―― 3 ――

「まいっちゃった、なぁ……」

 よくない事態が起きている。

 旧校舎に入ったくらいから私は、逆巻さかまき紗香那さかな朔根さくね先輩とはぐれてしまっていた。

 この状況で、この場所で、ずっとお互いを意識していたはずなのに、どうして今一人なのだろう。記憶はどこか朧げで、繋いでいた右手に残る温かい感触だけが一緒にいた事実を肯定してくれていた。それももうすぐ、消えてなくなってしまいそう。

 起きているのは不思議なこと? おかしなこと? それとも、怖いこと?

 深く考えないように無心で歩いた。足音を立てないように気を使っても、古い床板はきぃと哭く。あんまり神経質になると動けなくなってしまいそうだったから、音には無視を決め込んだ。隠れられる場所を探さないと。……見つかる、前に。

 青白い月明かりが柔らかく廊下を照らしてはいるけれど、それでもあたりは暗くて心許なかった。不安を掻き立てるように冷たい空気が漂っている。少し、肌寒いくらいだ。

 こうして旧校舎を歩いていると、初めてここに来た日のことを思い出す。

 あの時は、横に流花るかちゃんがいた。まだ放課後に入ってすぐくらいの時間帯で、今よりもう少し明るかったはず。流花ちゃんにはもう私が見えてはいなくて……、だからそう、置いていかれちゃったんだっけ。それでも一人で歩く今よりは、ずっと心強かったのを覚えている。

 随分昔のことみたい。まだ、数日しか経っていないはずなのに。

 何もかもが失われる前に戻りたくなる。懐かしくなる。……思い出すと、泣きたくなる。

 けど、それって一体いつのことなんだろう。

 ついこの間、全てが始まったと思ってしまっているのは、もしかして私だけなのかな。

 月が雲に隠れたのか、歩いている廊下の先が暗くなった。私の歩調はまた少し慎重になる。

 財部たからべ左門さもんくん。朔根先輩から聞いたその名前には、そういえば聞き覚えがあった。多分クラスの子だと思うけど、話した事もなければ今だって顔すら思い出せない。

 人と関わらないようにしてきたから、同じ教室で一緒に勉強していてもそういう人は少なくない。だけど、私にとっての誰かと、誰かにとっての私は同じじゃなかった。それは考えるまでもないことではあったけれど、思いもよらないことでもあった。


 彼は――財部くんは私の命を狙っている。


 どうして?

 どこかで何か悪いことをして、怒らせてしまったのだろうか。

 それともまた、私は人を狂わせてしまったのかな。

 心当たりがないのはとても怖いことだった。

 だってそれは、もしかしたらこの先も同じことが何度だって続くのかもしれないということだから。回避のしようが、ないということだから。

 私が生きているそれだけで、誰かがおかしくなっていく。人を不幸にしてしまう。

 やっぱり死を選ぶべきなのかもしれないって思った。ううん、ずっとそれを考えていた。

 私はきっと、殺されることにも、生きることにも怯えている。

 朔根先輩に一緒に生きていこうなんて言葉を求めたのは、本当は彼の不器用な決意を嗜めたかったからなんかじゃない。結局のところそれは、私自身が生きていく理由を保証してもらおうとする底意地の悪いエゴだったんだと思う。ずるいなぁという、自覚はある。

「……お腹、空いたな。そういえばもう何日も料理を作ってないんだっけ」

 死んでしまったら、それが永遠になっちゃうのかなって思うと少し胸が痛くなった。

 自分の作ったものを、もう誰にも食べてもらえない。そんなの耐えられるのかな?

 ふと、私は足を止めて振り返った。


 しん、


 気のせいだったの、だろうか。誰もいない。暗い廊下がどこまでも続いているだけだ。

 進行方向に視線を戻す。もちろんこちらにも、同じような景色が広がっている。

 それだけ、なのに……なんだろう、やっぱりどこかに気配を感じている。

 身震いがして、私は腕を抱えた。鳥肌を立てている二の腕が氷のように冷たくなっている。

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 呪文のように何度も胸の中で唱えるけれど、流石にもう説得力はなくて……、

 もう一度、振り返った。


「………………」


 誰もいない、よね。暗闇の中に目を凝らす。

 必死に辺りを警戒しながら、なぜか私の頭は遠い昔に人から聞いた短い都市伝説を思い出していた。

 

  誰かがいるような気がして、

  振り向いた時に誰もいなかったら、

  きっとソレは、

  あなたの真上にいるんだって。


 ゾク、と悪寒が背筋を撫でた。

 いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。絶対に、天井を覗くことなんてできない。

 だって、だって、見なくてもわかる。

 そこにいる。

 もう、すぐそこ、に。


「――――――!」


 頭を抱えるようにして、床にかがみ込んだ。

 視線を落として、決して周りを見ないように、ボロボロに傷んだ床をじっと見つめる。

 瞬きはしなかった。できなかった。

 一度瞼を閉じてしまったら、目を開けられる自信がなかったから。

 荒くなる呼吸を、必死で飲み込んだ。暴れる鼓動は、抑えられなかった。

 いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。怖い。怖い。

 

