―― 4 ――
「いってぇ……」
全身が悲鳴を上げている。
強く打ちつけたダメージで体は全く動かすことができないのに、痛みだけがただただ鮮明に俺を蝕んでいた。顔ひとつ向きを変えられない。
三階だった。大体、十三メートル程度。打ちどころが悪ければ即死だったはずだ。
今の俺は運が良かったのか、それとも……。
「お疲れ様、
ケラケラと笑い声が聞こえた。姿は見えない。
「あらら、足の向きがおかしなことになってるよ。これで気を失えないなんて、財部くんてば神様に相当嫌われてるんじゃない? 何か悪いことした?」
「しら、ねぇよ」
「声も出せてる。思ったより元気そうだね」
ケラケラと。ケラケラと。癇に障った。
「呪いってやつは、腕を一本差し出して、この程度なのかよ」
「私のせいにするんだ。いいよ、それで気がすむならね。でも、君の呪いは完成してた。ちゃんと彼女と会えたでしょ? それ以外は些事だよ。君の希望通りにね」
「……手に入るはずだったんだ。
「そうだね。だけどやっぱりここは分が悪かったなぁ。君とも、相性がよくなかったしね」
まるで他人事みたいにあっけらかんと、彼女はそう話した。
当たり前、か。他人事だもんな。俺の望みは、俺だけの望みだったんだから。
「なぁ、お前何しに来たんだよ」
「お別れをしに来たんだよ。友達が死ぬのを、見届けに来た」
「やっぱり俺、死ぬのか?」
「死ぬね。君を許さない人がいる。私は彼女が来る前にちょっとした会話を楽しみたかっただけなのだけど、野暮だなぁ。もう時間みたい」
ふっ、と気配が先になくなった。
「楽しかったよ」
「財部くんとの時間」
「残念」
「次があったらよかったのに」
何かが暗闇に紛れて、俺の視界を横切った。
目だけでその姿を追うと、暗い体毛の猫がエメラルドのような瞳でこちらを覗いている。
いつか見たあの猫だった。黒猫――不吉の象徴。
「
視界の端に、別の影が入ってきた。いや、影なんて存在感じゃ決してない。
足元しか見えないこの姿勢でも、それとわかる。
それはただ一人、開帝の英雄にして伝説でもある、その人の姿だった。
「
先輩は屈んで、俺の額に触れた。不器用だけど、まるで撫でるようなそんな仕草だった。
「財部、何度もいうが私は君を不良だと思ったことなど一度もないよ」
「先……輩、泣いてるんですか?」
「泣いているさ、自分の力不足を嘆かずにはいられない。今日はそんな夜だ」
先輩の指が離れて、立ち上がったのがわかった。見えなくとも知っている。きっといつもの仁王立ちで、その小さな体で俺を見下ろしているんだと思った。
「財部、悲しいなぁ。救えたはずの命が、手のひらからボロボロこぼれ落ちていく。
私がもっと強かったなら、助けられたものもいたかもしれない。
私がもっと大きかったなら、沢山のものを抱えられたかもしれない。
私がもっと正しければ、世界を変えることすらできたのかもしれない。
私は私の弱さが疎ましいよ。腹立たしくて、吐き気がする」
先輩は俺の前で弱音を吐いた。
本当に弱音なのかどうかは、頭の悪い俺にはわからなかったけど。
ただ彼女の言葉を聞いていると、自分の悩みが、望みが、どれだけスケールの小さいことなのかをわからされる。執着に囚われていた自分がものすごくちっぽけに思えた。
なんだったんだろうか。どこで狂ってしまったのだろうか。
自分を騙したまま、紗香那のいる教室でつまらない授業を聞き続ける生活もあったのか?
それが本当の俺だったのか?
わからない。それにもう、全部が手遅れだった。
先輩が何かを拾った。引きずりながら、俺の横に立つ。
ガラガラガラ、ガラ
「この学校を、誰よりも愛していた生徒の話をいつかしたな」
「ついこの間、校門で。よく覚えてますよ。その話のせいで授業に遅れたんで」
「なぜ殺した?」
「殺し……そうか、あれが――」
「
頼む、と先輩は俺に頭を下げた。見えないけど、きっとそうしているんだと思った。
俺はこの人の手で死ぬんだとようやく悟った。
この英雄に、伝説に、聖人みたいな人物に、憎しみを向けられて殺されるんだと思った。
そんなのどうしようもなく、釣り合わない。俺には分不相応だった。
自分の犯した過ちの大きさが、ようやく胸に込み上げる。
そうか俺は、……人を、殺したのか。
「あの人はちょうど良かったんです」
間抜けに聞こえるくらい正直に答えた。
「紗香那と身長が、似てたから」
重い衝撃が、音もなく首元を通り抜けた。
痛みがない。
首だけじゃなく、全身の痛みが消えている。
ただ不思議だった。
吸い込んだ空気が肺に届かない。
目の前の地面が静かに赤く染まっていく。
「財部左門、お前は御堂裁判により死刑だ。悪いな、宣告が遅れて。今日はそんな夜なんだ」
声が出せない。だから返事はしなかった。
一言謝りたかったのに。
許してくれるとは、思えないけど。
手放されたバットが地面を跳ねて、カランと音を立てた。
それからは、ここを離れる足音だけが聞こえた。
先輩の姿を目だけで追った。寂しい、寂しい背中だった。
途中で一度、振り返る。
草むらの方に屈むように手を出して、何かに呼びかけているようだった。
「おいで、アメ。今夜は冷えるから、早く帰ろう」
その姿は、ただの可愛らしい女子高生みたいだった。
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