心底へ落つ
どうやってあの場所から戻ってきたのか、レイは全く覚えていなかった。気づいたときには寮の自室に戻って、ベットの中で頭の先からつま先まで全身を覆うようにして毛布をかぶっていた。体内で血液が逆流するような不快感を覚え、背中に伝った汗が冷えて落ち着いていられない。
真っ暗な視界の中でレイは先ほどまでのやり取りを思い出していた。歩み寄ろうとするレイとそれを頑なに拒むリリィ。レイが手を伸ばそうとした先には既にリリィの姿はなかった。レイが想像していたよりもずっと遠くに行ってしまったリリィは、その場所からレイを蔑むような目を向けていた。
周りと比べて魔法が上手く扱えないことをレイは自覚している。そのことをやり玉に挙げて陰口を言う生徒がいることも知っていた。
それが何年もの間続いたおかげでいつしか当たり前のようになっていた。自分を悪く言う言葉も実技の場ではまるでサンドバッグのように扱われることもレイにとっては日常茶飯事だった。
話したこともない赤の他人からどう言われようとレイの心が揺らぐことなど一度もなかった。しかし他方で、そんな不特定多数から向けられる心無い言葉よりも、リリィから向けられる言葉はそれらのどれよりもレイを締め上げている。今も思い出すだけで胸のあたりが苦しかった。
隙間からわずかに入る光を除けば毛布の中は薄暗く、何かから必死に逃げ隠れるようにレイはその中で身を潜めている。息は浅く、鼓動は高鳴ったままで、脳内では先ほどのやり取りが幾重にも繰り返されていた。頭の中で反響するリリィの声を少しでも遠ざけようと耳を塞ぐものの、纏わりつくように何度も再生される声たちは一向に止む様子もない。
いつの頃からか互いに親友と思い、慕い合っていたはずの相手から悪意の混じった眼差しと棘のある言葉を投げつけられるようになっていた。つい先ほどに投げられた言葉もまだ確かにレイの心の奥深くに刺さって、身体中にできたどの傷よりも何倍もレイの体を深く痛めつけていた。
思い出すたびに鮮烈な痛みと突きつけるむき出しの敵意が何度もレイを滅多刺しにしては、またどこからか隙を窺っているような不安を駆り立てる。これまで何度も関係の修復を望んでいた相手に会うのが今は怖くてたまらなかった。
親友と呼べるほど親しい相手がここまで豹変した理由を今まで何度も考えてきたが、これまでその答えは見つけることはできていない。こんな関係になったのももう何時からなのかすら思い出せないでいる。ただ、中庭でリリィが言っていたことに原因があったのだろう。朧げな記憶を探ってみたが、しかし答えは不鮮明に掴みどころがない。今のレイにそれを知ることは早いとでも言われているようだった。
リリィは本当は故意に人を傷つけるような子ではない、とレイは自分自身に何度も言い聞かせていた。しかし遠い記憶の中で親しげに話している自分とリリィの姿がまるで都合のいいように作り上げた妄想なのではないかと錯覚すらし始めていた。
もうあの頃のような関係には戻れないのだろうか。レイが枕を強く抱きしめて様々考えを巡らせているうちに、泡のように浮かんでくる考えはどこかへと消えていく。消えかかった泡に手を伸ばしても指の隙間からすり抜けていくばかりで、その手の中には常に何も残ってはいなかった。
今さら、レイが何をどうしたところで状況が一変するわけではないのだろう。何か行動を起こしたところでリリィの気持ちが急変するとも思えず、無理に歩み寄ろうとしてもこれまでのように拒絶されるだけだ。しかし、レイ自身もはや何の根拠も無いにも関わらず、友達というリリィとの関係に未だに疑問など抱いていなかった。
今は敵意を向けられるような関係性だとしても、何か些細なきっかけさえあれば元通りあのころのような仲睦まじい関係に戻れるだろうと。そうでもなければ傷付けられることが分かっていてリリィと積極的にコミュニケーションを図ろうとはしなかった。この六年間でめぼしい成果など上がらなかったが、レイはこれを続けていれば何かしらの糸口が見つかるだろうと信じて縋ろうとしていた。
