第2話 いつだって体力はとても大事なものである

気が付いたら黒いぐにゃぐにゃしたものを執拗に蹴りつけている。いつからここにいて、このようなことをしているのかと思う。暗い路地裏のような場所で、ドブの臭いがした。黒いぐにゃぐにゃしたものは「ブヒイ!ブヒヒイ」と、蹴り上げるたびに、声を発した。これは生き物なのだろうか。蹴る行為を止めることはできない。オートマティックに、脚が動いた。正直、疲れて来ていた。いつまで蹴ればいいのだろうか。「ブヒイ!ブヒヒイ!」と黒いぐにゃぐにゃしたものは叫んでいる。非常に不快で甲高い声。こんな声を発する生き物は蹴られて当然と思える声。重い灰色の空を、ほとんど真っ黒な雲が、移動していく。地鳴りみたいな低い音がする。


高橋には弱そうな人間とすれ違うときにだけ、独り言を言う癖があった。

「なんで生きているか」

「臭いし不要」

「排除されたのになぜ?」

「カス、ゴミ、敗残者」

そんな言葉を、こいつは自分よりも明らかに弱いだろうな、と判断した場合にのみ、呟いた。

背が低い冴えないおっさん、痩せたおばさん、まだ小さい成長していないガキ等々が、対象となった。

だが、たまには自分よりも強そうな人間に、それを聞かれてしまうこともある。

あまりにも、弱そうな人物が素早い場合などに、起こり得る話。

「ゴミ、カス、なんで生きているのか」

そう言って、見て見れば想定していた人物ではなくて……。

「あ?今なんつった!んだ!コラー!」

明らかに野蛮なスタイル、背が190センチくらい、屈強な体格、頭の両サイドは刈り上げて、金髪、襟足が、異様に長い。白いシャツの上に黒い皮のジャンパー(ジャンパーには「極悪龍見参・喧嘩上等・殺害愛好」と書かれている)、下は、わざとダメージを与えてボロボロにしたジーンズ。ジーンズの隙間から、野蛮な男の、皮を被ったチンポコが、ちらと見えている。

「やんかコラー!」

目を吊り上げ、眉間に皺を寄せ、歯茎を剥き出しにして、その野蛮な人物は叫んだ。

発情期の猿を彷彿とさせる表情。

だが実際はリアル猿の方がいくぶんか可愛らしいのが事実。

「ゴラカス!やんかコラー!」

そういう場合、高橋はすぐ土下座をし、許しを請う。

強い人間には逆らわない。

従順な奴隷。

「私はあなたの犬、チンポコ舐めましょうか?」

高橋は上目遣い、涙ぐみながら言う。


一般社会では、高橋のような態度こそが正義。だいたい弱い人間に対して攻撃的なのが、この社会では常識としての振る舞い。自分が勝てそうな奴にだけ、非常に高圧的。常に自分より弱そう、叩けそうなものを、探し求めている。それが人間の習性。特に「会社」と呼ばれる組織は、それが徹底されている。「役職」を与えられた人間は、「役職」のない人間に対し、基本的に攻撃的であり、人間として扱うことをしない。機械と同じ。死んでも、替えはいくらでもきく。そういう存在として、扱う。一見、穏やかそう、優しそう、という「役職」持ちの人物でも、同じこと。それは「平時」だからそうなのであって、何かあれば、即座に、「役職」のない者を、切り捨てていく。「僕は死にたくないから君が死んでくれ。これは組織の決定事項」平気で、真顔でこういうことを言うだろう。「会社」にとって「役職」持ちが「本体」であり、「役職」のない人間は「電池」みたいなもので、いくらでも切り捨てて、補充することが可能なものでしかない。それが本性。こんな奴、死んでも俺はなんとも思わない、むしろ死ね、という、強い攻撃性。命なんて別に、本当はなんとも思ってない。でも、そのことを指摘されると烈火のごとく怒りを表明。図星だから怒るのだ。人の命とか、どうでもいい。有名人の悲劇的な死のニュースを聞いて、涙を流すが、一瞬のちには恋人と電話して笑いながら、ポテトチップスを食べて、犬猫の動画を、見ている。デートの約束をして、セックスできるかなあ、濃厚なセックスしてー、とか考えている。弱い人間は、生き残るために、どうにかしなければならない。人間の本性。命を軽視する習性。それは消極的軽視ではなく、死ね!殺せ!と叫ぶ、積極的軽視に分類可能。弱いものを攻撃したいという欲望。それは止まることがない。人間のもっとも核となる習性なのだから、仕方がないのは事実だが……。それを、少しでも緩和する必要性。……権力もなにもない「役職」のない自分の生存率を上げるためにはどうすればいいのか。答えはある。土下座、謝罪、あなたのためならなんでもやります、という意思表示。その徹底。これは、覚えた方が良い、社会における作法。強い者には逆らわず、躊躇うことなくチンポコを舐めるべき。むしろ自分から「チンポコをお舐めしましょうか?」と聞くくらいのスタンス。生きるための処世術。その際に精液をきちんと「ごっくん」できれば、なおのこと良い。言うまでもないことだ。


