―― 2 ――

「はぁ、はぁ、……びくともしない、な」

 硬く閉ざされた校門は二人掛かりで引いても頑なに開く様子がなかった。

 錠の類は見当たらないのに、微動だにしない。異様に重いという噂は聞いたことがあったけれど、これでは普段の開閉にだって支障をきたすように思えた。

 それとも僕らが消耗しすぎているのか。

 隣の逆巻さかまきは先ほどから門にすがるように体重を預けて立っているし、僕自身も息が上がっている。彼女を見つけるまでに駆け回った分の体力も未だ戻ってきてはいない。

 校門を中心にそそり立つ壁は、まるで囚人を内に閉じ込める塀のように機能していて、それは残酷にも学園の外への逃げ道がないことを意味していた。

 とにかく呼吸を整えて、どうするべきかを考える。視界の開けたこの場所で立ち止まっていては、いずれ財部に追いつかれるのは間違いない。

 夜の空気で肺を膨らませると、熱を持った体が芯から冷えていくのを感じた。

 学園の敷地内は夜中になってもまばらに設置された数本の街頭が辺りを照らしていて、完全な暗闇ではない。それに加えて今日は月明かりも強かった。

 隠れなければならない僕らにとっては、今だけは光が不利に働いている。

 もしこの状況で財部たからべ左門さもんに追い付かれたら――彼の膂力りょりょくは並じゃない。それに以前は使わなかった得物も、今度は容赦無く振るってくるはずだ。こんなに何もない場所で遭遇したら、僕が盾になっても逆巻を守れるとは思えなかった。

 焦りが思考を空転させる。よくないことばかりを考えるな、朔根さくねかい

「先輩、」

 逆巻が僕の制服の裾を引く。弱々しい声が彼女の消耗した体力を如実に物語っていた。

「行ってください。朔根先輩だけならこれくらいの壁、よじ登ることもできますよね」

「そんな選択肢はないよ。僕は君のそばを離れるつもりはない。とにかくゆっくりでいいから歩き出そう。もう少し、見晴らしがよくない場所へ」

 彼女の手を取って、来た道とは別のルートで校舎を目指した。

 幸い、僕らを追う足音はまだ聞こえてはこない。張り詰めた静寂を乱しているのは逆巻の苦しそうな息遣いと、乱暴に鳴り続ける自分の鼓動だけ。

 どれほどの猶予があるかはわからないけれど、今晩、財部左門から逃れることさえできれば僕らの勝ちだ。明日は金曜日、学園が動き出せばいくらでも人に助けを求められる。けれど、それは途方もなく長い時間の先だった。

 僕らは最後まで逃げ切れるだろうか。最悪の場合は、彼女だけでも――。

「逆巻、歩けなくなる前に言ってくれ。君の消耗のしかたは尋常じゃない。この数日間のせいで普段の調子じゃないはずだから、無理もできないと思って欲しい。必要なら僕が背負うこともできるし――」

