夜に吐き出す ―4
リリィの魔法は文字通り空間を薙ぐほどの威力だった。たとえ完璧な魔法でこれを防御使用もしても、無傷でなどいられないはずだった。もちろんそれは、その場にいれば、の話だったが。
その時確かにリリィの目は見えていなかった。本来ならば目が見えていなくとも僅かな魔力の移動を素肌で感じ取りながら相手の位置を探れたはずだ。しかし、短時間に多量の魔力を編んだせいでリリィの感覚器官は麻痺していた。
故に頭上から降ってくるティアの存在に気づくこともできず、魔力を大きく失った反動で咄嗟に動くこともできなかった。
抱きつくようにティアがリリィの首元へ飛び込むと、そのまま草で覆われた柔らかな地面を転がる。鼻腔の奥へと乱暴に擦り付けられた青臭い匂いが麻痺した感覚を現実へと呼び戻していた。
「何、するの!? 離してッ!」
突然のことにバランスを失って倒れ込んだリリィがティアの腕から逃れようと賢明にもがく。しかし、急激に魔力を消費した身体のどこにそんな膂力が残っているのか、どうやってもティアの腕を振り解くことができなかった。
「ダメだよ。絶対に離さない」
対するティアも相当必死だった。ようやく捕まえたリリィだったが、今ここで取り逃してしまえば次いつ捕まえることができるのかは分からない。落ち着いて話をするために無理矢理にでも押さえつけようと無我夢中だった。
リリィが大人しくなるまで絡み合ったままの体勢でしばらく地面の上を転がっていた。右に転がってリリィが上になればすかさずティアが体を捻って体勢を入れ替える。左に転がってティアが上になればリリィが力任せに無理矢理ティアを押し倒す。当然その場に止める者などはおらず、ただ暗闇の中で大きな影が蠢く様だった。
最後にリリィが上に被さった時ティアの手が止まる。二人とも息が上がっており、互いにこれ以上の攻防は期待できそうにない。僅かにティアの方を握るリリィの拳に力がこもるばかりだった。
「こんなになってまで……どうして辞めないの。それに、私には、何も……何も得る資格が、ないって」
「そんなこと……ないよ。そんなこと思ってるのは……リリィちゃん、だけだよ。レイちゃんは、ずっと……ずっと、待ってる。私たちに……迷惑かけないようにって嘘までついて、リリィちゃんを待ってる」
「それこそ、あり得ない。拒んだのは……他でもない私なの。あの子はもう……待ってなんかない」
「いつそれを見たっていうの? リリィちゃんが拒絶したって、レイちゃんはずっとそこにいる。リリィちゃんのすぐ側に。ただリリィちゃん自身が振り返らなかったから。だから気づかなかっただけ」
「そんなわけない。いるわけない。待っててくれてるわけがない」
ティアを押さえ付ける力が抜ける代わりに、その頬に雫が落ちる。身体から漏れ出ていた感情がそのまま落下するようだった。
一つ、また一つと落ちるたびにリリィは自分の胸の辺りに大きすぎる穴が開いていることに気付く。それをどんなに埋め合わせようと泥をかき集めたところで、いつかは泥が抜け落ちて再びそこに風が通るのだ。抜け落ちた部分を取り繕っても所詮はその場しのぎのハリボテに過ぎなかった。
いつからそんなことを繰り返していたのかは既に分からない。しかしそれを埋める何かをずっと探していた。
「リリィちゃんが一番よく知ってるはずでしょ? レイちゃんがどれだけ意地っ張りで諦めが悪いか。本当に魔法が使えないなんて諦めるんなら、魔法の勉強なんかやめて、もうこの学院にはいない。リリィちゃんがいたから、リリィちゃんとの繋がりを失いたくなかったから、ずっとレイちゃんはこの場所にしがみ付いてる」
ティアがリリィの袖を掴んだ手に力を入れリリィを引く。ティアのなすがままに従うとリリィは力無くその横に倒れ込んだ。
向き合ったリリィの目は今にも決壊しそうなほど雫を湛えて赤く泣き腫らしていた。お互いの髪には千切れた雑草が付着しており、揉み合いの激しさを感じさせる。
息を整えると、晴々とした表情でティアが続けた。
「だから、リリィちゃんの方から行ってあげてよ」
「無理よ。力量に差がありすぎるもの。今日みたいにまた傷付けてしまう」
「何言ってるの、相手はあのレイちゃんだよ? リリィちゃんになんて負けるわけないじゃない。諦めの悪さなら右に出る人なんていないんだから、何度だって受け止めてくれるはずだよ」
ティアがリリィの両手を握る。夜だからなのか、激しく動き回って汗をかいたからなのか、リリィの手は冷え切っていた。
自身のその手にレイに対する確固たる自信と信頼が込めて、ティアからリリィに手渡す。一瞬リリィの手が震えたが、構うことなどなかった。半ば無理矢理にそれを持たせると、上から手を被せてしっかりと握らせる。
「こんなの重すぎて持っていけない。私には、無理よ……」
「ううん、これはそんなのじゃないよ。ただリリィちゃんが振り向けるようになるためのおまじないだから。レイちゃんはきっとそこで待ってる。だから振り向いて、向き合って。レイちゃんなら絶対にリリィちゃんになんて負けないんだから」
リリィは拳を固く握って胸元へと引き寄せると嗚咽を漏らす。ティアの言葉を受けてもリリィの中ではそれに懐疑的な見方しかできなかった。
言葉だけならなんとでも言える、結局この考えが何度も頭の中を巡る。他でもない自身の手と言葉で親友を傷付けてしまったリリィだからこそ、それがどこまでも付き纏っていた。
「他人どころか私は自分のことすら信用なんてできない。どんなに大切なものでも、いつか私は壊してしまう。レイもこの想いも……それだけ私は醜い人間だから」
「そっか。それなら、今はそれでいいと思うよ。だけど、誰かを大切にしたいってそう思うリリィちゃんの気持ちだけは、忘れないであげてね」
ゆっくりと目を閉じる。深く息を吸い込むと、土の湿った匂いと草葉の青い匂いが混ざりあって鼻腔を通り抜けた。
足元が揺らぐ不安定な感情がどこまで持つのか。いくら根拠に基づいた言葉を並べたところで、結局は誰かが予め定めたようなことしかできない。何もかも分からず、不安に苛まれる中、リリィはただ思い出の欠片を強く抱きしめることにした。
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