 あたりが少し、明るくなる。

 隠れていた月が雲から出たのかもしれない。

 そうして映し出された視界の端で、床に私の影が色濃く落ちる。

 それはいい。

 じゃあ、その横にぽつりと浮かぶもう一つの影は、いったい……、なに――


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 それは初め、自分の喉が吐き出した悲鳴なのかと思った。


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 でもそうじゃない。人の発するものとは違う不快で耳障りな金属音が頭の中をぐちゃぐちゃに搔きまわしている。聞き覚えのある、音。

 私はこの音を知っている。

 決して上を見ないように立ち上がった。壁に近づいて、探す。音の鳴る方に近づいて、探す。

 内線の受話器は、すぐに見つかった。


 ジリッ、


 壁から外して耳に押し当てた。焦りでうまく言葉が出ない。

「……もしもし、」自然と右手に力が入る。

 一瞬だけ、廊下の先に視線を送った。人の、ナニかの気配はない。そちらには。


「階段を登って三階へ上がり、その先六番目の扉に靴を脱いで入ってください。

 決して気づかれぬように」


 言葉が終わるのと同時、通話が切れたことが分かる。

 私は乱暴に受話器を置いてすぐに走り出した。

 私はもう知っている。階段はこの先の突き当たりにある。

 張り裂けそうな鼓動とは反対に、足の動きが鈍くて重い。それでも踏み出して、廊下を進む。

 体力は限界に近づいていて、今にも倒れてしまいそうだった。酸素が全然足りてない。

 うまく回らなくなっている頭で、私は会話の内容をなんとか反芻している。

 水月先生の声はあの日と全く同じに聞こえた。冷たくはないけど、感情の見えない静かな声。

 ――決して気づかれぬように。

 そう言われた。

 ――決して気づかれぬように。

 もう、手遅れだ。走るしかない。

 階段に差し掛かると窓がなくなった。

 躊躇して――足が止まる。やってしまった、と思った。

 私は知っている。夜でなくても、この先が真っ暗闇であることを知っている。

 怖い。手が震えていた。

 怖い。足は今にも膝から折れてしまいそうだ。


 しん、


 静寂が耳に痛かった。前に踏み出せない焦りが、弱くてちっぽけな私を責める。

 走れ、紗香那。動け、私の足。

 きっとソレは私を追いかけて来ているのだから。

 今にも、そう。頭上から飛びかかろうと、していて……。

 結局、私の足が再び動き始めたのは奮い立つ勇気が自分のどこかにあったからじゃなかった。


 聞こえたからだ。

 この世のものとは思えない悲痛な叫び声が、背後から。


 手すりを頼りに先の見えない暗がりを必死に進む。

 本当の黒だった。目を開いているのに視界に何も映らない。深い深い、深い闇。

 私はこれと同じ景色を一度だけ経験したことがある。

 屋上から落ちて辿り着いた場所。水月先生はそれを怪底と呼んでいた。

 景色が少しも変わらないせいで、前に進んでいるのかどうかわからなくなってくる。

 でも二つの踊り場を過ぎたから、そろそろ三階の手前まで来てはいるはず。

 もう少し……、もう少し……、

 気がついた。

 小さな気配が少し後ろをついてくる。

 私はそちらを見なかった。それより、早く水月先生の元に辿り着きたかった。

 たぶんいつかの猫ちゃんだ。そうでしょ? にゃぁ。

 おどけて自分を誤魔化した。

 考えてしまって足が止まったら――わかる。その時は今度こそ、もう二度と前には進めない。

 視界の上の方で、ぼんやりと光が見えた。

 私は加速して、一気に階段を登り切る。

「………………」

 影の薄い廊下がまた、続いている。さっきまでとは鏡合わせの逆の世界。

 窓は右手に、左には特別教室へ続く扉が並んでいる。

 真っ暗な階段を進んだからか、くすんだ月明かりが妙に眩しくて心強かった。

 そんなことに安心している場合じゃない。早く……水月先生の元へ行かなきゃ。

 確か、そう六番目、電話の声は言っていた。

 一つ。

 さきほどまでよりは軽い足取りで進みながら、通り過ぎた扉を数える。

 二つ。それから三つ。

 四番目、そこまで進んで立ち止まる。

 見えたから、気になった。廊下の先。

「ここはあの日と階が違うはず、だよね」

 それなら、


 どうして二つ先の扉の前に靴が並べられているのだろう。


 起きているのは不思議なこと? おかしなこと? それとも、怖いこと?