「かっこつけないでください。先輩だってバテバテじゃないですか。それ、ちゃんとご飯を食べてないからですよ。私ほんとは今も怒ってます」

 ぐうの音も出ない程痛い正論だった。

「反省するよ。間違いなく君のいう通りだ。それでも今は僕を頼って欲しい。逆巻を守るためなら、僕はなんでもするから」

「そんな言葉で女の子が喜ぶと思ってるなら、先輩それは大間違いです。だって、まるで自分は殺されてもいいって、そう言ってるみたいじゃないですか」

「……僕はそのつもりだよ。必要になればね」

「朔根先輩の、ばか!」

 珍しく、逆巻からシンプルな罵倒の言葉が漏れた。

「一緒に生きていこうって言ってくれたら、私はちゃんと喜べるのに」

 僕は振り返らなかった。ただ少しだけ、繋いだ手のひらに想いを込めた。

 彼女の期待に応えることはできない。

 もしそんな言葉を伝えてしまって、いざと言う時に覚悟が鈍ってしまうことが、今は何より怖かった。僕にできることは、ただ無言で足を動かすことだけだ。

「先輩、リクエストしてください。無事に家に帰れたら、ちゃんとしたものを無理矢理食べさせますから」

「あんまり話していると、体力が持たないぞ」

「いいじゃないですか、これくらい。それに返事をくれたら私きっともう少し早く歩けます」

 彼女もきっと、希望が欲しいのだと思った。こうして歩いた先に未来が続いていること、その可能性を感じていたいのだと。

 考える。でも、もしかしたらあんまり悩むことはなかったのかも知れなかった。

「……ハンバーグ、かな」

「前から思ってましたけど、朔根先輩って舌がちょっと子供っぽいですよね」

「僕だって気にしてるよ」

「気にすることはないですけど、もしかしたら味覚を失っていた時間が長くてあんまり複雑な味を知らないだけなのかも」

 うーん、と逆巻は少し唸って、それから楽しそうに声をあげた。

「デミグラスにします。フォンドボーから作ったら何日もかかっちゃうけど、絶対に先輩を大人にしてあげられますよ」

 その表現、料理をする人間としては一般的なのだろうか。あまり深く考えないことにした。

 全ては、今を乗り越えた先の話だから。

「あ。先輩、あそこ……」

 振り向いた先で、逆巻は細い指を木造の建物に向けていた。

 開帝学園高等部の旧校舎。

 そのボロボロの建物の噂は僕の耳にも届いている。いい話は、一つだって知らないけれど。

「あそこなら、私ちょっとだけ案内できます」

 そういう逆巻の手に引かれて、僕らの体は旧校舎へ向きを変えた。

 学園に三年通っている僕でさえ、一度も立ち入ったことのない場所。財部が内部を知っている確率は低い。そうなれば、確かに他の選択肢よりは勝算があるように思えた。


 それなのに、

 それなのに、

 この胸を渦巻く大きな不安はなんだろう。

 漠然と込み上げるこの焦燥感はなんなのだろう。

 わからないまま、今も追いかけてくる足音がないことに微かな安堵を覚えて、煌々と輝く月明かりを背後に僕らは作りの古い生徒玄関に足を踏み入れた。




 ******




「電気は、通ってないみたいだな……」

 錆びた鉄製のスイッチが、カチカチと軽い音を返す。

 初めて踏み込む旧校舎の内装は外見から想像される通りにボロボロで、各所に傷みと汚れがちらついていた。まるで逆巻を見つけたあの女子トイレのようだ。暗いせいで細部がよく見えないのは、もしかしたら幸いなことなのかも知れなかった。

 砂や埃が付着して曇った窓から僅かばかりの月明かりが廊下へ向けて差し込んでいる。視界を照らすものはそれが全てで、僕らは手で壁を伝うようにしてなんとか奥へと進んだ。

 見通しが悪いことは不便ではあるけれど、今だけは都合がいい。これだけ暗ければ闇に紛れてやり過ごすこともできるだろう。

 木造の床は歩くたび、悲鳴を上げるようにきぃと啼く。これにしてもうまく使えば有利に働くはずだ。近づく相手を早い段階で察することができる。

 見つかることさえなければ、うまくいく。そう思えた。

 しかし逃げるとなれば、これらの環境が牙を向く可能性もある。

 一つの行動も間違えることはできない。自分に何度も何度もそう言い聞かせた。

 たった一つの失敗が、逆巻を失うことに繋がるのだから。

 僕らは警戒をしながら、教室の一つに体を潜ませた。

 こちらから廊下の様子がわかるように、扉の近くに陣取って屈む。


 しん、


 耳鳴りがするほどの静寂が、辺りを包んでいる。

 乱れていた呼吸は、徐々に整い始めていた。いい兆候だ。

 この調子でもう少し体を休められれば、もしもの時に財部と体をぶつけ合うことくらいはできるだろう。疲労さえ回復してしまえば、身体中に走る痛みは我慢できる範疇だ。


 しん、


 月とは向かいにあたるこの部屋の中には一切の光が入らない。

 数センチ先さえ見通せない真っ暗闇の中で、僕らは繋いだ手の温もりを頼りに互いの存在を確かめ合う。

 ――一緒に生きていこうって言ってくれたら、私はちゃんと喜べるのに。

 頭の中では、逆巻の言葉の意味を理解していた。

 だけどその一方で、逆巻の別の言葉が邪魔をする。

 ――朔根先輩、傷付かずになんでもできる人じゃないから。

 真理だった。犠牲なしに彼女を守れるほど、僕は強くない。

 朔根櫂は、御堂みどうなぎではない。秀才は、天才ではない。

 悔しいけれど、それがきっと逆巻を傷つける事になる。


 しん、

 

