィには目の前の親友が地に伏すまで攻撃を続けることしかできない。自らの意思ではなく、そう決められていると言い聞かせていなければ、とても自分を保っていられるだけの自信がなかった。


烈火れっか


 レイの手にある魔法陣が一層輝きを増した。勢いよく吐き出された炎の渦がリリィを取り囲む。レイがこれまで何度も失敗して見せた魔法だ。それが今はきちんとした魔法の形を成している。矢張り今までの素振りは演技だったのだろうか。口に出さないまま、リリィは思いついた魔法をそのまま編んだ。


「渦を巻け、万象を吸せよ。底の知れぬ暴飲の禍は無責に欲せ————吸饒きゅうぜつ!」


 リリィの手に浮かんだ魔法陣がレイの魔法を吸い込み発散させていく。呆気なく消えていく炎の檻にリリィは拍子抜けするような感覚を覚えたが、レイはすぐに次の魔法を放っていた。


切岸せつがん氷花ひょうか


 連発された二つの魔法は逃げ道を塞ぐように展開された。不規則に地面から生える土塊の槍は足の踏み場を減らし、僅かな隙間に足をついても透明で冷ややかな花がリリィの足の上に咲こうとしていた。跳ぶようにして辛くもリリィはこれを避け続けたが、逃げ場所がなくなるのも時間の問題だった。


 今のリリィにはまるで反撃する余裕がない。何らかの魔法を紡ぐためには魔力を溜め、詠唱を行えるだけの時間が必要になる。それを分かっているのか、レイはリリィが落ち着いて魔法を編めるだけの時間も与えないように、まるでリリィを弄ぶようにしていた。


「これじゃ何も……できない」


 苦し紛れに数発の基本魔法を投げつけてみたが、レイは身を捩って軽々しく避けるだけ何の影響も及ぼさない。いつのまにかレイとリリィの立場が入れ替わっていた。

そしてついにはリリィの足に氷の花が咲いた。一瞬の隙にリリィの足を止めると、一気に氷が下半身を覆い尽くす。


「今さらこんな魔法なんて!」


 炎の基本魔法で氷を溶かそうとしたが、分厚い花は表面が光沢を増すばかりで何の変化も現れない。


「もうおしまいか。でも、リリィちゃんと試合ができて楽しかったよ。ありがとう」

「足止めしたぐらいで何だって言うの。さっさとトドメを刺さないようじゃ————」


 急に会場が暗くなった。ただ照明が落ちただけならば試合の続行には何の影響もないはずだったが、それは勝手が違った。レイが指差し、リリィの視線が向くその先にはフィールド全体よりも巨大な赤銅の魔法陣がゆっくりと反時計回りに回転して鎮座していた。


「何なのよ、あの規格外の魔法陣は。今まで見たことなんて――――」

「さて、あれが落ちればこのまま保護カプセルが作動して試合終了だよ。どうする? リリィちゃん」

「どうするって、あんた何考えてんのよ!」


 文字通り逃げ場はない。残された方法はその魔法陣から放たれる魔法を消し去れるだけの魔法をリリィが編むしかない。迷っている時間など与えられなかった。


 魔法陣から火を纏った岩石がゆっくりと吐き出される。あれだけのものを生み出す魔法などリリィは知らなかった。ただ落下するだけの魔法が、単純であるが故に暴力的でそして見る者全ての恐怖心を煽った。


 落下が始まるまでのほんの数秒でリリィは極限まで魔力を集めていた。この一撃で魔力が空になるかもしれないだけの魔法をぶつけなければ、あれを相殺することは叶わない。


 次第にリリィの身体から魔力が溢れ出し漆黒に染め上げていった。


「宵闇に潜む純なる性よ。汝の望みは我が術にあり。我が望みは汝の力にあり。我が術と汝が力をもってしてその秩序を崩落せしめろ————崩解ほうかい!」


 極限まで圧縮された魔力を一点に目掛け、解き放った。


 二つの魔法が衝突するまでに数秒と要さなかった。正面からぶつかり合った魔力の塊どうしは周囲に激しく火花を散らせて光度を増す。周囲に飛び散る魔力の粒だけでも一つ一つが魔法を成せるほどの密度を保っていた。


 強大な魔力の衝突が会場にいる全ての視線を奪っていた。規格外に並ぶ規格外の魔法は見る者を魅了し、または畏怖の感情すら与える。だからこそ、誰もがこの状況を試合の一部だとは思えなかった。どこか幻想的で浮世離れした光景が広がり、それがただ二人の生徒によって作り出されたものなどとは露とも感じられないでいた。


 攻防は長くは持たないだろう。リリィが今ある全ての魔力をそこに注ぎ込んでいたが、魔法の規模は比較できないほど開いている。拮抗すらせずにレイの魔法が徐々に速度を増して落下を始めていた。


 そして、数分と持たない間にリリィの魔法がか細く弱っていった。それと同時に、障害の無くなったレイの魔法が一層勢いを増した。もとより大した高さもなかったが故に地面に衝突するまでの時間は極端に短い。遠近感が悉く破壊されるほどレイの魔法は強大だった。


 あまりの圧に思わずリリィは目を瞑った。それで魔法が無くなるはずもなく、数秒後には保護カプセルなど虚しくそれもろとも押し潰されるだけだろう。硬く結んだ瞼の裏でリリィは頭上に広がる光景を想像した。途方もない力量の差を前にして抵抗するための気力も何処かに逃げおおせてしまった。どうすることもなく、リリィはただ最後の瞬間を待つ。


 しかし、リリィを押しつぶす衝撃はいつまで経っても降り落ちることは無かった。五秒、十秒、三十秒、一分と経っただろうか。それだけ待ってもリリィは人の形を保っている。


 恐る恐る目を開けると、目の前にリリィを見上げるレイの姿があった。


「試合中に目なんか瞑っちゃダメだよ、リリィちゃん」


 そう言って徐にリリィの右腕に手を伸ばすと、レイは保護カプセルが括り付けられていたリリィの腕章を軽く指で弾いた。瞬間、白色の魔法陣が浮かび上がり中に閉じ込めてあった保護の魔法がリリィを包み込んだ。


「最初からこれが目的……だったの」

「最初から、じゃあないけど、これが一番簡単だったから」


 困惑の表情を浮かべるリリィを前にして、保護魔法を越しにレイはもう一度微笑んで見せた。


 今までの演技はこれをするための布石だったことを今になって思い知らされる。これだけのことができてなお、不出来な生徒を演じていたのかと思うと些か怒りを覚えたが、負けが決まった以上リリィに何か文句を言う資格などなかった。


「ありがとう、リリィちゃん。私も、楽しかったよ」


 程なくしてリリィの保護カプセルが動作したことを確認した運営から試合終了を告げるアナウンスが流れた。


 幾重にも及ぶ攻防の末、幕引きはあっけないものだった。数多の試合が行われている中でそういった終わり方など数え切れないほどあったのだろうが、いざ直面してみれば何と不完全燃焼という言葉が似合うことか。


 今の自分がどのような表情をしているのか、当然のことながらリリィには知ることもできない。しかし、何とも表現し難い絶妙な表情でいることだろう。試合が終わってもリリィの中で渦巻いていた想いが望んだように晴れることはなかったが、それすら忘れ去ってしまうほど、今は何もかもを放り出してすぐにでも休みたいと思っていた。

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