箱に閉じる ―1

 一人で訓練場に来ることなど初めてだった。ティアやルクスが目の前でそうしてみせたように、もちろん学院の生徒であれば自由に利用できることも知っていた。しかし、たった一人こんなところを予約してまで魔法の練習に励むことも、かといって誰かの練習に付き合ったこともなかった。


 受付で鍵を借りると通路を奥に進んで部屋を探す。三つ目の角を曲がってすぐ左手の部屋だった。部屋の番号が書かれただけで他の壁と一切見分けがつかない場所で、魔法陣が描かれた薄灰色の壁に鍵をかざすと、壁が前後左右に複雑に動いてさらに奥へと続く通路が現れる。


 レイが部屋に入るのと同時に天井に明かりが灯る。これも魔法によるものだった。どこから誰が魔力を供給しているのかは通年の疑問だったが、そういう道に進まなければ分からないのだろう。学院の授業を聞いている分には全く分からない技術だった。


「さて、二人が来るまでかなり時間があるだろうし、どうしよっかな」


 ティアに嘘までついて早めに訓練場に来たせいで暇を潰せる物は何も持ってきていなかった。本の一冊でもあれば二人が来るまで退屈せずに済んだのだろうが、あいにく無機質な部屋にはレイ一人がポツンと立っているだけ。待たなくてはならない時間は十二分にあった。


 とはいえ、なかなか一人で魔法の練習をする気にもなれなかった。最近まで碌に魔法の練習をしてこなかった素人が監督者も無しに不慣れな魔法を使ったところで事故が起きることなど目に見えている。危ない石橋は叩くまでもなく傍観する主義だった。


 無機質な部屋の真ん中でレイは足を伸ばして座る。四方の壁から床と天井に至るまで全く同じ色と模様に囲まれていると、徐々に平衡感覚が失われていくようだった。窓の一つでもあれば開放感があって気が紛れるはずが、部屋を見渡してもここにはそんなものは一つもない。たった一人の訓練場の部屋は、いつもと変わらない広さでも、なぜだか見えてる以上に広くてそして息苦しさを感じた。


 ボーッと壁を見つめていると否応無しにリリィとのやり取りが思い出される。心に刺さっていたリリィからの言葉たちは既に抜けていたが、それでも傷跡は残ったままで痛みも新鮮さを失ってはいなかった。


「ダメダメ、ボーッとしてたら嫌なことまで思い出しちゃう」


 自身の頬を軽く二度叩くとレイは勢いよく立ち上がる。リリィとのやり取りを思い出さないようにと意識すればするほど余計に意識がそちらの方を向いてしまっていた。しかし、何か別のことをして気を紛らわそうとしてもこの部屋にはレイしかいない。必然的にやれることは限られる。


「背に腹は変えられない、か……しょうがない」


本当は目を逸らしていたいこともここまで追い詰められては避けて通りようがなかった。逡巡する気持ちは確かにあったが、上げるはずの重たい腰は既に持ち上がっていた。


 息を大きく吸って深呼吸をする。肺に満ちた不要な空気を吐き出して自分の気持ちをリセットした。


 よし、と小さく呟くとレイは目を閉じる。何度も基礎的なことを練習してきたが、目から入る情報をなくすのが一番集中できた。


 手を胸の前にかざすと身体の隅々から時計回りにゆっくりと魔力を集める。螺旋を描いて魔力が腕を通過する感覚がゆっくりと体を巡る。丁寧に球の形をイメージして魔法を編み上げ、目を開けると綺麗な真円に整形された火の球が手の上でふわふわと浮かんでいた。


 レイが両手を下ろすと、魔力の供給を断たれた魔法は糸が途切れたかのように形を歪ませて空気中に溶けて消えていった。後にはそこに魔法があったことを示す痕跡が光として残りわずかに手のひらが火照っていた。


 次に目を閉じずに手のひらを上に向ける。同じ容量で魔力を集めると、すぐさま小さな火の球が現れ出た。


「ここまでは上手くできるようになったのに」


 真円とは言えないまでもとても綺麗な球が上下に小さく揺れながら浮かんでいる。もう一度魔力を込めるとそれまでふわふわとしていた球が勢いよく天井に向けて飛び上がった。そのまま一直線に天井にぶつかると火花を散らして魔法は霧散した。


 この数週間でレイの基礎的な部分は見違えるように成長していた。以前までは立ち止まって目を閉じなければ基本魔法も扱えなかったが、今は目を開けて走りながらでも連続で魔法を編むことができるようになった。本来ならば入学したての生徒でも数ヶ月あれば完璧にマスターできるような行為も、レイにかかればその習得に六年と半年を要したことには目を瞑らなくてはならないが。


 めでたく魔法が扱えるようになったとはいえ、基本魔法だけでは使い物にならない。基本はあくまでも基本であって、それ以降の初級の魔法程度は扱えるようにならなければ卒業試験に合格することは難しいだろう。しかし、レイも何度か挑戦しては見たものの、魔法陣を作れる程度で魔法自体の発動には至っていなかった。不発のまま終わるのならまだしも、爆発に始まり魔法陣から黒煙が噴き出すようなトラブルの元になるのだから尚のことたちが悪いのだ。


 今度こそと何度目か分からない気合を入れて腕を伸ばして両手を重ねる。目は開けたままで三度魔力を奔らせた。先程までの基本魔法とは比べ物にならない量の魔力が一気にレイの体内を巡る。


「絡め、閉じ、焦がせ。緋の獄を以って我が渇きを為せ」


 決められた数節の言葉を紡ぐ。誰もが習う教科書通りの詠唱を読み上げると、その都度集まった魔力が手の中でその形を変容させていった。


 広げた手のひらの前に緋色に淡く輝く魔法陣が現れる。徐々に魔法が完成しつつある証拠だった。あとは魔法の名前を読み上げるだけで魔法陣から魔法が発せられる。


「————烈火れっか


 魔法陣がレイの言葉に呼応して輝きを増す。部屋の中で魔力の濃度が急激に上昇すると、次の瞬間、黒煙を伴って陣が爆ぜた。


 爆発の勢いでレイはその場に尻餅を付いた。気づいた時には視界が真っ黒な煤で覆われていた。


「おーい、レイいるか……って何だよこれ」


 タイミング悪くルクスが部屋に入ってきた瞬間もレイの手元にある魔法陣は未だに黒煙を吹き出し続けていたが、その勢いもようやく収まりつつあった。


 すぐに訓練場内の設備が稼働して無尽蔵に噴き出る煙をどこかへと吸い出し始めた。しかし、汚れてしまったレイの身なりまでは綺麗にしてはくれない。


「あー、えっと……頑張ったんだけどね?」

「やっぱりか」


 部屋の中が綺麗になるまで二人はしばらく廊下に出ることを余儀なくされた。煙を浴びた二人の衣服は所々煤がこびり付いている。レイに至っては着替えたばかりの白いシャツが真っ黒になってしまっていた。

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