 ここに隠れて、どれほどの時間が経っただろうか。

 夜、はあまりに変化が乏しくて、息が詰まる。

 僕は無意識にあの夢の中の迷路を思い出していた。

 今と同じような真っ暗な景色、潮の匂い、それから波の音。

 ふと、気がついた。


   、


 耳鳴りが消えている。

 気にしていなければ、気にならないようなことだったのかもしれない。

 けれどそれは確かに変化だった。

 何を意味するのか、考える。考える。……考える。

 だけど、答えの方からそれはやってきた。


 きぃ、


 と微かに遠くの床が啼いている。

 小さな小さな足音だ。

 靴が床を蹴って立てる衝突音ではなく、踏みしめた板が軋む音。

 目の前の廊下じゃない。少し離れたどこかを、ゆっくりと歩いているのがわかる。

 耳を澄ましていなければ、すぐに見失ってしまいそうなほど儚い気配。

 だけどこちらへ、近づいてくる。

 

 きぃ、


 目の前の逆巻の気配が扉の方へ向かうのを、僕は肩を軽く抑えて制した。

 事態を把握しようと身を乗り出したのだろうけれど、危険を冒すのは僕でいい。

 静かに扉から顔を半分だけ出して、右目で周りを確認する。

 少し視界を左に傾けて、廊下の全体を見渡した。


 きぃ、きぃ、


 見える範囲には、人の影はない。

 けれど、足音の方向は教室の中にいるときよりもずっとはっきり認識できた。

 僕の見ている廊下の先、

 その突き当たりの丁字路の左から直角に繋がるこちらの通路へ、

 気配はゆっくり向かってきている。


 きぃ、きっ、


 唐突に、足音が止まった。

 理由は想像することしかできないけれど――何かを、探しているのかもしれないと思った。

 例えば、僕らを。つまり、逆巻を。

 財部左門、そう考えるのが妥当だ。

 もしかしたら旧校舎へ逃げ込む姿をどこかから見られていたのだろうか。

 遭遇しないことが一番良かった。

 けれど出会ってしまうなら、一方的に相手の居場所を把握できているこの状況はそれほど悪くないと言えるはずだ。

 彼がこの教室を覗こうとした瞬間を狙って不意を打つ。

 その隙に逆巻が走れば、財部から引き離せる。

 僕に本物の覚悟があるのなら、難しいことじゃない。

 じっと、廊下の先を見据えた。幸いなことに突き当たりには窓があるらしく辺りを月が照らしている。ここからでも十分に歩く人影を判別できそうだった。

 もし、僕の想像が全て出鱈目で、通る人物が財部でなかったら、その時は助けを求めよう。

 その方がいい。全て、杞憂であって欲しかった。


 きぃ、タッ、タッ、


 足音が再開する。

 テンポがさっきよりも早い。走って、いるのか?


 タッ、タッ、タタッ、タッ、


 不揃いなステップが甲高い音を立てて、ここまで届く。

 明らかに状況が変わっているように聞こえた。

 まるで、

 まるで何かから逃げているように歪で余裕のない走り方。

 息を呑む。

 足音は僕が見つめている丁字路に迫っている。

 見定める必要があった。

 そこを通る人物が誰なのか。何者なのか。


 タッ、タタッ、タ、タッ、タタッ、


「――――!」

 呼吸が止まった。

 声が出なかった。

 思考がうまくまとまらない。

 目に留めた景色をうまく脳が処理できなかった。

 そんなはずがないから。だって、そんなはずがないから。

 足音の主は僕らのいる廊下の方へは曲がらず、そのまま丁字路を駆け抜けていった。

 その、つい一瞬前の記憶を辿る。

 スカートが、ふわりと揺れていた。それから、肩口くらいまでの短い髪もだ。光の粒が彼女を追うように左から右へ流れていくのが見えた。

 あれは――逆巻だった。逆巻紗香那だ。

 そんなはずがないのに。その可能性だけはないのに。

 だけど、彼女のことを僕が見間違えるはずもない。

 あれは、あれは確かに逆巻だった。

 それなら、

 それなら……、


 


