茜の下で
いつものように騒がしく忙しい日常が嫌いとまでは言わないけれど、今日みたいにゆったりと過ごせる静かな日は嫌いじゃない。今朝の騒動さえなければ、の話だけれど。寝不足だったところを不用意にたたき起こされて、見たくもないものを見せられた上で気分よくその後の一日を過ごせる人がいるなら会ってみたい。とてもじゃないけど、あの後で楽しい夏休みを過ごそうって気にはならなかった。
夏休み初日ともなれば生徒はみんな日頃の疲れを癒すために自分たちの部屋から出てこようとはしない。それどころかルームメイトの子は起きてから着替えようともしていなかった。起こしてはみたけど、結局昼まで起きる気配もなかったし、結局昼食も一人で食べた。
一人だったからっていうのも変だけど、あの子を見つけて必要もないのに絡んだりもした。それだけは私らしくなかったし、本当に無意味だったと思う。高々今朝あの子とその周りが原因でたたき起こされたってだけなのに。どうして今さら意識しちゃうのか自分でも分からない。
余計なことを考えないように、ってこうして昼過ぎに人気の少ない図書館にまで来て読書してるのに、食堂でのやり取りだとか今朝の光景が何度も頭を巡ってしょうがない。それどころかあの子のせいで自分の行動が操作されているような気分になって、それも私の気持ちを落ち着かせてはくれなかった。
今朝カーテンの隙間から伺っただけじゃあの子たちが何をやっているのかまでは分からなかったけれど、昼に食堂で話してみれば予想が当たっていた。今日から夏休みだからって初日から何かを始めようとする辺りすごく意気込むのは分からないでもないけど、努力が嫌いなあの子に限ってどんなにすさまじい努力をしたところで間に合うとも思えない。
この学院で魔法が使えないのは致命的すぎるハンデだ。少なくとも、卒業要件に実技試験での勝利数が盛り込まれている時点であの子に卒業の認定が下りることはまずありえない。
読んでいた分厚い本を閉じた。とても頭に内容が入ってくるほど集中できていないのは明白だ。それどころか表紙すら初めて見たような気がする。『魔術医療学 著:テルトルート・アーデル』表紙からして難しげで見たことも聞いたこともない人だった。
気持ちの良いすべすべとした手触りと見るからに高価な装丁もよくよく考えてみればただの学生が触れるには少し気が引ける。私がどれだけ何も考えずに適当に本を選んでいたのかよく分かる。そもそもこんな本を学院の図書館に置いといて誰が読むって言うんだろう。
表紙をもうひと撫でしてため息をついた。我ながら幸先の悪い夏休みだなって思う。普段からできるだけ関わらないように、視界に入れないようにって気を付けていたつもりだったのに、今朝の出来事は本当に不意打ちでしかない。それに話したのだってすごく久しぶりだった。今年に入ってから初めてのような気もする。
入学したての頃こそよく話してつるんでいたけれど、クラスが一緒だったのも一年生の時だけだったし、お互いの寮の部屋も知らなかったから授業があるときしか一緒にいなかった。だから学年が上がってクラスが変わってからは全くかかわらなくなっちゃったし。そもそもあんなことがあってもまだ関係を保とうと六年間もいろいろしてくる向こうの方が頭がおかしい。誰に聞いたってそう言うはず。大体あの子が……。
はっと気づいたころには目の前の窓から西日が差していた。だいぶ長い時間本当に無益な考え事をして過ごしたのかと思うとなんだかどっと疲れが押し寄せてくるように感じる。日頃の疲れを癒すための夏休み、なんてよく言えたものだなって我ながらそう思う。ここまでくると逆に今夜はよく眠れそうな気もした。
本の元あった場所も忘れてラベルを頼りに本棚を探した。医療関係の棚なんて学生が好んで読むようなものじゃないってそう言われているみたいに図書館の奥の方にあった。
ここまで歩くぐらいならもっと手前にある本でも読めばよかったのに。本当にどうしてあんな本を手に取って読んでたのか分からない。本を差し込むと表紙の材質がよいせいか詰めて置かれている本の間でもすんなりと収まってくれた。
図書館を出ると廊下がまるで燃えているように紅く染まっていた。壁や床に強く反射して目に差し込む光は強すぎてあまり良くないんじゃないかって思う。それだけ色鮮やかだってことにはなるけど。
日が落ち始めたってことは大体夕食の時間もそろそろのはず。今日はわけもなく頭が疲れちゃったし、早くお腹を満たして寝たい。寮棟と食堂に分かれる十字路を迷いなく食堂の方に曲がった。夕食ともなれば流石にみんなもお腹を空かせてるみたいで食堂に向かってる人数も多いように感じる。
そんな時廊下の反対側から見慣れた、あまり見たくない人たちがこっちに向かって歩いてきたのが目に入った。あの子だ。まだこっちには気づいていないみたい。
どうしよう。今ならまだ来た道を引き返して別のルートで食堂に向かうこともできなくはない。でもそんな私の思考に反して足はそのまま直進して行く。一歩進むたびに心臓の鼓動が一段と強く脈打つのが分かる。私が今さらあの子を意識するなんて、考えられない。
自分の体が言うことを聞かないまま距離がどんどん近づいていく。一瞬だけ目が合った。それでも確実にお互いの存在を認識しあったはずだ。心臓の鼓動はピークを迎えて、胸を突き破ってくるんじゃないかってぐらいに飛び跳ねている。まるで私の中から出たがっているみたいに。
そして何もないまますれ違った。ただ普通のまま、何も起きていないように振舞って。
たった一瞬の出来事だったっていうのに自分でも意識するぐらいに息が上がっていた。歩くのをやめてその場に立ち止まる。自分の胸に手を当てて大きく深呼吸をした。そうでもしないと本当に心臓がどこかに行ってしまいそうな気がしたから。そして追い打ちをかけるかのように後ろから声がした。
「今のリリィちゃんだったよね。レイちゃん声かけなくてよかったの?」
「う、うん。なんか疲れてるみたいだし、今日はやめとくよ」
「っていうかレイってリリィと仲いいのか? なんか雰囲気的に真反対って感じだろ」
「リィちゃんは学院に入ってすぐにできた友達なんだ。クラスが変わってからあんまり会う機会もなくなっちゃったけど……」
その後も会話は続いてたみたいだけど、聞き取れたのはそこまでだった。あの子に未だに友達と思われていた。私はずいぶんと前に切れた関係だって、ずっとそう思っていたのに。
あの子に言わせてみれば『友達』だなんて気軽に呼べる関係性なのかもしれないけど、私にとって見れば酷く億劫で不要なものにしか感じられない。それなのに、今朝のように気になってしょうがない。自分でもどうしてこんな気持ちになるのかが分からない。分かりたくもない。それを理解することで今自分が歩こうとしている道が遠ざかってしまうような、そんな不安を感じてしまっている。そしてそれをもたらすあの子という存在自体が目障りで仕方がなかった。
真っ赤な夕日が差し込んでくる廊下は、本当に燃えているように見える。これが本当なら誰もこの道を通ろうとはしないはずだ。熱く、孤独で、それでもこの先には私が求めているものがあるんだってそんな気がする。そして、私はためらいもなくそこへ足を延ばした。
周りにはもう他の生徒の姿はない。
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