 ゆっくりと、私は足を進めた。だって目指していたのがそこなのだから、近づく以外の選択肢がなかった。

 不安が胸を押しつぶす。恐怖が頭を塗りつぶす。

 五つ、それから六番目。

 小さな靴の横に立つ。

 拍子抜けするほど何の変哲もない、ただの木造の古びた扉。

 私は一歩、後ずさった。

「そんな……、どうして」

 開けなくてもわかる。ここは、絶対に入っちゃいけない場所。

 だって扉の向こうからさっきと同じあの気配がする。濁った悪意が透けて見えている。

 先生じゃない、朔根先輩でもない、ナニかがそこに、いる。私を待っている。

 電話で言われた通りに、走ったはずだった。それなのに。

 いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。ここにいちゃだめだ。逃げなくちゃ。離れなくちゃ。

 そう、思った時、


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 もう一度、私の頭をベルが掻き回した。


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 聞いているこちらが悲鳴をあげたくなるような甲高い金属音で、思考が飽和する。

 なんで――そう思いながら扉から離れて内線を探した。

 見つけて受話器を手に取り、縋るように耳に押し当てる。

水月みづき先生! 私、さっき言われた場所まで来ました。でもおかしいんです。先生はいないし、ここは違う。なにか、すごく良くないモノの気配があって……、先生はどこにいるんですか?」

 捲し立てるように伝えた。

 受話器の向こうに少しの間、無言が流れる。

 気が焦った。私は早くここを立ち去りたい。だから早く答えて欲しかった。

 返事を待つ一瞬がひどくもどかしい。膨らむ不安を必死で抑える。

 やがて、言葉は静かに返ってきた。


「逆巻さん、落ち着いて聞いてください。

 さっき言われた場所、とそう言いましたね。

 その声は、――?」


「嘘……、」

 そう思った時には、電話は切れていた。

 壁に備え付けられた受話器を置くフックに、指がかけられたからだ。

 私の目の前で起こったことではあるけれど、私の指じゃない。真っ直ぐに伸びたその腕の先を追って、視線を横にゆっくりと移した。


「随分久しぶりね、紗香那。って、ちょっと怖い顔しないでよ。私の髪に何かついてる?」


 三つ編みが、揺れていた。

 さも当然のように笑顔で話しかけてくる声。懐かしい、声。

「流花……、ちゃん?」

「よかった。反応が薄いから、もう忘れられちゃったのかと思ったよ。しょうがないけどね。だって私死んじゃったし。それとも単に、会いたくなかった?」

 フックにかけていた指が外れて、カチャンと鳴った。促されて、私はそこに受話器を置く。

「そんなことないよ」

 私は震える声で、彼女に答えた。

「流花ちゃんのことを忘れるわけないし、会いたくないなんて思ったことない」

「それは言い過ぎでしょ。私たちちょっと近過ぎたんだよね。紗香那が私と距離をとりたくて昼休みに教室にいなかったことは知ってたし、それもしょうがないかなって思ってた。まさか朔根先輩と会ってたなんて流石に考えなかったけどね。あれは、ショックだったなぁ」

「それは……」

 返せる言葉がなくて、私は言い淀む。

 それを見て流花ちゃんはケタケタ笑った。その仕草も、その表情も、私のよく知るもの。

「もういいよ。過ぎたことだから。やっちゃったことはしょうがないよね。私はもう許してる」

 話しながら彼女は私に背を向けた。

「だから紗香那も忘れてよ。私があなたを殺そうとしたこと。いいでしょ? これでおあいこにしよ。そしたらまた楽しく話したり、笑い合ったりできるかもしれない」

 親友として、姉妹みたいに。

 本当に、流花ちゃんが言った言葉なのかわからなくなった。

 だって全部、私が望んでいたことだから。

「ちょっと痩せたんじゃない? なんて、紗香那は昔からずっと細かったけどね。私ずっと不思議だったんだよ。あんなにいつも美味しそうなものばかりお弁当に詰めてきて、どうしてちっとも太らないんだろって」

「それは、ちゃんとバランスを考えて作るから……」

「そうかなって思って、私、ママと喧嘩したの。どうしてうちはいつも適当な料理ばっかりなのってね。冷凍物ばっかりだし、コンビニ弁当の時だってある。私があんまり可愛くないのは、全部ママのせいだって言った。ママ、泣いてたよ。精一杯やってるって。それに私が喜んでると思ってたんだって」

 笑っちゃうよね、って流花ちゃんは続けた。

「流花ちゃんのこと、私は可愛いと思ってたよ。化粧も上手で、キラキラしてて、」

「ママも同じこと言ってた。あなたは心配しなくても可愛いよって。私のたった一つの宝物だよって。でも、どこの家のママでも娘にはそう言うでしょ? 紗香那もそう。お世辞が上手」

「そんなことないよ。私も、きっと流花ちゃんのお母さんも、心からそう思ってた」

「あぁそっか、紗香那はママがいないから、こんなこと言ってもわからないか」

 流花ちゃんがおもむろに、結んでいた三つ編みを解いた。

 癖のない黒髪が真っ直ぐに降りて、大分見た目の印象が変わる。少し、大人っぽくなる。

「誰が何を言ってもね、関係ないの。だって櫂先輩の目には留まらなかったじゃない。私が欲しかったのはすれ違っただけで、櫂先輩を虜にしてしまうような美しさ。私みたいな作り物じゃなくて、すぐに他と違うことがわかる輝き」

「………………」

「そんな御伽噺みたいなことって、呆れたでしょ。私だって紗香那に出会ってなければこんなこと考えたりしなかったよ。でも出会った。本物に出会っちゃったから、もう知らないふりはできなかった。例えば空飛ぶ絨毯なんて、誰でも遠い国の昔話だって知ってる。現実じゃないとわかってる。でも、もしそれが目の前にあったら欲しいと思うでしょ? そういうこと」