 背後でじっとしていた気配が、のそっと蠢く。

「う、うわぁあああああああ!」

 僕は考えるべき事柄を全て投げだして、廊下に這い出した。

 それは光のあたる場所に姿を晒す危険な行為だ。床も激しく鳴る。だけどそんなことより、一瞬でも早くそのナニかがいる暗闇から抜け出したかった。

 すぐに向いの壁に当たる。これ以上は下がれない。

 立ち上がることができないまま、壁に縋って僕は振り返った。

 一目で、それが異様なことだとわかる。

 僕の左手に絡みついたままの細い指。細い手首。続く腕。

 それはもう肘とは呼べない数個の異形の関節を経由して、床を這うように暗い教室の中まで伸びている。

 その長さは、人として間違っている。

 生命を侮辱している。

 吐き気を催すほどの、おぞましい光景だった。

 血が通っているとは思えないほど白く、白く、白い腕。

 それなのに、浮き出た青い血管は微かに脈を打っている。触れている僕にも拍が伝わる。

 振り払おうと懸命に腕を振った。だけど、簡単に折れてしまいそうにも見える小枝のようなその指がちっとも剥がれない。それに、ついさっき見た時より随分長くなっている。

「な、なんで、」

 引き剥がそうとして触れた右手も、すぐに巻き込まれて固定された。

 自由を失った僕はもがくように全身で抵抗する。

「あ、ぐ、……はぁ、」

 暴れればなんとかなるとは思えなかった。これはただの生理的な反応だ。

 触れるものに対する嫌悪感に呑み込まれていく。

 理解のできない現象に覚えた恐怖が僕を支配していく。

 嫌だ。

 気持ち悪い。

 怖い。

 恐い。


「拒絶するんだ。彼女のこと」


 耳元で、別のナニかが囁いた。

 僕はそちらを振り向かなかった。

 目の前の変化から、視線を逸らせなかったからだ。

 床を這っていた白い腕が、教室の中に消えているその先が、徐々に持ち上がっていく。

 起きていることの何もかもが理解できていない頭が、なぜかそれだけはすぐにわかった。

 ナニかが暗闇の中で、立ち上がったのだ。そして、きっと、近づいてくる。

 逃げなくちゃいけなかった。

 尻餅をついたまま床を足で蹴って離れようとするけれど、掴まれた両手が突っ張ってうまくはいかない。無理矢理に引っ張れば長い腕の先にいる何かを引き寄せてしまいかねなかった。

 全身の毛穴から、冷や汗が吹き出す。


「あんまり嫌そうにしたらかわいそうだよ」

「だけどどうだろうね」

「鈍感に」

「まるで察していないように」

「何事もなく接していたこれまでの方が」

「ずっとずっと残酷だったのかもしれないけど」


 廊下と教室の境界。

 その真っ暗な闇の向こうから、

 ぬらり、とそれは現れた。

 初めに見えたのは、何かに濡れて黒ずんだスカート。硬い靴音を立てるローファー。

 僕を掴んだままの異形の腕は、そこだけ白いままの夏服の袖に繋がっている。

 純白だったはずのワイシャツはまるで初めからそうだったかのように真っ赤な血液で染め上げられていた。ソレ、がたった今起こったことであるかのように雫が床に滴っている。

 人のような形を持った容姿は不自然に、襟元で結ばれたスカーフの少し上で途切れていた。

 彼女には首がない。首のない肢体。首のない、死体。

 まさか、

「まさか、小袖こそでさん、……なのか?」

 死体は答えない。口がないから。

 代わりにこちらへ向けられた真っ平らな首の切断面が蠢いて、収縮した血管から赤黒い液体が散った。必要な器官が欠損していることを、本人だけが知らないかのような反応だった。

