記憶と禍根 ―1

 夏の厳しい暑さもこの頃はだいぶ落ち着いてきているようだった。日陰にいても汗が噴き出すような日中の猛暑にも、毛布も跳ね除けてしまうような暑苦しい夜にも、もう悩まなくて済むかと思うと気が軽くなる。

 しかし暑さが収まってきたと言うことは、すなわち甘美の時とも言える夏季休業の終わりを意味しており、憂鬱な学生生活へと引き戻されるのだ。暑さと引き換えに束の間の休息を手に入れているような物だと思うと何故だか理不尽さを覚える。

 机に突っ伏して朝の眠気に抗っていると、少しずつ教室の中が騒がしくなってくるのが分かる。もう少しで始業のチャイムがなるのだろうか。

 一限の授業は魔力操作についてだと事前に連絡があった。講義形式で行われるこの授業はレイがまともに受けることのできる数少ない物である。初っ端から実技の授業でなかったことに安堵していたが、一年の後半が開始して早々にどうやって苦手科目を切り抜けるのか考えている辺り、如何にレイが不出来な生徒であることは一目瞭然だった。

「レイったらまだ寝てるの?」

 すぐ横からレイを呼ぶ声がした。わざわざ顔を上げなくとも誰が声をかけてきたのは簡単だった。そもそもティアを除いてレイに親しげに話しかけてくる者など一人しかいない。

「昨日まで夏休みだったのに今日からいきなり早起きしろ、だなんて無理だよ」

 体勢はそのままに首だけを回して右側の机の方に顔を向ける。呆れたような表情をレイに向けた親友が座っていた。

「リィちゃんってばよくそんなにすぐ切り替えられるよね。羨ましいよ」

「日頃から規則正しい生活してればそうはならないわよ。夏休みの間も毎日寝ぼけてた自分を恨むことね」

「そんなこと言われたって、夏休みじゃなくたって朝は弱いし……」

 夏季休業中にもゆっくり寝ていたレイの身体はいつにも増して気怠さを覚えていた。初日の今日も、よく遅れずに教室まで来れたとレイは心の中で自画自賛せずにはいられない。

「こんな状態で授業受けても何も頭に入ってこない気がするよ」

「そんなこと言ったって実技じゃないだけマシでしょ? 私たちがついて行けるのなんてこういうのしかないだろうし」

「そうなんだけどさ、それでもやっぱりもう少し寝てたいよぉ……」

 教室のドアを開けて講師が入ってきたのはそのあとすぐだった。まだ睡眠を欲していた身体をレイは無理矢理起こすと鞄から教科書を取り出す。こんなところでだらけることは簡単だったが、これから始まる長い後期の学生生活を考えると、そうも悠長にしていられない。

 前期の散々たる成績を見れば否が応でも気を引き締めざるを得ないが、そんな一時的な決意が長く持つなどとレイ本人も思ってはいなかった。

 講師の話に耳を傾けながら壁に魔法で描かれる光文字と教科書を見比べる。前期に習った基礎の復習から始まった授業の進みは案外緩やかな物だった。勉強そのものに苦手意識のあるレイでも何とか理解できる内容なのは非常にありがたい。

 学院で実施される授業が全てこのような形ならば、レイもリリィも臆する事なく勉学に励めたのだろうが、実際はそうもいかない。実技による授業と試験が付いて回る以上、二人の成績は常に下から数えた方が早かった。

 しかしだからこそ、入学早々落大の二文字が目の前まで迫ってなお、二人で互いに励まし合い、教え合いながらもどうにか前期を乗り切れたのは記憶に新しい。

「ねぇねぇ、リィちゃん」

 授業が始まってからしばらくして、レイの方から身を乗り出してリリィの側へと身を寄せる。

「どうしたの、どこか分からないところでもあった?」

「うん。ここのところなんだけど、仕組みの説明が分かんないよ」

 レイが指差して示した教科書をリリィが覗き込む。そこには教室の前で講師が説明している内容のさらに原理的な解説が書いてあった。

「ああ、そこね。それはちょっと前の方にも書いてあるけど、右回りに魔力を集めるからよ。他にも魔力の量で度合いが変わるって書いてあるわよ」

「そうなんだ、ありがとうリィちゃん」

 そう言ってリリィに笑顔を向けると、レイは自分の席に戻る。

 専門的に魔法の教育を施している学院とはいえ、まだ年端もいかない子供が学ぶには些か難易度が高すぎるのではないか。そう文句を言う生徒は少なくなかったが、すでに決定している授業内容を変えることは叶わなかった。しかし、そうであるからこそ、この学院が周辺地域の中では随一の看板を誇っていることを知る生徒は少ない。

 並の生徒ですら初めの頃はついていくのに必死な内容ばかりを扱う学院での授業は、本来レイやリリィにはより身に余る物のはずだった。しかし不出来な二人が集まったからこそ、お互いに補い合えたのだと二人とも漠然とそう感じていた。足りない分を補完し合えれば、不出来で半人前な二人であっても一人分ぐらいにはなれるはず。少なくともそうしようと思える関係が、レイにとってはティアとは全く違う大切な宝物のように思えた。

 同じクラス、隣の席、同じ境遇。共通点を多く抱えた二人は本当に長い時間を共に過ごしていた。同じ出来事に喜び、涙し、その度に互いの存在を確かめ合う。二人が互いを親友と呼び合うのにそう時間を要することはなく、お互いがお互いをこれ以上ない親友であるとそう信じて疑わなかった。

「リリィライト、ここの説明できるか?」

「は、はい」

 講師に名前を呼ばれてリリィがその場に立ち上がった。レイも含めて周囲の生徒たちがリリィの方を向いてその声に耳を傾ける。

 講師からの質問は生徒側からしてみれば悪魔からの質問のようで、大抵身の丈に合わない質問しか飛んでこない。指名されてから必死に教科書をめくっても答えが出てこないものばかりで、万が一答えられたとしても必ず指摘と修正が入る。まして今回の指名はリリィだ。誰もがまともに受け答えなどできないだろうと考えていた。

 しかし数分の受け答えを以てリリィが座ると、教室内では小さなどよめきの声が上がった。レイもその例外ではなく、驚きと喜びが入り混じった表情でリリィを迎える。

「すごいよリィちゃん。あんなのどこで覚えたの?」

「夏の間にちょっとだけ、ね。でももう少し踏み込まれたこと聞かれてたら危なかったかもね」

 ウインクをして得意気に応えてみせるリリィの姿がレイには自分のことのように嬉しく思えた。仮に指名されたのが自分だった場合、こうも上手くは応えられなかったはずだ。答えに困って慌てふためく様子が容易に想像できる。

 既にリリィは教室の前で教鞭を振う教師の方を向いていたが、しばらくレイはその横顔を眺めていた。

 夏の間はリリィがどこで何をしていたのかはレイには分からなかった。寮の部屋が違うだけで随分と離れて過ごしたような感覚がある。そんな中で前期では自分と同じような学力だと思っていたリリィが、ほんの少し離れている間に数歩先に進んでいた。どれだけの絶え間ない努力があったのかは想像に難くなかった。しかし、いつも一緒にいた親友が遠くに行ってしまったような、どこかそんな寂しさをその横顔に感じていた。

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