 流花ちゃんが振り返る。長い髪が振り回されて、円を描くように宙を流れて纏まった。

 私たちはすぐに目が合う。

「ねぇ、紗香那、私あなたが羨ましかった。妬ましく思ったこともあるよ。でも友達になってくれたことが、そんなことどうでもよくなるくらい嬉しかった。楽しかったよね。素敵な時間だったよね。本当は、紗香那に櫂先輩を取られたことと同じくらい、紗香那を私から奪われたことが悲しかった。悔しくって、誰にも見えないところで何度も泣いた。数え切れないくらい何度もね。だって知らなかったから、涙が枯れないものだなんて」

「流花ちゃん、」

 私は近づいて、彼女を抱きしめた。

「ごめん。ごめんね、流花ちゃん。私、ちゃんと流花ちゃんと向き合わなかった。流花ちゃんと一緒に居ていいのかずっと不安だったから。このままじゃ流花ちゃんを壊してしまうんじゃないかって怖かったから。本当は何度もどこかに消えようって思ってた。どうしてもそれができなかったのは、流花ちゃんといるのが楽しかったからだった。これまでで一番素敵な時間だったから」

 ごめん。冷たい体に回した両腕に力を込めながら、何回も何回も呟いた。

「朔根先輩といたことを流花ちゃんに話さなかったのは、先輩が私の逃げ場だったから。流花ちゃんの憧れの人だって気づいたのは出会って随分後になってのことだけど、引き合わせたら流花ちゃん喜ぶだろうなってわかってたんだ。でもできなかった。例えば三人で会うようになって、私がどこにもいけなくなるのを恐れてた。すごく臆病だった」

 私が間違えていなければ、違う未来があったのかもしれないと思ってしまう。流花ちゃんと笑ってこれからも一緒に過ごせたのかもって考えたら、もう涙が止まらなくなっていた。

「過ぎたことだから、しょうがないよ。言ったでしょ。私はもう、全部許してる」

 冷たい腕が私を抱き返す。

「流花ちゃん。ごめんね」

「いいって、私はこうして紗香那を取り戻せて満足してるから」

「取り戻……せて?」

 私は水月先生との会話を思い出していた。確かそう、幽霊はいないって話になった時のことだ。なんて、言っていたんだっけ……。


 ――もし、死んだはずの人間を見かけた場合、それは生前と同じ人物ではありません。

 ――その姿を真似た誰か、いえ、ナニかと断定して対応すべき相手となります。

 ――ナニであったとしても怪異であり有害であることは間違いありません。


 流花ちゃんの腕が、私をグッと抱き寄せた。

 肩越しに顔が交差しているせいで、表情が伺えない。ただ少しずつ、少しずつ力が強くなっていく。

「流花ちゃん?」

「紗香那さ、」

 それは私の呼びかけに応えた風ではなかった。

「紗香那、後悔してることがあるでしょ。強く思っていること。忘れられないこと。無理矢理妨げられて、できなかったこと」

「後、……悔?」

「そ、私の死に目に会えなかったこと。あんなに頑張って振り切ろうとしてくれたのに、あの水月って女に眠らされて、辛かったよね。苦しかったよね。ショックだったよね」

「なんの話を、してるの。流花ちゃん」


「大好きだったよ、紗香那。だから最後に、叶えてあげる」


 グチャッと湿った音が、耳元で響いた。

 私の頭のすぐ横で。そこには――そこには流花ちゃんの頭があるはず。

「ちょ、ちょっと流花ちゃん」

 首を回すことができなくて、視界が限定された私には何が起きているのかわからなかった。密着した体は離れる様子もなく、冷たい感触が私を締め上げ続ける。

 ブチブチと、何かがちぎれるような音。それが至る所から断続的に聞こえてくる。

 嫌な想像が頭をよぎった。それを振り払って、なんとか流花ちゃんから離れようともがく。

 ずる、と何かが彼女の体を滑った。音を聴かないように耳を塞ごうとするけれど、抱きしめられた腕に固定されて手を自由に使えない。

「やめて、流花ちゃん。……聞きたくない。やめて、……やめて」

 気がついた。不快で歪な音の群れに紛れて、流花ちゃんが小声で何かを囁いていることに。

「……うぅ、……かった」

 耳を澄まさなければ何と言っているのかわからないほど、本当に小さな、小さな声で。

「……痛かった。すっごく痛かったよぉ」

 ぽと、と何か軽いものが暗い廊下の床に落ちた。

 抱き合う形のこの体勢からでは、初め何かわからなかった。でも、凝らした目が薄明かりに慣れて理解する。

 

 それは耳だった。

 ピアスのついた右の耳。

 お気に入りなんだって見せてくれた、流花ちゃんの耳。


「ひ、ひぃ、いやああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 喉がひきつけをおこしたように痺れて、私は肺の中の全ての空気を叫びながら吐き出した。