 一歩ずつ、長い腕や足りない首のせいで崩れたバランスを取りながら、こちらに歩いてくる。

 それはひどく不恰好で、不気味で、冒涜的な動き。

 醜く、悍ましい、努力の形。

 見ていられない。けど、目を離すこともできない。

 逃げることも、叶わなかった。

 僕らは今、固く結ばれている。


「彼女はあなたを想ってた」

「それに気がつかなかったはずはないのに」

「どうして知らないフリをしたのかな」


 耳元の声が僕を責める。

「やめろ! 小袖さんを貶めるな。彼女は記者として、記事になる開帝の優等生に近づいていただけだ。僕らはそんな関係じゃない!」

 突然、強烈な閃光に包まれて視界が白に染まる。

 小袖さんが愛用していた一眼レフのフラッシュに、それはよく似ているような気がした。

 何も見えない。ただ、こちらに近づく歪な彼女の気配だけが残っている。


「あなたは」

「彼女がファンクラブの一員だって」

「知っていたんでしょ」


「それは……、情報源として活用していると言っていた」


「開帝の優等生なら」

「御堂薙の方が適してた」

「どうして」

「あなたに付き纏う必要があったのかな」


「御堂は取り巻く話が大きすぎて、開帝通信にはそぐわないって――」


「あら」

「そんな戯言を信じたの」

「秀才って都合がいいのね」


 奪われていた視界が回復する。

 目の前に、鮮血に染まった彼女のスカーフが迫っていた。

 異形の右腕と、人の形を残した左腕が、背中に回って僕を強く抱きしめる。

 どうして……、だろうか。

 抵抗する気が起きなかった。

 彼女の胸に包まれて、僕はきっと涙を流している。

「ごめん」

 そう言った。

「小袖さん、ごめん。君がこうなる前に、助けてあげられなくて。ごめん。今日まで君を、見つけてあげられなくて。ごめん。君を外に、連れ出してあげることができなくて。ごめん」

 あんなに助けを求めてくれていたのに。

 僕は何度も、君に救われていたのに。

 謝って、許されることなんか一つもない。

 それでも、それでも僕は何度も謝った。

 

 だって僕は、朔根櫂は今この瞬間も君を裏切らなくちゃいけないから。


「ごめん、小袖さん。ここで足止めされるわけにはいかないんだ。逆巻の元に行かなくちゃいけない。そうでないと、彼女を守れないから」

 だから、

「君の元には残れない。ごめん。抱き返すことができなくて、……ごめん」

 体を軽く捩って、僕は自分に巻き付く腕を振り払った。

 それは不自然なほどにあっさりと剥がれて床に落ちる。

 彼女の体はゆっくりと僕の元を離れて立ち上がり、首のない頭で僕を見下ろすように止まった。魂が抜けたみたいに。それはきっと正しい表現ではないのだろうけれど。

 彼女に対して、怖いという感情はもうどこにもない。

 ただ、言葉を繰り返した。

「ごめん、小袖さん。ごめん」


「そう」

「それが答えなんだ」


 ぬ、と教室の向こうの闇の中から、別のナニかが現れた。

 ソレは、見知らぬ少女の姿をしていた。

 闇に溶けるような漆黒の髪、幼なげな顔立ちにキリッと端の吊り上がった目が印象的で、赤い唇が異様に映えている。開帝の制服を着ているけど、学年まではわからなかった。

 少女の唇が滑らかに動いて言葉を発する。少しだけ遅れて、僕に届いた。


「それじゃあ、ちゃんと死んでもらわなきゃね」


 わかることは、僕にこれまで以上の危険が迫っているということ。

 直感が逃げろと告げている。本能はもう、叫びをあげている。

 立ち上がろうと膝にグッと力を入れて、床に手をついたところで僕は気がついた。

 そこに力なく伸びていたはずの、死体の腕が――ない。

「ぐぅ、が、は」

 突然の暴力が僕の首に絡みつき、ものすごい力で体を持ち上げた。背後の壁に押し付けられる。真っ白な細い手に締め上げられた喉が、空気を求めてひゅうと哭いた。

「なん、っで……」

 どうにか口にした言葉に、首の無い死体は答えない。こちらを向いた断面も、今度はピクリとも反応しなかった。ただ、そこから伸びる腕だけが僕の首に込める力を徐々に強めていく。