しかし、リリィの方はどうか。そんなことなどすでに望んでいないのかもしれない。投げてよこした言葉の端にはそんな感情が強く感じられた。それだけにと留まらず、彼女の行動の随所にもそう思わせるところがいくつも見られた。目も合わせてはくれず、心無い言葉を残してはいつからか避けられる。拒絶するリリィの立ち振舞いは単にレイとの友人関係だけではなく、その甘い考え方まで否定してみせたようだった。
それを理解した上で自分はいつまで楽観的な思考をしてきたのか、レイは自問していた。リリィから刃物を向けられるたびに自分を責め、そのたびに根拠も無く違うとこれまで何度も否定の言葉を口にしてきた。しかし、直接リリィの口から否定されたおかげでレイの方が間違いなのではないかとまざまざと感じさせられた。
レイが何度自分に問いかけてもこの事実を変えられる妙案は浮かんでこない。むしろ余計な要素を足しては複雑に絡まって考えを煩雑にするばかりだった。
視界を遮る毛布の隙間から、窓から差し込む夏の照りつけるような日差しが細く差し込む。真夏に締め切った部屋の中でも毛布にくるまっていられるのは、ティアが残してくれている氷の魔法のおかげだ。これのおかげで夏であろうと部屋の中で快適に過ごすことができている。本来ならありがたいもののはずが、どうして今は非常に部屋が寒く、身も心も凍えてしまいそうだった。
間近から見ると先が見えず真っ暗でしかない問題でも、冷静に周囲の状況を見渡せば、解決策など数えきれないほどあるのだろう。それこそ目の前にある隙間から差し込んでくる光のようにほんのわずかなものでさえも、状況を好転させるには十分なのかもしれない。リリィとのことだけではなく、魔法が上手く扱えないことも。
しかし、レイの周りにはそんなものはなかった。見渡しても周りは暗闇ばかりで、どの方向へ進もうとしてもその光は遠くの方に一筋見えるばかりで一向に近づくことはできない。追いかけてはどこまでも遠ざかっていく光が今は喉から手が出るほど欲しく、また同時に直視できないほどにまぶしく感じられた。
「私の手は両方とも空いているのに……魔法も友達も、私なんかじゃ、どっちに手が届くことなんてないのかな……」
暗闇の中でレイは空っぽの自分の両手を見つめた。他の生徒なら魔法に友人にそのほかにも数えきれないほど大切なものをその両手に抱えているのだろう。しかしレイは未だに何も持てない。そして何も持たないままこの場所に居続けなくはならない。
不意に“無能”、“無意味”とリリィの言葉が強く頭を過った。自分の中ではそうではないと否定したつもりだった。しかしレイが自分で実践してみせたように、現状それが事実であることをどうしても認めざるを得ない。リリィが言うようにこんな状況に置かれているのにもかかわらず、楽観的に物事を見てきたレイの手元には何も残されていなかった。
レイ自身こうなることを前もって恐れていたのだろうか。そうだとすればこれまで魔法の練習も渋々取り組んでいた自分の行動にも納得がいく。無意識ながらにどうあがいても自分には魔法の才能がなく、無駄な努力をして芳しくない結果に落胆するぐらいならいっそのこと何もしない方が楽でよいのではないかと。
何を持っていない空のままの両手を握っても、拳は空気をつかむだけで空虚に感じられた。それどころか、かろうじて今ある繋がりでさえ、取りこぼしてしまうような不安に襲われた。レイだけ取り残されて行けば今気にかけてくれている人たちでさえもいつかはレイの元を去っていくのではないか。不器用な無能はどこまでも何度でも大切なものを落として、そのたびに拾い上げることもできずにいるのだろうか。そんな現状を言い表すなら的確だとレイは自虐した。
