路を曲がる ―1
「……ちゃん、レイちゃん」
耳元で繰り返し誰かが呼んでいる。何度も呼ぶ声はいつも聞き慣れた声で、呼んでいる名前は明らかに自分のものだった。
「ん……なに?」
かろうじて反応を返す。意識が明瞭になったわけではないが、無意識の中で自分に何か用があるのだろうと考えて何となく最低限の返しを漏らした。
「レイちゃん、そろそろ起きてよ。もうすぐ夕飯の時間だよ。早くいかないと場所が無くなっちゃうって」
「ゆう、はん? なんだっけ、それ」
やはりどうにもレイは頭が回らないようだ。知っているはずの単語ですら反芻するだけでその意味を理解できていない。
そして乱暴に体をゆすられてもなお瞼が持ち上がる兆しは見えなかった。現実へと引き戻そうとする誰かの手と心地よい微睡の中に再び誘おうとする睡魔が拮抗し、わずかに睡魔が勝とうとしている。
「まったくもう。朝だけならまだしも寝起き全部がこうなるのはダメだよっていつも言ってるのに」
腹の上まではだけていた毛布を首元までたくし上げる親友の姿にティアは思わずため息を漏らす。そこまでする気力があるならさっさと目を覚ましてほしいと思わずにはいられない。
寝起きの悪い親友の世話をすること自体離れたもので、これまで特別面倒だと思ったことはないが今回はさすがに目に余るものがある。毛布を剥ごうと手をかけると、レイはそれを嫌がるようにしてより深く毛布に潜る。
「まったく、予定がつかえてるんだから。早く起きて、よっ!」
勢いをつけて毛布の端を引っ張るとようやくレイが毛布を手放した。ここまでのレイとの攻防でティアの息は上がり、額にうっすらと汗が滲んでいた。寝起きの悪ささえどうにかなれば親友に対する文句はなくなるのだが、それと同時にこの悪癖とは一生付き合っていかなくてはいけないのだろうとティアは一人決意を固めていた。
「やめてよ……あとじゅっぷん……だけだから」
「もう、レイちゃんったら……」
あまりに見かねたティアがレイの頭上に向けて手を掲げる。一呼吸置くと、すぐさま体内を魔力を巡らせ始めた。手元に収束するように集まった魔力は断続的に渦を巻くように回り続けている。閾値を超えた魔力が手の中で膨れ上がるのと同時にティアが言葉を紡ぐ。
「氷冷。雪ぎ、注げ――――
言葉を紡ぎ終わると同時にティアの手のひらに薄青の魔法陣が浮かび上がる。あっという間に高速で回転し始めると、中央から勢いよく水が噴き出した。
「うゎっぷ!?」
文字通り頭から水をかぶったレイが勢いよく飛び起きた。突然の出来事に理解が追い付いていないようだったが、ばっちり目が覚めたことに間違いはない。被りを振って毛先の水滴を振り払うと手元とティアの顔を交互に見やる。腰に手を当てたティアは自信に満ちた表情をレイに受けていた。
「これでちゃんと目が覚めたでしょ?」
「イマイチ状況が呑み込めないんだけど、どうして私は濡れてるのかな」
「そりゃあ、レイちゃんが何度呼んでも何度揺すっても起きてくれないから、仕方なく魔法でこうパッと」
「それでこれ、なんだ」
「日に日に体制を付けてくんだから、私としては毎日起こす側の気持ちも考えて寝ててほしいけどね」
「はい……それはもう、大変ご迷惑をおかけしております」
不幸にもレイの顔に向けて放たれたはずの魔法は周囲にも飛び散ったせいでレイの顔や髪のみならず衣服の一部まで水をかぶっていた。寝具もその例の漏れず、枕もとやシーツにも濡れた後の大小さまざまな大きさのシミがいくつもできている。
上体を起こすと体や腕を伝った雫がレイの傷口に触れ差すような痛みが走った。
「いッ」
「どうしたの?」
「ああ、いや何でもないよ。ちょっと怪我したところに水が触れちゃって」
「レイちゃん怪我したの?」
ティアがしゃがみ込んでレイの脇腹に触れようと手を伸ばす。そこはちょうどリリィとの悶着で切り傷ができたあたりだった。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと転んでけがしただけだから」
レイは慌てて身をよじってティアの手を躱した。傷跡に触れることで何かレイに不都合なことがあるわけではないが、傷ができた理由を深く聞かれることだけは気まずいと感じていた。
「レイちゃんがそういうならいいけど……」
心配そうなティアの表情は隠し事をしたというレイの後ろめたい気持ちに追い打ちをかけるようだった。
ティアがレイの傷口について触れたことで、レイの中でリリィとのやり取りが思い出された。リリィの放った魔法がレイの体を切り裂く生々しい感覚もいまだ鮮明に覚えている。腕や腹部に負った傷にティアの水がしみるたびに、そのことを忘れるなと念押しをされているようだった。
「それにしても流石にこれはひどいんじゃない? 制服が全部びしょびしょだよ」
「いつまで経ってもレイちゃんが起きないからでしょ。今日は早めに夕飯食べてから夜に練習しようねってルクス君と約束してたじゃん」
「それはそうだけど」
言い返す当てもなくレイが項垂れる。自覚はなかったが、ティアがそういうのだからレイの振る舞いは相当目に余るものだったことが容易に想像できた。流石にやりすぎだ、などと身に余る言葉だったと反省した。
「じゃあ早く行こうよ。ルクス君も待ってるよ」
「その前にこの髪をどうにかして欲しいんだけど」
何事もなく部屋を出ていこうとするティアを呼び止めて、レイは相変わらずびしょ濡れのままの髪の毛と制服を摘まんで見せた。何もしないまま食堂に向かうにはあまりに常識的ではないだろう。
毛布を畳んでベッドがら降りるとクローゼットへと向かい、替えの制服を取り出す。予備の制服が無ければ危うくびしょ濡れのまま過ごすことになっていたところだった。
各生徒に学院から一週間分の夏服が支給されており、これを週間で着まわしてどこかのタイミングで各々洗濯をしなければならない。寮生ならば誰でもやっている習慣だ。
「ねぇ、レイちゃん。やっぱりその傷おかしいよ。何かあったなら聞くよ?」
「だから本当に何でもないって、そんなに気にしなくてもいいよ」
慌てて傷口を隠すと咄嗟に言い訳を考え始める。まさかリリィにつけられた傷だなどと正直に言えるわけもない。頭の中で都合のいいように場面を整えありもしない出来事をでっち上げた。
「読書しようとして中庭に行ったときに怪我したんだ。ちょうど壁が崩れて瓦礫が転がってるところに突っ込んじゃってさ。自分のドジっぷりにはびっくりしちゃったよ」
「そう、なんだ」
「そのまま戻ってきて寝ちゃったけど、血はもう止まってるしこのままでも大丈夫だよ」
気丈にふるまって見せるレイにティアは相変わらず不審がる表情を向けていた。転んだだけで腕だけでなく脇腹などにも切り傷などできるものだろうか。聞いてみたいとは思ったものの、不自然なほど明るく弁明をするレイを見て、ティアは当たり前の疑問を喉の奥に押し込んだ。
クローゼットの方を向いて着替えるレイの後ろからティアが魔法で髪を乾かす。手櫛を通すと何のとっかかりもなくすり抜けていく髪はまるで赤く燃えているようだった。
「さ、行こっか」
「うん」
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