 ケラケラと、闇のそばで少女が笑った。

「私、人が死ぬ姿ってあんまり好きじゃない。それってすごく刺激的ではあるけれど、ちょっと強すぎるのかもしれないね。度数の高いお酒、例えばマティーニやギムレットみたいに、楽しむためには慣れがいる。かっこいいとは思うけど、美味しいかって言われると、まだわからないって答えるしかないなぁ」

「ぐ、うぅ、」

「あ、未成年で優等生の君にカクテルで例えたのは間違いだったかも。わかりにくかったら、ごめんね。でも言いたいことは伝わるでしょ? 死ぬのなら、そこに混ぜ物があればあるだけいいの。例えば怒りや、ドラマや、依存や、狂おしいほどの愛情。あとは、そう裏切り……とかね。素敵」

 締まる首と巻きつく腕の間に、なんとか指をねじ込んだ。首には人体における急所がいくつも集まっている。なんとか気道を確保しても、頸動脈を締められてしまえば意識を保ってはいられない。そうなればきっともう二度と、目覚めることはできないだろう。

 力を振り絞ってもがいた。けれど、それも難しくなっていく。

 持ち上がっていく体が、なんとか踏ん張っていた両足が、床から離れた。

「左門くんがもたらす死の形はね、だからちっとも好みじゃないの。順調に伸びていた枝をポキって折って、それでおしまいなんてとっても味気ない。彼の執着は見込みがあったのに、可哀想だよね。彼だけじゃないけど。この学園で暮らす人たちは、みんな少しずつ可哀想」

 少女は視線を、僕から外した。

 月を眺めるように曇った窓ガラスを覗いて、感傷的な表情を青白い光に晒している。

 どこか、その横顔は逆巻さかまき紗香那さかなに重なった。

 そう見えたのは、走馬灯のような儚い幻想だったのかもしれない。首を締め付ける痛みも、呼吸ができない苦しみも、どこか遠くなっていた。視界も思考も同時に白で塗りつぶされていく。閉じた瞼の裏側が、どうしようもなく眩しかった。

 すぐそばに、死の温もりを感じる。朔根櫂が終わっていく。それが、こんなに穏やかだとは思っても見なかったことだけど。

 体のあらゆる機能が順に停止していく中で、耳だけが、場違いな音を捉えていた。


 カッ、カッ、カッ、カ、カ、カ、カ、


 誰かがここに駆けつけてくるような、そんな足音に聞こえた。

 瞬間、ふっと僕の首から青白い腕の気配が消える。

「ごほ、ぐ、はぁ、はぁ、はぁ、」

 突然重力の支配下に戻った僕はうつ伏せに床に叩きつけられた。肺が酸素を求めて過剰に吸い込んだ空気を吐き出すと、今度は口の中に血の味が広がる。

 まるで生きているみたいに身体中が痛かった。

「あーあ、間に合っちゃった。これはちょっと、困ったことになったなぁ」

 少女は姿勢を変えないまま、首だけを捻ってこちらに振り向いた。

 彼女が見つめる先は僕じゃない。

 僕の前に立つ、ロングスカートの女性。カーディガンで半分隠れた手元には燭台を持っていて、蝋燭の先端では場違いに赤い灯火が風もないのに揺れている。顔は伺えない。微かにこちらに傾けた姿勢のせいで、眼鏡のフレームがきらりと光を返していることがわかる。

 視界の端で死体の白く長い腕が教室の中にずるずると引き戻されていくのが見えた。逃げるように――いや、まさしく動物が天敵に怯えて逃亡する時の俊敏な挙動で、闇に消えてゆく。