 想像しないようにするのは、もう無理だった。

 頭が認識してしまっている。

 全てわかってしまっている。

 この音は、流花ちゃんの体が壊れる音だ。崩れる音。潰れる音。

 再現しているんだと思った。

 私がたどり着けなかったあの日、流花ちゃんの家で起こった出来事を。

「いや、いや、いやぁ」

 足りなくなった酸素を補う吸気に合わせて、強い血の匂いが私の体に入ってくる。

 必死に抵抗するのに、冷たい流花ちゃんの体は一向に離れない。

 だけど、だけど、少しずつそれは軽くなっていく。どう言う意味なのかもう考えるまでもなかった。

 ゴトっと、鈍く重い音が響いた。

 大事な何かが、きっとちぎれて落ちたのだ。

 それからずっと、滴る水音が止まない。

 もう床は見れなかった。

 ただ早く、それが終わることを祈った。

 流花ちゃんの死が、通り過ぎるのを願った。

「……違うんだよ。流花ちゃん、違うの。流花ちゃんが死んでいく姿を見たかったわけじゃない。私はあの日助けに行きたかった。駆けつけて、守ってあげたかった」

 でも、できなかった。それは決して水月先生のせいなんかじゃない。

 全部手遅れだったんだ。あの時にはもう。

「ごめんね。私には……、謝ることしかできないよ。ごめん」

 私の体を締め上げていた流花ちゃんの腕の力がふっと弱くなった。

 支えを失った彼女の胴体が重力に従って後ろへ倒れていく。突然のことで、私はそれを止めることができなかった。

 鈍重な衝突音、粘性のある液体の跳ねる醜い音。

 廊下に広がった流花ちゃんが青白い月明かりに照らされる。

 こんな無惨な死に方があるだろうか。ほとんど、人の形を残していない。大きな塊から伸びる二本の腕がかろうじてそれとわかるだけで、ほとんどは破裂した果物のようにひしゃげて中身を剥き出しにしている。

 ゴロンと何かが転がって、私の靴にぶつかった。

 それを、拾い上げる。

 髪が大量の血を吸って重くなった頭。顔があったはずの場所には、ほとんど何も残っていなかった。潰れた両目の痕跡がぽっかりと空いた真っ暗な眼窩となってこちらを見つめ返すだけ。

 壊れた流花ちゃんを抱きしめた。その感触はすごく軽くて、とても虚しい。

「ごめんね」

 もう一度だけ、そう言った。それ以上はきっと意味がなかったから。

 暗い廊下の惨状に、言葉が短く響いた。

 疲弊した頭はうまくものを考えられずにいる。

 それでもぼんやりと、私は状況を理解していた。

 怪底から浮き上がってくる怪異。そのうち、人の意思に寄り添うもの。

 呪い。


 ――呪いは大きく二つの構成要素を持ちます。

 ――一つは『目的』、もう一つは『犠牲』です。


 目の前で起きた事にどれだけの犠牲が払われたのか、私には想像もできなかった。

 わかるのは、流花ちゃんが目的を果たしたということ。


 ガラ、ガラガラガラガラ


 私が見つめる廊下の向こう。

 黒で塗りつぶされて何も見通すことのできないその先から、何かを引きずる音が聞こえた。

 私は音を立てないようにそっと流花ちゃんを床に置いて、静かに、静かに後ずさる。

 でもきっと、私が慎重に行動することに意味はない。

 すぐ横の窓ガラスから、私は光に照らされている。彼にはもう私が見えているはずだった。

 全部、このためだったんだ。

 引き離されて、誘導されて、足止めされて、そうして私は今――

「……見つけた」

 暗がりの中で、影がそう言った。

 人の形をしている影が、すごくバランスの悪い歩き方でこちらに近づいてくる。


 ガラ、ガラガラガラガラ


 右手には、何かを持っていた。持つ、というには違和感があるかもしれない。彼はそれを掴んで、だらりと下ろした腕の先で億劫そうに引きずっている。

 金属バットに見えた。でも、あんな形だったっけ。先端が妙にひしゃげて平たく潰れている。

 まるで刃物みたいに。

 そう思った瞬間、すっと腑に落ちた。

 そうか、あれで小袖さんは殺されたんだ。

 あれで、私は殺されるんだ。

 天敵に怯える小動物のように息を潜めて相手の様子を伺う。

 きっと私が走り出せば、彼も走って追いかけてくるだろうと思った。

 だからゆっくりじりじりと、後退を続ける。

 妙に冷静な自分が、少し不思議だった。

「……紗香那。俺、お前が生きてるって信じ切れなかったんだ。みんなが死んだって言うなら、死んだんだろうと思った。俺の手の届かないところで、何もできないところで死んだのならしょうがないってどこかで言い聞かせてた。馬鹿だよな」

 影が私に語りかける。

「紗香那が死んだくらいで、お前を諦めかけた自分に、今心底腹が立ってるんだ。絶望してる」

「……財部くん、だよね。ごめんなさい。私、あなたのことよく知らないの。話したこと、なかったよね」

「俺のことなんか、何も知らないままでいい。どうせ今のままじゃ、釣り合わないから」


 ガラガラ、ガラガラ


 差し込む月光が歩く彼の姿を照らした。

「財部くん。腕、怪我をしてるの?」

 彼の左肩から、血が滴っているのが見えた。傷を負っているのかと思ったけれど、どうやらそうじゃないみたいだ。彼の体から、左腕そのものがなくなっている。歪な歩き方はそれを庇うようにバランスを取っているからだった。

