茜色 ―2
「レイちゃーん。一緒に帰ろー」
机に頬杖をついて考えもなしに呆けているといつの間にか廊下からレイを呼ぶ声がした。ふと教室を見回すと周りに生徒は残っておらず、広い教室にはレイ一人だけが取り残されていた。そのおかげで誰がレイのこと呼んでいたのかがすぐ分かった。声の主は教室前方の入り口からレイの方に手を振っていた。
「なんだ、ティアか」
「なんだってことはないでしょ、探したんだから」
そう言いながらティアがレイの机の下へと近づいてくる。
「図書館の方にいるのかと思っていってみたらいないんだもん。クラスの人に聞いたらまだ教室にいたかもって言ってたから」
自分でも驚くぐらい長い時間上の空でいたらしい。窓の外では遠くの空で今まさに夕日が沈みかけていた。
明日からの長い夏休みが憂鬱で仕方なかった。いつもなら授業に没頭しているだけで嫌なことを忘れられていた。しかし集中できるものがなくなってしまった以上これからはレイ自身の嫌なことと向き合っていかなくてはならない。
向き直るようにして前の席に座ったティアがレイの顔を心配そうにのぞき込む。いつも明朗快活に振舞っている親友がこうして一人黄昏ているのはいつになく新鮮だった。それを敏感に感じ取ったレイが先手を取って口を開く。
「らしくない、って思ってるでしょ」
「まさか。レイちゃんったら学期末になったらいつもこんな感じじゃない。今さら何とも思わないよ」
「今までと同じわけないじゃん。今までと違って情状酌量の余地なんてないんだから」
明らかに進級の要件を満たさない実技の評価も、その代わりに筆記の成績を学年トップに維持することでこれまでは事なきを得てきた。しかし、進級と卒業とでは訳が違う。何とか誤魔化して次の学年に進むのであれば次年度の努力次第で盛り返す可能性もなくはない。もちろん、レイに限ってそんなことできた試しがないが、それはそれとして、名門の名を冠するこの学院から実技壊滅の生徒をお情けで世に送り出すなどただの一例ですら許されない。レイの成績に常に目を光らせている担当教師らが情けをかけてくれるとは到底思えない。少なくとも実試験で最低限の成果を収めないことには、どれだけ筆記に努力を割いたところで問答無用で留年、酷ければ除籍にもなりかねない。
「明日急に全部の魔法が使えるようにしてくれとは言わないから、せめてちょっとくらい上達させてほしいよぉ」
腕を枕にレイは机に伏せ不満げに視線を床に落とす。
燃えるよう真紅の髪に夕焼けを受けながら、絞り出すようにして出した願いは別に誰が叶えるとも、聞いてくれるということもない。ただ現状を打破する術もない状況で何かに縋っていたい、そう思っていた。
「そんなこと言ったってそうなんでもすぐにできたんじゃ誰だってそう苦労しないよ」
「そんなの分かってるけどぉ」
同じようなやり取りももう何度繰り返したことか分からない。しかし、それこそ奇跡のような魔法でもなければレイがこの状況を変えることは難しいだろう。この六年間何もしてこなかったわけではないにもかかわらずこの為体だ。今さらちょっとやそっと努力したところで何か変わるとも思えない。そもそもレイは努力が苦手だった。
「今年の夏休みは課題もないことだし二人でまた頑張ろうよ」
励ましの声が頭上から降りかかる。そういって毎回励ましてくれるティアの言葉にはこれ以上ないほど頭が下がる思いだった。自分のこともあるだろうとレイでも予想がつくが、ティアはいつもレイのことを気にかけてくれていた。
「ちょうど明日から夏休みじゃない? だから今年はレイちゃんにとっておきの知らせ持ってきたんだけど」
瞬間レイの視線がティアに向く。決して過度な期待をしたわけではない。ただティアのテンションがレイの良く知るものよりも一段と高くなったように感じただけだ。いつも見慣れた青く透き通った前髪が真っ先に目に映る。やけにもったいぶってにやついている親友に尻尾でも付いていようものなら、千切れんばかりに高速で往復していたことだろう。
「何それ、まさかさっきの私の願いを叶えてくれるの?」
「流石にそんなのは無理だよ。でも、この間約束したこと覚えてる? 私の知り合いに実技が得意って人がいるからレイちゃんちょっと会ってみて欲しくって」
「あの約束なら……なんとなく。でも、知り合いって、そんな人いたっけ」
つい最近交わした面倒な約束がここにきて実現したらしい。魔法の練習に対するレイの重い腰を上げさせてくれる何かをティアが用意してくれると。
入学してこの方ティアと四六時中寝食を共にしていたが、レイに思い当たる節もない。思い浮かんだ候補はどれも特筆してティアをして実技が得意と言わせるほどでもなかった。
「ルクス君なんだけど、知らない?」
「ルクスって、入学してからずっと実技のトップ争いに参加してるじゃん。そりゃ知ってるにきまってるよ。ティア、そんな人と仲良かったんだ」
「一年生の頃からずっとクラスが一緒でね、たまに勉強教えてあげてたんだ」
ティアの意外な交友関係に興味が引かれてか、単に物珍しさからなのか、自然とレイの上体が起き上がりティアの話に耳を傾ける。
とはいえ、そんな周囲の目を引く秀才が魔法に関してはずぶの素人も同然の人間に教えを施してくれるほど暇だろうか。そうでなくともそんな天上人に生意気だと足蹴にされはしないだろうか。レイの中で期待よりもさらに不安が募りつつある。
