夜に吐き出す ―1

 蒸し暑い夜の中、青白い月だけが天井の空から冷ややかな光を湛えていた。本来なら心地良いはずの夜風も湿気と熱を引き連れて、それを浴びる者全てにまんべんなく不快感を運んできている。


 見通しも風通しも良い中庭は、こんな夜に一人になるのにはちょうど良い場所だった。広さの割にそこには他に誰一人として気配が無い。考え事をしたり、その片手間に魔法の練習をするのには打ってつけだ。誰に姿を見られることも独り言を聞かれることもない、ただ一人の空間。


 真上に登った唯一の光をリリィは物欲しげに見つめていた。絶対に手が届かないものに手を伸ばすことは無駄なのだろう。そんなことをしている暇があれば、手の届く光を追い求めた方がまだマシに違いない。いくつか悩みを抱えているリリィにそんなことを思わせた。


 ボーッと何も考えないようにしているつもりでも、特に記憶に焼きついた場面というものはそう簡単に消えてくれることはない。今も頭の中では今日の出来事がいつまでも尾を引いていた。


「この六年間、自分の目的だけを一番大切に、最優先にして行動してきたっていうのに、今さら私の何が間違いだったっていうの?」


 誰に向けるでもなく、独り言が口を突いて溢れる。揺るがなかったはずの目的と自信が今になって安定さを欠いて、倒れそうになっている。


 リリィに与えられていた時間は元からそう長くはない。その短い時間の中でただがむしゃらに目的に向かって努力してきたつもりだった。そうしていれば、自ずと結果の方から近づいて来ると。しかし状況は悪くなる一方で、改善の兆しは一向に見えない。自分を蝕む原因不明の病は身体だけでなく心にまで浸食してこようとしているようだった。


 リリィにわずか残された道は暗闇で、道を照らしてくれる光は一切見えない。ただリリィ自身が思い描いた空想の光だけを追って、当てもなく方向も分からないまま進み続けるしかなかった。その間、それが天井の月かどうかなどと考えることはしなかった。そうすることで、必死に追い求めているものが手の届かない願いかも知れないと理解するのが怖かったから。


 そして、今になって昔に断ち切ったはずの繋がりが息を吹き返したかのように甦りつつある。これもリリィをひどく悩ませていた。子供じみた拙い言い訳で切り捨てたことは自覚している。しかしそれが未だに見落とすほど細い糸で繋がっていたとは微塵も思っていなかった。


 これをしつこいと思うのか、それとも懐かしさと安心感を覚えるのか。直面してみて初めて、リリィは自分がどちらも期待していたことに気が付いた。


 どちらの問題も少し考えた程度では容易に答えは出ない。どちらか一方に傾倒すればもう一方が元の位置までリリィを引き戻す。別の一方を選んでも結果は同じだろう。全く別の方向を向いた二つの問題はそう易々とリリィを休ませようとはしなかった。


「リリィ、ちゃん?」

「誰っ!?」


 誰もいないはずの背後からの突然の声に反射的に振り返る。それと同時にリリィは右手を正面に突き出した。既に体内では魔力が胎動を始めている。


「やっぱりリリィちゃんだ。よかったぁ、ようやく見つけたよ」


 声の主が建物の陰から徐々に月明かりの元へと進み出る。見慣れた学院の制服に一瞬見惚れるほどの薄青艶やかな髪が目を惹いた。


「あ、ごめん。邪魔しちゃった、かな」

「別に、そんなことはないけど。こんな夜更けに何の用? 理由もなく来たわけじゃないでしょ」


 月明かりで照らし出されてようやく容姿がはっきりする。ようやく見えた表情は申し訳なさそうに控えめな笑みを浮かべていた。


 急に現れた相手はリリィが一方的に顔を知っている生徒だった。それを確認すると、体内で活性化していた魔力を鎮めて右手を下ろす。


「要件は色々あったんだけど、リリィちゃんが都合悪そうなら日を改めるよ」


 それじゃあ、と言って元いた方向に引き返そうとする後ろ姿をリリィが呼び止めた。


「ちょっとくらいなら構わない。それに、丁度少し休憩しようと思ってたから」

「そうなの? それならよかったよ」


 近くに三人掛けのベンチを見つけると、二人は一人分の間を置いてその両脇にそれぞれ座った。


 改めて話そうとしても何から話せば良いのか分からなかった。互いにどのタイミングで切り出すのかを見計らっていた。リリィの側からしてみればティアは突然の来訪者で、ティアの側からしてはどう話を切り出せば無用な警戒心を与えないようにできるのか。互いに歩み寄る第一歩の幅と踏み出す位置を探る。


「こうして会うのは初めて、よね。ティア、って呼んでもいい?」

「うん、知っててくれてたんだ。私はティアスル・ディーニエス。よろしくね」


 当たり障りのないように、ティアが自己紹介とともに笑顔を添えて右手を差し出す。対峙したリリィは数瞬その手を見つめると、少し慌てて言葉を返す。


「リリィライト・ソケート。よろしく」


 素っ気のない自己紹介にわずかな挨拶を付けてリリィも右手を差し出した。お互い拳に力を入れることもなく、やんわりとした形だけの握手が交わされた。これを交友関係の始まりだと訊かれても満足に首を縦には振れないようなぎこちない有様だった。


