月明かりに告ぐ
夏らしい、というには少し大袈裟な涼しい夜の中、レイは一人当てもなく歩いていた。静まり返った校舎を練り歩くのには大したわけではなく、暑くもないこんな夜に寝苦しさを感じたからだった。初めの頃こそベッドの上で何度も寝返りを打っていたが、気づいたときには毛布を跳ね除けて部屋も飛び出していた。
窓辺から指す月明かりがレイの行先を決めているようで、柱の影を踏まないようにして歩いていた。既に消灯時間を過ぎていることに目を瞑ればこんな夜もたまにはいいかもしれない。普段は人目を気にしてこんなことをするのにも恥ずかしさを感じていたが、周囲の目がないというのなら話は別だった。
いつの頃からか忘れていた幼心がレイの中で蘇り、普段なら人目を気にしてやらないようなことも、今なら乗り気で進んでできるような気がする。ほんの数年前までは常日頃こんなことをして面白がっていたというのに、時の流れというものはやけに残酷だった。
窓辺を跳ねるように歩いていたレイが急に足を止めた。不安げに数歩前に進むと来た道を振り返る。しかし、月明かりが差すのみでやはりその場にはレイしかいない。
まるでこれまでの足跡を振り返るようだった。リリィとの一件から努力することに苦手意識を覚え遠ざけて来た。現実を突きつけられる度に頑張らなくてはと何度も自分を奮い立たせたが、努力の可能性すら信じられなくなっていたレイにはどうにも響かなかった。そして、後に引けなくなった今、ようやくこうして一歩を踏み出せている。長かったようでここまで来るのにはほんの一瞬の出来事だったかのように感じられた。
とは言っても、この学院の門を叩いてからはさほど進んではいないのだろう。レイの魔法の出来は一年目の夏でピークを迎えていた。今はそこから少し進めたのかも知れないが、高が知れている。遍歴を振り返ろうにも在りし日の姿は今と大して変わりなかった。
顔を戻してこれから行く道を見据えた。遠く、ただただ遠く。強く輝にを放つ願いは、依然として手が届きそうもない。
「はぁ……今さら何やってるんだろう、私。振り返ったところで、あの時から何も変わらないのに。」
願いがそう簡単に手が届く物ではないということを再確認して、それでもレイは歩み続けていた。そうしなければならないほど今の自分は未熟で、その分願いは遠い。しかし、自分には無理だと可能性ごと否定することはもうやめた。諦めきれない願いのために進み続けるその覚悟に、もう迷いは無かった。
「あれは……リィ、ちゃん?」
ふと窓の外を見ると中庭のベンチに人影が見えた。一瞬差した月明かりで照らされた顔は、紛れもないリリィだった。
今リリィと話をしようにも、この間のように拒絶されることは分かり切っていた。しかし、それを分かっていながらレイは半ば無意識に中庭へと続く廊下を曲がった。
外に出ると納涼には丁度良い風がレイに向かって吹き込んでくる。秋になるにはまだまだ時間があることを忘れさせるようだ。しかし、一方でその風は、リリィへと少しずつ近づくレイを押し戻すようにも感じられた。
声が届く距離までレイが近づいたところで、リリィが顔を上げる。一瞬驚いたような態度を見せたが、すぐさまあからさまに毛嫌いするような表情を向けた。
「何の用?」
「さあ? 廊下を歩いてたらリィちゃんの姿が見えたから。ちょっと寄ってみただけ」
「そう。じゃあさっさと帰って寝れば? あんたと馴れ馴れしくするつもりなんてないから」
予想したようにリリィの言葉は相変わらず刺々しく冷ややかなものだった。しかし、以前のように何が何でもレイを遠ざけるようとするような必死さは感じられない。
「でも、私はリィちゃんと仲良くしたいけどな」
「あっそ。そんなの勝手に言ってればいいじゃない」
「リィちゃんは違うの?」
「私は…………友達でも何でもないあんたと仲良くする理由なんてないでしょ」
真っ直ぐにリリィを見つめるレイとは反対に、リリィは伏し目がちにそう答えた。ベンチに置いた両手を強く握り締めたのがレイの視界の端に映る。
「何か、あったの? なんだかリィちゃんらしくないね」
「どういう意味よ、それ」
見透かすような言葉にリリィが反応を示す。今までのように鋭い視線をレイに向けたが、それが今さらどれだけの効果があるかなどと計るまでもなかった。以前のように怯える様子も見せずにレイの口が動く。
「だって、前みたいにすぐに攻撃してこないから。あの時は私と話すこと自体嫌そうにしてたのに」
「こんな夜中にどんぱちやれるわけないでしょ? 少しは足りない頭で考えたらどうなの」
「あ、そっか。私ってばてっきり、リィちゃんもようやく私と話してくれる気になったんだって思っちゃって」
答えながらレイは一人吹き出しす。夜風が校舎の方へとレイの笑い声を運んで消えていった。
「何がそんなに面白いわけ? 正直目障りなんだけど。大体、用がないならさっさとこの場からいなくなってよ」
リリィが立ち上がる。レイの存在が心底嫌だと言うように、言葉の後で舌打ちをして見せた。再び向けられた鋭利な言葉に、しかしレイはあの時のように狼狽えることはなかった。
「ごめんね、本当にリィちゃんのことが見えたからこんな夜中に何やってるんだろうって気になっただけなんだ」
「じゃあ————」
「ねえ、覚えてる? 一年生の時」
リリィの言葉を遮ってレイが言葉を紡ぐ。懐かしい思い出を大切になぞるように柔らかな声で続けた。
「あの時は夏休みの前だったけど、こんな感じの夜中に一緒に魔法の練習してたっけ。あの時は訓練場の借り方も知らなくて、どっちも下手だったから人目につかない時間と場所をわざわざ選んでさ」