「それでね、ルクス君実技の方は問題ないんだけど、筆記がからっきしだから教えてくれる人探してたんだって。私でも良かったんだけど、せっかくだし。それに、レイちゃんなら卒業試験の対策もばっちりかなって思って」
「そりゃあ私はそれぐらいしかできることありませんし? おのずと学科の方は上の方に上がりますとも。でも、そんなので交換条件になるの?」
「うん。ルクス君筆記の方をどうにかしてくれたらなんだってやる、って言ってたし」
惰性で続けてきたものが意外なところで助けになるものだとレイ自身感心した。むしろこういう時のために勉強はするものではないのかとすら思える。
一瞬脳裏によぎったのは学科試験で首位を取る代わりに実技の点数を勘定してほしいと採点担当の講師に泣きついた過去。あの時は一緒にティアもいたはずだったが、今思い出すと顔から火を噴くほど恥ずかしい。レイのどうにか忘れていてほしいものの一つだった。しかし、あれがあったからこそ今この状況なのだと思うと悪くなかったのではないかと勘違いしてしまう。
「ダメ、かな」
解答を出し渋っているレイに向けられるティアの不安そうに問いかける目は、まるで子犬のようだ。わざとなのか無意識なのか、若干体勢を伏せて下から上目がちにこちらを見上げている。
ティアが何かレイにお願いを聞いてほしいときはいつもこのフレーズと聞き方だった。そう考えると、意外とティアは計算づくなのかもしれない。それに加えてティアのお願いはいつも誰かのためを思ってのことだった。長年一緒にいるレイですら自分のためのわがままを言われたためしがない。そんな健気さだけでできている親友の願いを無下にできるほどレイの心は荒んではいなかった。
しかし、この期に及んでレイの中にわずかに残る後ろ向きな思考が足を取る。
「でも、私と彼とじゃ力の差がありすぎて教えてもらってもついていけないと思うよ?」
「それは大丈夫だよ。ルクス君教えるのも上手だし、一応私も一緒にいるからさ」
対するティアはもう一押しすればレイが折れることを見越しているのか。矢継ぎ早に返答する。
先ほどのか弱く見つめるような態度とは打って変わってグイグイと食いついてくるティアの変わりようはどこか恐怖すら感じさせた。
でも、でもと悪あがきのような言い訳し続けるレイを異に返さずティアは話を続ける。そうこうしているうちにその気になり切れずにいたレイもいつしか折れていた。
「そこまで言うなら、とりあえず会ってみるだけでも……」
まだまだ言いたいことはあったが、何を言ってもこれを提案された時点でもう後戻りできないような気がしていたし、何よりも根回しをしてくれた親友の労力をぞんざいに扱うことはできない。そして何よりもこれ以上手段や過程を選り好みしていられるだけの余裕がないことも事実だ。下手に時間をおいて決断を後回しにするよりも、今は少しでも足掻く時間が惜しかった。
レイが気怠そうに伸びをすると、ティアが心底うれしそうな表情を浮かべる。
「なんでそんなに笑ってるのさ。そんなに面白い?」
「ううん、そうじゃないよ。ただレイちゃんがようやくやる気になってくれたなって嬉しくなって」
「いつも言ってるけど、あのお願いの仕方はずるいよ。それでなくても、何とかしなきゃこれ以上何もしないまま卒業できないと私が困るし……ティアにも迷惑かけちゃうし」
面と向かってそう告げるのがどこかこそばゆかった。急に顔が沸騰したような感覚を覚えてレイは顔をそむける。それを見てティアが一層顔をほころばせたのがレイにはどうにも腑に落ちなかった。
気づけば先ほどまで橙の光を差し込んでいた太陽も沈みかけていた。反対から紺青のとばりが空を覆い始めていることだろう。教室やその周辺の廊下にはすでに人気はなく、窓の外から見える構内の敷地にもほとんど人影が見えない。
「そろそろ帰ろっか」
「うん」
他愛もない会話をしながら鞄に教材をしまうと二人は席を立った。ふと何気なく教室内の時計に目をやる。
「やばっ、急いで帰らないと」
もうすぐ食堂が込み始める時間になろうとしていた。少しでも遅れようものならそこから優に一時間は待たされることになってしまう。今から部屋に戻ってから食堂に向かってギリギリの時間だった。
「早く、置いてっちゃうよ」
「ちょっと、待ってよレイちゃん」
ティアを急いて廊下を駆けるレイの顔には笑みが浮かんでいた。卒業試験のことは不安でしかないが、ティアと話しただけでも心を覆っていた幕がすっきりと取れたように清々しい気分になっていた。心配事はそれでも二、三残っているものの、どこからともな湧いて出てくる不思議な期待感にかき消されてモヤのように霧散していくようだった。明日からの夏休み、ここが正念場だろうと改めてこぶしを握ると思い出したかのようにしびれが腕に走った。
「いっ……」
「レイちゃん大丈夫?」
足を止めてティアが声をかける。
「大丈夫だよ。しびれただけだから気にしないで」
何度か手を振って見せて本当に何ともないことをアピールする。わざとらしく平気なように演じてみせたものの、本当はくすぐったくてたまらなかった。
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