 直感した。

「何に、使ったの?」

 いつか水月先生にした質問と、同じ言葉で投げかける。

「何って、……ソレだろ?」

 ここからは財部くんが何を指しているのかなんてわからない。

 でも、ソレは一つしかなかった。床に散らばったままの、流花ちゃん。

「どうして、……どうして私にこだわるの?」

 近づく彼に私は尋ねた。

 心の底から知りたいことだった。私が殺される理由。それはもしかしたら、私が人を狂わせてしまう理由と同じなのかもしれないと思ったから。


 ガラガラ、ガラガラ


「どうしてって……、」

 財部くんは一瞬迷ったように口籠って、それから吐き出すように答えた。

「わからねぇ、わからねぇよそんな難しいこと。何かを欲しいと思うとき、誰かを欲しいと思う時、理由って大事なことか? 納得できること言われたら満足か? 言葉で説明できたら世界は平和になるのかよ」

 まるで、月に向かって叫ぶ狼みたいだった。

「理屈じゃわかってるんだ。何かがおかしいこと。全部がおかしいこと。でもどうでもいいんだよ。紗香那、俺はお前が欲しい。俺に釣り合う程度の一部でいいから、お前が欲しいんだ。これを恋とか愛とか甘酸っぱい言葉で呼べないなら――」

 彼の言葉は、私の胸に突き刺さった。


「呪いなんじゃねぇか?」


「散々な言い草だな、財部」

 震えていた私の肩を、大きな腕が優しく抱いた。

「呪いなんて、女性を口説くときに使う言葉じゃないさ。デリカシーがないって言われたことないか?」

「先輩……」

 振り向くと、朔根先輩がじっと廊下の先を見据えていた。

 ボロボロの顔、口元には血も付いている。

「怪我してるんですか?」

「今は僕のことを気にしなくていい。彼の狙いは君だ。間に合ってよかったよ。逆巻は、少し離れて後ろで待っていてくれ」

「そんな……」

 私の肩を軽く引いて、朔根先輩が前に出る。

「朔根……、櫂」

 影が彼の名前を呼んだ。バットを引きずる音が止まる。

「随分ボロボロじゃないですか、先輩。そんな状態で俺のこと、止められますか?」

「言っただろ。僕はこう見えて優等生なんだ。二度も後輩に遅れは取らないよ。それに見たところ財部、君も五体満足じゃなさそうだ」

「二度も?」

「逆巻、悪いけどそこには触れないで欲しい」

 先輩が言い終えるのと同時、影が廊下を蹴って動き出した。右手に持ったバットを横に振りかぶって、こちらに走ってくる。

 それが見えた瞬間、朔根先輩も走り出していた。体を前傾に倒して財部くんの懐に潜るように沈む。

 先輩がバットのスイングを避けた。だけど、その先で財部くんの膝蹴りをまともにくらう。まるで相手が構えていることに気が付かないような不自然なぶつかり方だった。

「先輩!」

 叫んだ。このままじゃ、先輩が殺されると思ったから。

 だけど駆け寄ろうとした私の腕を誰かが引き止めた。冷たい、けれど優しい手。

「きゃ、」

 振り返る。丸い眼鏡の奥で、水月先生が私をじっと見つめていた。

「彼の元に向かう必要はありません」

「でも、朔根先輩が死んじゃう」

「朔根さんは、それも覚悟の上ですよ。しかし、できるだけの準備と回避策は用意しています」

 流花ちゃんの時のことが頭をよぎっていた。

 私が何もできないまま、大切な人が命を落としていく。そんなこと、もう嫌だった。

「水月先生、お願いです。行かせてください」

 私は先生の腕を振り払った。

「逆巻さんが彼の元へ走っても、できることはありませんよ。しかし、逆巻さん自身にも役割があります。ここで起こるすべての事をよく見ていてください。最後はきっとあなたの出番になる」

「そんな、見てるだけなんて」

「見ていることが重要なのです。それに、きっと彼はもう少し頑張るでしょう」

 私は朔根先輩の方へ視線を戻した。

 ちょうど、腕が武器で埋まったガードのできない財部くんのお腹に、拳を叩きつけているところだった。

 見ているこっちが痛くなる。だけど思ったより効いている様子はなかった。多分体力がたりてない。強がってはいたけどやっぱり先輩も限界が近いように見えた。

 揉み合う形で、二人が床に転がった。流石にそうなれば両腕を使える先輩の方が有利なはずだった。それなのに、馬乗りになっていた先輩の体が突き飛ばされて宙に浮く。

 先輩が弱っているとか、そんなことが問題じゃなかった。

 財部くん、すごい力だ。

「こちらも急ぐ必要がありますね」

 水月先生がそう言って床に屈んだ。真っ白なチョークを取り出して、床に何かを描き始める。

 初めは円。それから六角形。いくつかの図形を組み合わせて模様を作った後、周りに文字を並べていく。文字だとは思ったけど、日本語でもアルファベットでもなくて、私の知識では読めない言葉だった。