「今さら思い出話なんて、だから何だって言うの。今さら私に関係ないでしょ」
「ううん、少しは関係あるよ。私と、リィちゃんの話なんだから。————あの時からリィちゃんは魔法が使えるようになりたいって言って沢山練習してたよね。それで、今は私なんか比べものにならないぐらい強くなってる」
言いながら、レイは胸が苦しくなるのを感じた。強さを増す苦しさは、今も足枷として残っているあの頃の自分の未熟さを思い出させるものだった。
「そんなリィちゃんが目の前にいたって言うのに、私はその頃から努力が苦手でさ。喧嘩した後なんて苦手どころか嫌いにまでなっちゃった。その結果が今のどうしようもない私なの」
「そうみたいね。それで、何が言いたいわけ?」
「こんな自分が嫌で、いつか魔法が使えるようになればいいのにってずっと思ってた。でも誰かがそうしてくれるのを待ってるだけで、私は、やっぱり自分一人で努力することなんてできなかった。だからあの時からそれができていたリィちゃんはすごかったんだって再確認できたんだ」
リリィの目を見るレイの表情はいつになく真剣だった。嘘偽りのない思いを、向けられる刃の代わりにリリィに差し出す。レイの中でようやく生まれた、大切な思いだった。
「遅すぎるかも知れないけど、最近ようやく人の手を借りて始めることができたんだ。でも、今までサボってた分、できないことばっかりでさ、本当に嫌になったんだ。それで、その時考えた。『私は何で魔法が使えるようになりたいんだろう』って。こんな所でこんなこと言うのはおかしいと思うけど、魔法なんか使えなくたって私は生きていけると思うんだ。現に魔法が使えない私でも今日まで生きてこられたわけだし。仮に魔法が使えるようになったとして、私には何の意味もないって思った。だからやめたって別にいいって」
止まることなく続くレイの言葉をリリィは黙したまま聞いていた。ただ、元より独りよがりの独白に付き合う義理は無く、本来なら有無を言わさず話を遮っていたところだったが、この状況においてもなお穏やかに思えるレイの言葉からどうしても意識が外れない。同時にどんな言葉をぶつけたところで意味などないと言外に思い知らされているようだった。
「それでも、諦めたくなかった。ここで努力することをやめたら、あの頃の私から何も変わらない。リィちゃんに追いつくためには魔法が必要だって思ったんだ。今は手が届かないくらい遠くにいるリィちゃんにだって、魔法があれば届くって」
「……だから? だから何だって言うのよ。努力の意義なんて知らないあんたが何をしたってたところで何の意味も無いじゃない」
「それは……正直今も分からない。努力なんて辛いことばっかりで全然報われないし。でも、それでも努力しなきゃいけないんだよ。じゃなきゃ私だけ置いていかれちゃう、そんなの嫌だよ。私は、リィちゃんの友達だから、もっと一緒にいたい。そのために苦しくて辛いことだって乗り越えて行かなくちゃ、いけないんだよ」
真っ直ぐに告げられる想いがリリィには心底目障りだった。望んでもいないような言葉ばかりで、望んでもいない行動ばかりで、いつになっても自分から離れていかないレイに際限無い苛立ちが湧き上がってくる。
「……目障りなのよ。分かったような口で友達だとか好き勝手言って、近づいてくるあんたが本当に気に触る。あんたとなんて顔も合わせたくないから振り払ったのに、どうしてまだ付いてこようとするわけ。邪魔しないでよ!」
声を張り上げるリリィとは正反対に、レイは少しずつ頭が冷めていくようだった。
「邪魔だなんて、そんなつもりじゃないよ。ただ一緒にいたいだけ」
「それが……イラつくんだって、何度言えば————」
「私だって、何度も言ってる。リィちゃんが友達だから。一生懸命努力して一人で先に行っちゃうリィちゃんと一緒にいるためには私だって頑張らなきゃいけない。だから私は魔法が使えるようになりたい。それが、私の欲しい力だよ」
月夜の下で二人の視線が交差する。一方は憤り、また一方はそれを受け止めるかのように真っ直ぐと見据えていた。
しばしの沈黙を破ったのは耐えかねたリリィの方だった。
「じゃあ勝手にすればいいじゃない。あんたが今さら何をやったって無駄なことは目に見えてる。認めないなら私が直接教えてあげるわよ」
「でもさっきここじゃ騒げないって、リィちゃんがそう言ったじゃない」
無造作にレイに投げつけられた言葉を軽く受け止められると、リリィは舌打ちを一つする。視線を落とすと、リリィの右手にうっすらと魔力が走ったような跡が見えた。
「でも、いつかはリィちゃんとぶつからなきゃいけない時が来ると思う。だから、その時はお互い全力で頑張ろうよ」
今度はレイからゆっくりと言葉を差し出す。
今のレイのままではリリィになど遠く及ばない。追いつこうと必死に努力をしている最中だ。そう思わせてくれたのはルクスの言葉であり、レイ自身の後悔であり、そして何よりもリリィの存在だった。
レイにとって魔法などリリィの側に至るための手段にしか過ぎない。しかしそれが唯一の手段であるからこそ、それを欲するだけの理由にもなった。
差し出された言葉を無言で一瞥するとリリィはレイの真横を通って校舎へと向かう。一度も振り返らず、一度も声を発さず。ただ、背中を見つめているであろう親友の視線だけがいつまでも気になってしょうがなかった。
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