「今日はどうして?」


 開口の口火はリリィから切られた。


「さっきも言ったと思うけど、今回はリリィちゃんにちょっと聞きたいことがあってきたんだ。でも、どこにいるかとか分からなかったからいろんな人たちに聞いて」

「ティアとは今日初めて会うわよね? なのに私に聞きたいことって何なの?」

「えっと、何から話すべきなのかな。順を追って説明するとちょっとだけ長いんだけど」


 先程の、リリィ側が視線を逸らしたくなるほど真っ直ぐな挨拶とは打って変わって、ティアが目を泳がせて迷うような素振りを見せる。


 何を話せばリリィに要件が過不足なく伝わるのかを吟味しているのだろうか。それとも無用な情報を与えないようにしているのか。どちらにしても、リリィの目にはそれがわざとらしい仕草に映った。迷うフリをして自分から何かを引き出そうとしているのではないか、そんな疑心暗鬼のような感覚が湧いて出てくる。


「じゃあ、単刀直入にさわりの部分を聞かせて」


 疑いの気持ちとは裏腹に、せっかちではないかと思える催促の言葉がリリィの口から出た。ティアがどんな立ち位置でどのような人間関係を持っているのかを知っている以上、慎重にならざるを得ない一方でティア自体の存在を訝しく思っているつもりはなかった。核心を突くようなを要求はしたものの、何かしら思惑があるのであれば分かりやすいようにわざとと尋ねてくるわけがないと予想していた。


「リリィちゃんがそれでいいって言うなら。分かったよ……じゃあ、リリィちゃんさ、今日レイちゃんと合わなかった?」


 レイの名前を聞いた瞬間にリリィの心臓が飛び跳ねた。ティアに悟られないように咄嗟に態度は隠したつもりだったが、どれだけの効果があったのかは定かではない。


 これまでまともに話したことも無かったティアがわざわざ用があるなどと言うのだからリリィの中で内容はおおよそ把握できていた。しかし、いざ実際聞いてみれば想像の上を行くように自身が動揺していることが分かった。脈拍が急かすように早まり、膝の上に置いた拳に力がこもる。


「レイには、会ってない……けど、どうして?」

「今日のレイちゃんの様子がちょっとおかしかったから何か原因でもあるのかなって思って色々考えてたんだ。それで、リリィちゃんに相談しに来てたりしないかなって。リリィちゃんがレイちゃんと友達だったっていうのを思い出したから」

「友達、ねえ」

「違った? 一年生の時はずっと一緒にいたと思ってたんだけど」

「一年生の時は、確かに一緒にいた。でも最近はそうでもない。それに、今日は一日中この辺りにいたから別に会ったりとかはしてないかな。でも、どうして私なの? 何か相談事があるならそれこそティアの方にするはずじゃない」

「そうなんだけど、レイちゃんに聞いても何でもないって変にはぐらかされちゃって……」


 リリィと向かい合っていたティアが残念そうに空を見上げる。つられるようにしてリリィも空に目をやると、無数の星たちがまるでちっぽけな自分達の居場所を一生懸命訴えるかのように瞬いていた。


 弱々しく明滅する星もあればちっとも変化を見せずにずっと煌々と強く光り輝いている星もある。単に個人差という言葉で片付けられないほど夜空の星々は複雑な心境を抱えているのだろう。


「レ、レイの様子がおかしいって言ってたけど、何か変なところでもあったの?」


 空を見上げて考えたままのティアに向かってリリィの方から質問を投げかけた。自分からレイの名前を口にしようとすると危うく呂律が回らなくなりそうになる。言い終わった後も変に口の中が渇いて仕方がなかった。


 ティアからの答えは聞くまでもなく想像が付いた。いつもレイのそばにいるティアであれば、レイの言動の裏にある真実にいつかは気付くはずだ。それがいつなのか、リリィにとっての興味と関心はそこに向いていた。


「晩ご飯がいらないなんて言ったり、あとは怪我したことを不自然に隠してたりとか。いつもならそんなことしないはずなのにってことばっかりで」

「そう、まあ確かに不自然ね」

「やっぱりリリィちゃんもそう思うよね」

「本人には理由を聞いてみたりとかはしなかったの?」

「うん、もちろんやったよ。でも、なんでもないの一点張りで聞いても何も答えてくれなくて」


 言葉は違えど、ティアはルクスに説明した時の内容と寸分違わないことをリリィに伝えるばかりだった。


 ティアが真実に辿り着くまでまだまだ時間がかかりそうなことが分かると、リリィはそっと胸を撫で下ろした。


 リリィからしてみれば、ティアの話は想像していたほど核心に迫るものではなかった。しかし、それが計算されたことなのか、そうでないのかまでは分からない。あえて的を外したような話を振ってこちらがボロを出すのを誘っているようにも感じられる。相手の思惑が知れないうちはただ何も知らないという雰囲気を演じることに徹しなければならなかった。

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