 まるで、ファンタジーの世界に出てくるような魔法陣みたい。

 すごく綺麗なのに、胸がざわつく。嫌な予感がした。

「何を、しているんですか?」

 先生は私の方を一瞬だけ覗いて、すぐに作業に戻っていった。

「話しても構いませんが、逆巻さん、きっと止めるでしょう?」

 ダン、と鈍い音が廊下に響いて、私はそちらを向く。

 壁に叩きつけられた朔根先輩に、財部くんが近づくところだった。

 引きずるバットが音を立てる。


 ガラガラ、ガラ


「先輩、ガス欠じゃないですか。もうやめましょう。俺、興味ないんです。先輩にっていうか、紗香那以外には。誰でもいいから殺したいってわけじゃない。こんなの楽しくもないです」

「僕が今降参したら、見逃してくれるのか?」

「いいですよ。でも逃したら先輩、また隙を見て邪魔してきそうだから、両腕はいただきます」

「それは御免だね。だけど、君に甘さがあることはわかった。僕は腕がなくなったところで逆巻を守るためなら戦うよ」

「そっすか。本当のところ朔根先輩には、負い目があるから手加減しようと思ってたんです。ほら先輩、紗香那のこと殺してなかったじゃないですか。なのに前回あんなにボコボコにしちゃって、あの時はすいませんでした」

 財部くんが凶器を高く振りかぶった。

「でもそこまで言うなら、試してみます。右と左、どっちからがいいですか?」

「朔根先輩!」

 ビシャッ、と大量の血が舞った。思わず目を背けたくなるほどの残酷な光景。

 ……でもまだ、バットは振り下ろされていない。

 その血は先輩の手から放たれたものだった。多分もみくちゃになって床に倒れた時に拾った、流花ちゃんの体の一部だ。

「目潰し、かよ。卑怯くせぇ」

「悪いけど、なんでもするって決めてるんだ」

 先輩が跳ねるように立ち上がって、財部くんを渾身の力で蹴り飛ばした。

 廊下の向こうへ、財部くんが転がる。

 朔根先輩がこちらへ振り向いた。肩で息をしていて、立っているのすらやっとに見える。

 財部くんがもう一度立ち上がったら、次のチャンスがあるようには見えなかった。

「……もう、やめて、」

 我慢していた想いが漏れた。だけど私が発した小さな声は、彼の元には届かない。

 視線が、すれ違う。先輩は私を見ていなかった。ちょうど作業を終えたのか、立ち上がったばかりの水月先生と目線を合わせて頷く。そうして、また財部くんの方へ向き直った。

「一つ。たった一つだけ、先輩として君に教えてやるよ。優等生としてでも、秀才としてでもなく、ほんの少しだけ君より長く生きたことで僕が学べた大切なことだ」

 先輩の向こうで、財部くんがバットを支えに立ち上がる。ガラガラと引きずるように滑らせて、そのまま肩に乗せて構えた。

「最後なんで聞いておきます。なんですか?」

「財部。恋をするでもなく、愛するわけでもなく、君に逆巻のことが輝いて見えたのなら、それは決して呪いなんかじゃない。その感情は憧れだよ。疲れ切った今の僕を動かす原動力と全く同じものだ。君はもっと感情に、真っ直ぐ向き合ってもよかったんだ。そうしたら――」

 僕らはいい友人になれたかもしれない、と先輩は言った。

 財部くんが吠える。

 

 それからのことは、まるで全部スローモーションみたいに私の目には映った。 


 バットを振りかぶりながら、全力で財部くんが向かってくる。

 先輩もそれに呼応するように駆け出した。

「朔根さんから目を離さないでください」

 水月先生がそう言って、自身の右手の小指を奥歯で咥える。

 何をしているんだろう。そんなふうに考えるだけの時間があったことが不思議だった。

 財部くんと、先輩が交錯する。

 先端が鋭く変形したバットが風を纏ってゴウと鳴った。

 でもそれだけだ。文字通りに空を切って、先輩には掠めもしなかった。

 避けたんじゃない。逃げたから。

 先輩は途中で姿勢を反転させて、財部くんから離れていた。

 その先は、その先は……、

「先輩っ!」

 思わず叫んだ私のことなど、誰も見ていなかった。もちろん、朔根先輩も。


 ガッシャァァァァァン、と世界を割る音が旧校舎中に鳴り響いた。


 実際に割れたのは、世界じゃない。たった二枚の窓ガラス。

 突き破った先輩が、窓の向こうに消えていく。

「そんな、」

 ここは三階だ。落ちたら助からない。

 どうしたらいいのかなんてわからなかった。でも駆け出さずにはいられなかった私を、水月先生が左手で制した。

 言葉を交わさなかったのは、小指を咥えていたから。

「やめ――」

 先生は私の目の前で、自分の指を噛みちぎった。

 肉と骨の絶たれる嫌な音が響く。血を吹き出す右手に構わず、千切れた指先をペッと吐き出して、ソレを魔法陣の真ん中に雑に置いた。

 犠牲と、儀式。

 鈍感な私の頭はようやく気がついた。

 つまりこれは、呪いのための準備だったんだ。

「万能ではありませんから、複雑なことはできません。目的もシンプルである必要があります。それに不幸な私では新たな式を構成して呪いを発動した場合、どんな誤算が起きるのか読めないことも問題でした。対応可能なものである必要があります。ですから、これは単なる――」