すなわち高橋は賢い。

事実、野蛮な男は大人しくなる。

犬、という言葉が、男の琴線に触れたのだ。

幼い頃、出会った犬。

「ジョン……」

野蛮な男はつぶやく。


……野蛮な男は名前を後藤洋二郎(36歳無職)という。

小学校4年生の頃、彼は毎日のように、近所の公園で遊んだ。

そこに、ふわふわの毛並み、大きな潤んだ目をした子犬(チワワに似ているが恐らく雑種)が、芝生の上を走り回る。

可愛らしい光景が出現。

「ワンちゃんだ!」

幼い後藤少年は、駆け寄り、撫でようとする。

犬は、芝生の上を、キャンキャン言いながら、小さな、短い脚で、飛び跳ねている。

「ダメ!触っちゃダメよ!」

女の人が、後藤少年の肩を掴んで走るのを止める。

外国人の女の人。髪は金髪で長い。目の下に紫色のラインを引いている。ピンクのティーシャツを着用。乳房が大きく張り出し、乳首が浮き出ていた。

「こいつ、凶暴、凶悪なのよ。近づいてはダメ」

「こんなに可愛いのに?」

「そうよ。こいつは化け物なの。もう今年に入って18人の子供を殺害していて……」

子犬は、つぶらな黒い目をしていた。鼻をスンスンいわせて、芝生のにおいを嗅いでいた。無邪気な様子をしていた。

「子供の首を食いちぎって失血死させたあと、ゆっくりと、臓物を食べる。特に肝臓が好きみたい。あたしは先日その様子を購入したばかりのビデオカメラで撮影していたから、本当の話なのよ。動画はすぐにインターネットにアップしてみんなとシェアした。子供が無惨にも虐殺されていくシーンはけっこう興奮する、ありがとうって沢山感謝されたし、イイネをもらった。あれは嬉しい体験だったけど、危ないのよ」

「怖いよ……」

「怖いのよ。あたしはただ、あいつに子供たちが順番に虐殺されていく様子を、見ていることしか、できなかった……」

「怖すぎるよ……」

後藤少年は震えてしまう。

小便が出そうだった。

「漏れそうだから、行くね……」

後藤少年は言って、その場を離れる。公園にトイレはない。奥に、小さな雑木林があるから、そこの木の根のとこで、小便をしようと思った。小便は木の成長にも良い気がするし、構わないよね?

この時期の彼は、おかっぱ頭で、痩せていて、身長も低く、目が大きい、繊細そうな少年だった。まだ、屈強な「やんかコラー」と叫ぶ、発情した猿のような顔をする人物では、全くなかった。野蛮の気配は、微塵もない。

「漏れる!漏れちゃうよ!」

後藤少年は雑木林の一本の木の根元に放尿した。

「こら!こんなとこで小便しちゃいかんぞ!」

怒鳴りつける声。

後藤少年は振り返る。

頭髪の欠如した、太った中年男性が、怒りの形相で立っていた。

その人物は地域のゴミ拾いや野良猫保護などに取り組むボランティア団体の一員で、通学路に良く黄色い旗を持って立っていて、後藤少年は見知っていた。

熱心な地域活動により、善良な市民であると、かなり評価されている人物だった。

数日前にも、車に轢かれそうだった野良猫を、身を挺して助けたのだと、賞賛された。か弱いものを助けるのは当たり前のことですと、地域新聞のインタビューに、はにかんだ笑顔を見せて、答えていた。