この学院を一歩出て魔法とは縁のない世界で生きていけば、魔法の腕前や知識、傍は複雑に混ぜ入った友人関係など気にしなくてもよいのかもしれない。リリィが言うように何もかもをすっぱり辞めてしまえば、多少のものを失ってでも楽になれるはずだ。
「でも、諦めたく、ないな……」
それでもレイは取りこぼしてきたものをもう一度拾おうとしていた。落ちたままのそれらを見ないふりをする生き方ができるほどレイは器用ではなかった。
しぶとく拾い集め、それでも落としてしまったのならもう一度。一度は手にしたものを諦めてしまうほどレイの欲は浅くなく、誰にどう説き伏せられようとも素直に従うほど聞き分けがいいわけでもなかった。
しかし、諦めたくはないというレイの想いとは別に、これまでの不出来な成果が脳裏をよぎる。試験のたびに万年最下位を記録し続ける結果が、嫌になるほど具体的で、数字として可視化されるからこそレイがいかに不出来なのかを突き付ける。
事績に駆られるレイを後押しするかのように、の耳元とで誰かが小さくささやく声がした。少しの勇気で今よりもっと楽になれるのに、と。今やめてしまうのはつらいのかもしれないけれど、このままあてもなく闇雲に続けてさらに苦しむよりははるかにマシでしょう、とも。
拒絶することもなくレイはただその言葉を聞いていた。優しくてどことなく安心するような声だった。この声が言う通りにすればレイがこんなに苦しむこともなくなる。それがどれだけ幸せなのか。魔法が存在しない世界を知らないレイには未知数だったが、悩むことも苦しむこともなく穏やかに暮らせることに違いない。
レイが何もせずその声に耳を傾けていたその裏には、優しく誘う囁きと同時に別の声が聞こえてくることをどこかで期待していたのかもしれない。諦めるな、苦しんででも先に進め、と背中を押してくれるような叱咤激励の声を。歯噛みして、拳を強く握って。後がない崖に立たされながら、レイは今もまだ諦めたくないと足掻こうとしている。たとえそれが無駄に終わってしまうことであっても、その先にある未来に手を伸ばそうとしていた。
だが、いくら待ってもそんな都合の良い妄想は聞こえてこず、辞めてしまえと優しく手招く声しか聞こえてこない。
「違う、違う……違う。こんなことを望んでるんじゃない。私は……」
諦めたくない、見知らぬ誰かに手を引かれるままに楽な方へと誘われるのではなく、自分の足で地に足をついて歩んでいきたい。たとえその願いが遠くても、そこに至るまでの道のりが辛く険しいものでも、光が差している方向を向いていたい。優しい光に包まれてまで深くそこへと沈んでいくのは筆舌に尽くしがたいほど受受け入れ難かった。
そこまで思ってかぶりを振っても、甘い言の葉を差し伸べるやさしい声は消えず、鞭をふるってでも奮い立たせてくれる叱責の声が降りかかることはない。
「嫌だ、嫌だよ……私はまだ諦めたくなんかない。優しさに浸るための誘いが欲しいんじゃない。光を目指して進んでいけるだけの、ほんの少しの勇気が欲しいだけなのに」
切実ながらも身勝手な少女の願いを聞く誰かも、それを与えてくれる誰かもいない中で、レイは一人もがき苦しんでいた。何も持てず、わずかにあった大切なものの一つすら失おうとしているレイは自らの可能性にすら疑いの眼差しを向ける。
こんなにもちっぽけな自分ごときが本当に何かできるとでも思っているのか。本来は何もできない無能であるにもかかわらず、無謀にも身の丈に合わない大層な願いを抱いているのではないか。
大きすぎる願いは音も立てず知らぬ間にレイを押しつぶしていく。元より救いは無く、始めからその時を待つしか選択肢は用意されていない。そして何よりも、こんなくだらない所でこんなくだらないことを考え、あまつさえ誰かがこの状況を変えてくれるかもしれないと自分で行動することを諦めて、ありもしない可能性に縋ろうとしている自分自身が心底大嫌いだった。
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