 バリバリと魔法陣が光を帯びる。


「入れ替わりの呪いです」


 カッと廊下が光に包まれて、私は一瞬目が眩む。でも、それは本当に一瞬のことだった。

 すぐに視界は元に戻る。

 月明かりに照らされた薄暗い廊下、その先に人が倒れている。

 見えた瞬間、私は駆け寄った。今度は誰も止めなかった。

「先輩、先輩!」

 仰向けに倒れた朔根先輩を抱き寄せる。返事はない。呼吸もしていない。

 そんな、そんなことって……、

 水月先生が近づいて、彼の頬に触れた。

「朔根さんが地上にぶつかる前に、財部さんとの入れ替わりは行われたはずです。彼は死んでいません。それなのに目が覚めないとすれば、」

 心当たりがあった。

「私と、同じですか?」

「おそらくそうなのでしょう。きっと彼は今、怪底に沈んでいる」

 水月先生の左手が、私の右の瞼にそっと触れた。

「救えるのは逆巻さん、あなただけです」

 右の視界がなくなる。あたりはそれだけで、完全に闇に切り変わった。


 私が体を失っている間も、自分と体を繋いでいた左目。

 その目に映る世界は、ただの闇じゃない。

 それは光の届かない真っ黒な油のような液体の中。

 どちらが上で、どちらが下で、どちらが前で後ろなのか見当もつかない。

 自分が止まっているのか、それとも流されているのかも、わからない。わからない。

 もがくことに、意味はなかった。

 そうして暴れるから、溺れているように錯覚するんだ。

 自分の中に少しだけ余裕があることに気がついた。

 前に来た時とは違う。

 放り出されて、突き落とされてここに来たんじゃない。

 私は沈みかけている先輩を、朔根先輩を助けに来たんだ。

 今の私なら、きっとこの暗い闇の底を泳げる。

「………………」

 声が、聞こえた気がした。仕事のない目を閉じて耳を澄ませる。意識を集中する。

「……ぁ……き」

 私は音のする方へ進んだ。

 すごく嫌な感触だった。止まっている時は液体の中にいる様なのに、動き出すとまるで無数の手に触れられているような感覚が付き纏う。全部が、私を掴もうとしている。引き摺り込もうとしているようだった。

 底へ、底へ。

 振り切る。ごめんね。私はここにはいられない。

 先輩のこともあげられない。

「………………」

 手の一つが、私を掴んだ。違う。きっと私が彼を掴んだんだ。

 その手だけが他と違ったから、たった一つだけ私から、逃げようとしていたから。

 そんなに臆病なのは彼に決まっている。

 私は引き上げて、抱きしめて、それからゆっくりと右目を開けた。


「……逆巻」

 私の膝の上で、先輩が名前を呼んだ。

「話したこと、あったかな。初めて君を見た時、人魚姫だと思ったんだ。水の中を自由に泳ぐ姿が想像できた。不思議なんだけど、今の君はあの日の印象に重なってる」

「目を覚ましたのは私だったけど、夢を見ていたのは先輩だったんじゃありませんか。ちゃんと足がついてます。鱗も背ビレもありません」

「そうだね。きっと、見間違えたんだ。君があまりに綺麗だったから」

「まだ、私のためなら死んでもいいって思ってますか?」

「思ってるよ。僕は君を失えない。だけど……」

「だけど?」

「こんな景色が続くなら、少し長生きしたくなってきた」

「それなら約束してください。毎日ちゃんと、栄養のバランスが取れたものを食べるって」

 力なく床に放り出された先輩の手を掴んで、指を絡めた。

「私が、作りますから」

 小さな返事が聞こえたような気がした。先輩の目は閉じていて、それきり開かない。

 顔を近づけると、微かに寝息が聞こえた。

 よかったと思った。

 これなら、泣き顔を見られないで済むから。

「私……怖かったんです。先輩が死んじゃうんじゃないかって、本当に怖かった」

「実際、彼を助けられるかどうかは賭けでした。救えなかった命も、私は知っています。幸運でしたね。逆巻さんも、朔根さんも」

 水月先生が泣きじゃくる私の背中をさすってくれている。

 その手は冷たくて、だけど優しくて、胸が暖かくなった。

「先生の指も、……ごめんなさい」

「気にかける必要はありません。指はまだもう少しありますから。それに仕事が増えて、技師には喜ばれるでしょうね」

 先生が立ち上がる。

「落ち着いたら帰りましょう。後片付けは……、癪に触りますが彼女に任せることにします。私ではなく生徒である皆さんのためなら、きっと動いてくれるはずです」

「彼女?」

 先生の言葉に、思い当たる人がいなかった。


「えぇ、あちらもそろそろ終わっている頃でしょうから」

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