「こんなとこで小便しおって!悪い奴だな!」

「ごめんなさい!漏れそうだったから……」

「漏れそう?そんなのはお前の都合だろうが!」

「ごめんなさい!」

「まあいい。しちまったもんはしょうがねえや」

「許してくれますか?」

「ああ……」

頭髪の欠如した、太った中年男性は真顔になった。

怒りが消えた。

ピリピリしていたムードが解けた。

穏やかな空気感。

「俺の言うこと聞いたら許してやる」

「本当ですか?」

「ああ。もちろんだ」

ゆっくりと歩いて、後藤少年の方へ近づいていく。

湿った地面を踏む音。

落ちた葉っぱの踏まれる音。

小鳥たちがチュンチュン言っている。姿は全く見えない。

後藤少年の目の前まで来ると、頭髪の欠如した、太った中年男性は、着用している青いジャージを脱いだ。

下着をつけていない。全裸だった。

贅肉で弛んだ体。脇毛、腕毛、すね毛、チン毛、ケツ毛、すべてが毛深く、不潔な印象をもたらしたし、実際臭かった。

すっぱい臭い、イカの臭い。

「ここに寝るから、思い切り蹴ってくれ……」

男は、後藤少年の目の前に横になる。

「俺は犬だ。ジョンって名前の犬。名前を呼びながら蹴ってくれ。特にケツとチンポコを執拗にやってくれ。興奮しちまう。早く、やってくれよ……」

「わかった。ジョン……」

後藤少年は横たわる男の股間を、思い切り蹴った。

「ブヒイ!ブヒヒイ!」

嬉しそうな表情、顔を真っ赤にして、耳障りな甲高い声を発し、頭髪の欠如した、太った男性は、射精した。精液が、後藤少年の靴の、つま先のところに、べったりと付着した。


気がつくと高橋は自宅にいて、モニターには大好きなポルノ動画が映っていた。


動画内ではチンポコとマンコを剥き出しにした外国人の男女が絡み合い、オーイエスとか、オーマイガッ、とか叫んでいた。


高橋はいつの間にか、右手で自身のチンポコを握っていた。


いつも、いつの間にか自室にいて、いつの間にか、チンポコを握っている。


不思議だった。どうやってあの危機を脱したのか。


明らかに、あの野蛮な人物は自分に危害を加える気だったのだが。

わからない。


今は、気持ちよかった。


動画は激しさを増した。高橋の右手も、加速して動いた。気持ちいいと全てがどうでもよくなる。気持ちいいのが大好き。


高橋は、笑顔になる。心からの笑顔。


嘘のないピュアスマイル。


「イギ!イグッ!イグイグ!」高橋は叫んでいた。


充実した時間。


今、ここには殺意とか、憎悪とか、ネガティブなものが何も存在しない。


気持ちいいしか存在しない世界。


大好きなポルノ動画をじっくりと凝視しながら右手を動かす。

これこそ、人間がもっとも幸せを感じる時間ではないか。

ポルノは素晴らしい。

ずっとポルノがいい。


ポルノだけあれば最高の世界。


《最高の世界はダメ。苦しみを味わってこそ、現実を生きていると言える。》


そんなわけのわからないゴミみたいな意見を持つ連中が、私たちをポルノの世界から引きずりだす。


本当は、ポルノだけ凝視する世界が、幸せに決まっているのに。


一日中、暗い部屋でモニターに映るポルノ動画を凝視するのが、最高・至高の世界であるのは、明らかであるのに。


《他人の幸せは絶対に許せない》という連中が、

ポルノばっかりは害悪だからダメ!などとほざくのだ。


そいつらだってポルノが大好きなくせに……。


「あー!ぎもぢいいいいい!」

そのように、真っ昼間の路上で叫びながら、ジャージのズボンを脱ぎ、黄ばんだブリーフを放り投げ、チンポコを露出して、右手で扱き、精液を発射する、頭髪はボサボサ、無精ひげを生やし、虚ろな目をした有島武志さん52歳が、射精を終え、快楽に浸っているときに、複数の通行人によって暴行され、取り押さえられたのも《他人の幸せは絶対に許せない》という思想が原因。


路上でポルノ行為をやることで、有島さんは確実に幸せだったに違いないというのに……社会はそれを許さないのだ。


犯罪者の認定を受けた有島さんは、路上でチンポコを出せず、勃起もできず(バイアグラ等多数の薬を試すも無駄だった)、幸せを感じることができなくなり、その後、失意にまみれた有島さんは、逮捕された公園内トイレの個室にて、針金で首を吊り自殺。


発見した人物は「まあ、社会に迷惑かけないで一人で死んだのは立派」と発言。


この発言は大いに支持され、当該人物は夏の参議院選挙に与党公認で出馬、トップ当選。


参議院議員を2期務めた後に衆議院に鞍替え、与党党首選に勝利、その後の首班指名選挙で内閣総理大臣に就任。


所信表明にて「死にたい人間が他人に迷惑をかけることなく一人で勝手にひっそり死んでくれる社会の実現」を宣言。


この発言は大いに支持された。


「ブヒイ!ブヒヒイ!」と黒いぐにゃぐにゃしたものは叫んでいる。非常に不快で甲高い声。こんな声を発する生き物は蹴られて当然と思える声。重い灰色の空を、ほとんど真っ黒な雲が、移動していく。地鳴りみたいな低い音がする。気が付いたら黒いぐにゃぐにゃしたものを執拗に蹴りつけていたのだ。いつからここにいて、このようなことをしているのかと思う。暗い路地裏のような場所で、ドブの臭いがした。黒いぐにゃぐにゃしたものは「ブヒイ!ブヒヒイ」と、蹴り上げるたびに、声を発した。これは生き物なのだろうか。表面が黒いビニールで覆われていて、姿形はわからないようになっている。奇声を発する人形である可能性もあるだろう。蹴る行為を止めることはできない。オートマティックに、脚が動いた。正直、疲れて来ていた。いつまで蹴ればいいのだろうか。誰も止めてくれない。止める術はないようだった。疲弊が進む。痺れもでてきた。手は動くので、上着の懐を探って、さっき駅構内で見知らぬ外国人っぽい男から買った、ドーナッツに見えないこともない洋菓子を食べた。香辛料みたいな、臭い粉が全体にまぶしてあって美味しくない。だが、カロリーは摂らないといけないだろう。体力は保っておかねばならない。これを食ったからといって、いつまで持つかわからないが。しかし言えることは、いつだって体力はとても大事なものである、ということだ。体力維持のためならば、無駄かも知れないことでも、やっておくに越したことはない。


(了)

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