 この空間の全てが女性を警戒して強ばり、張り詰めていた。そのプレッシャーだけで息が詰まりそうだ。

 少女がおもむろに後ろ手を組んで、通路の真ん中に立った。

「初めまして、だね。ちっとも会いたくはなかったけれど」

 彼女の言葉に、凛とした声音で女性が返す。

「私は長らくあなたを探していましたよ。お初にお目に掛けます。開帝学園高等部381番目の生徒、果凪はてな陽蜜ひみつさん」

「ふーん、私のことをそう呼ぶんだ。それなら、あなたは一体誰ってことになるのかな?」

「学園では、水月みずきと呼ばれています。よく間違えられるのですが苗字です」

「……ひどい冗談。そ、やっぱりあなたも狂ってるんだ」

「相対的には、そうなのかも知れませんね。確認のしようはありませんが」

 女性は答えて、ケラケラと笑う少女に背を向けた。代わりにまだ立ち上がれずにいる僕の横にかがみ込む。ふわりと、古い本の香りが辺りに漂った。

「朔根櫂さんですね。これをしっかりと握っていてください」

 渡された燭台を抱えるように受け取る。

 僕は息を呑んだ。柔らかな光が照らした水月というその女性の顔は、不思議と今初めて見た気がしなかったから。

「僕を、知っているんですか?」

「逆巻さんから聞き及んでいます。彼女が話したつもりのないこともです。こうして出会うことはないと思っていましたが、残念でしたね」

 それはきっと私がいつも不幸だから、と彼女は無表情で語った。

 残念という言葉が、不幸という言葉が、何を意味するのか僕にはわからない。

 ただきっと僕はこの人に救われたのだと、悟った。

「水月……先生、ですよね。ありがとうございます。でも、一体どうやって?」

 彼女の繊細そうに見える手足に、僕がどんなにもがいても振り解けなかったあの死体の腕を撃退するほどの力があるようには思えなかった。見たところ武器になるようなものも持っていない。それなら僕はどうやって、助けられたのだろうか。


「その女は呪われているんだよ」


 僕の疑問に、遠くの少女が答えた。

「つま先から頭の天辺まで、遠い過去から終わりの未来まで、思い出から……約束まで、すべてが呪われ切ってるの。呪いは常に現象だから、途切れることを待っているのにね。反則だよ。そんなことで、その程度のことで、怪底があなたに触れられないなんて。あらゆることの例外で、異端で、間違いだらけ」

「特別だったのは私ではなく『彼』でしょう。私はその想いに包まれているだけですから」

「イライラするなぁ。その言葉」

 少女はもう、遠くはなかった。いつの間にか、すぐ、そこにいる。

 水月先生の目の前に立って、彼女の顔に手を伸ばした。指先が色の薄い頬に触れた瞬間、チリチリと指の端が燃えて、炭化した先端が音もなく崩れる。まるで火のついたタバコみたいに、灰が床に薄く積もった。

 ケラケラと、少女が笑う。

「大っ嫌い。死んじゃえ」

「いずれはそうなるのでしょうが、まだもう少しやらなければいけないことがあるのです」

 水月先生の腕が、薙ぐように動いた。それはカーディガンを羽織り直す仕草から連続した流れるような挙動だった。そこにいる黒髪の少女が、本当は存在しないかのように抵抗もなく払われる。

 全てが一瞬で灰に変わっていた。燃焼という過程を飛ばして結果が小さな山を作る。

 それもすぐにどこかへ散ってしまった。風は、ないのに。


「失敗しちゃったなぁ」

「失敗しちゃいけなかったのに」

「ちゃんと死んでもらうはずだったのに」

「失敗しちゃったなぁ」

「でもどうだろう」

「さてどうだろう」

「あなたとあなたはここにいる」

「それなら」

「誰が天使を守れるの?」


 強い焦りが、僕の心臓を掻きむしった。

「そう……、だ。逆巻!」

 立ち上がって、逆巻紗香那が消えていった廊下の先を目指そうと走り出しかけた僕の手を、冷たい感触が掴んだ。人の温もりを感じない、それなのに酷く優しい手。振り解くことができない。

「行かせてください。僕は、逆巻を助けないと」

 振り向くと水月先生は眼鏡の奥の鋭い目で、僕を見つめていた。

「朔根さんが行けば、それが出来るのですか?」

「やります。出来るかどうかは問題じゃない」

「少し、頭に血が上っているようですね。問題は正しく設定する必要があります。あなたはその能力があるから秀才と呼ばれているのではありませんでしたか?」

「でもここにいては、何が出来るかの判断もできない。彼女のそばにいてやらないと」

「人は経験から学ぶことができる。優等生のあなたなら尚更でしょう。あなたが走って逆巻さんを追った先で、今と同じことが起こらない確率は一体どれほどになるでしょうか?」

「それは――」

 僕は少し口籠った。彼女の反論は正しい。今ここで、手も足も出なかった僕が彼女のそばで何ができるというのか

「でも、そうだ。水月先生、あなたが一緒に来てくれれば!」

「物事はそう単純ではありません」

 ゆら、と手に持った燭台の炎が微かに揺れた。

「私が朔根さんの元へ来たのは、ここでの脅威があらかた絞れていたからです。つまりあなたは邪魔者ではあるけれど、目標ではない。だから非力な私でもどうにかなりました。私は呪いには負けませんから」

「呪いに、負けない。それを今見ました。それなら……」

「でも、彼女を追っているのは凶器を持った殺人鬼でしょう?」

 ……その、通りだった。

 僕らが引き離されたのは、逆巻を狙う財部左門にとって朔根櫂が邪魔だったからだ。

 財部は逆巻を追っている。小袖さんの首を断ち切った獲物を持ってだ。呪いではない暴力。

 例えば役割を分担できたとする。こんな時に初対面の人間を頼る前提でものを考えるのは避けたかったけれど、水月先生を抜きにはできることは何もない。

 まず、彼女にどうにか呪いを抑えてもらう。

 そうすれば、僕が財部と同じ条件で立ち向かうことができる。

 見通しが甘すぎて吐き気がした。こんなボロボロの体で、起き上がるのがやっとの体力で、財部の前に立つのでは何の価値もない。僕は紙屑のように殺されて、それから先生が殺されて、逆巻の首が刎ねられる。その光景が見えるようだった。

「事態が不利なことは、わかっています。でも、それでも僕は逆巻をこのまま見殺しにはできない。彼女を、守らないと」

 自分の言葉に、どうしようもなく力がないことは分かっていた。

「その通りです。しかし、物事には順番があるのです。だからこうして、必要な犠牲を集めているのですから」

「必要な……、犠牲?」

 彼女の眼鏡がきらりと光ったような気がした。


「朔根さん。あなたは逆巻紗香那さんのために、命を落とす勇気がありますか?」


 真っ直ぐに、僕の目を見てそう言った。

 だからすぐにわかった。

 言葉で僕を試しているのではなく、ただただそれが必要なことなのだと。

 正直に答えた。

「僕に、勇気はありません。本当のところ、今も怖くて震えている。わからないことだらけで怯えているし、あまりに無力で惨めさすら感じています。自分に対する自信もない。僕は周りが言うようなすごいやつではないんです。僕自身が、僕を諦めてしまうくらいに」

 だけど、

「だけど、そんな僕を救ってくれたのが逆巻だった。僕は彼女のためならなんでもする。それは勇気でなくとも、確かな覚悟です。必要なら命は惜しくない」

「あなたの想いはきっと他の誰が見ても、美しくはないのでしょうね。逆巻さんには恨まれるかもしれません。けれど仕方のないことなのでしょう。想われる人間というのは、いつだって少しだけ不幸なものなのですから」

 水月先生は視線を僕から離して、廊下の壁に近づいた。

「これからあなたに段取りを説明します。理解するだけならそれほど難しいことではありません。でもその前に、彼女とコンタクトをとっておきましょう」

「コンタクト?」

 カーディガンに半分隠れた指先が壁に備え付けられた受話器を持ち上げた。内線だろうか?

 突如けたたましい金属音が、校舎の中を駆け巡る。

 耳障りな音が頭の中で飽和しそうに響く中、なぜだか水月先生の声ははっきりと僕の耳に届いた。

「えぇ、まだ無事だといいのですが」

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