第五章
―― 1 ――
「あーあ、急がないと行っちゃうよ? 二人とも。追わないの?」
俺は振り下ろしたバットをゆっくりと持ち上げた。
ずるり、とついてきたいくつかの塊が床に落ちて水っぽく汚らしい音を立てる。吐瀉物にも似た嫌な匂いが漂って、ただでさえ落ち着かない俺の心を不快にさせた。
横からケラケラと笑い声が聞こえる。その声も、同じように不快だった。
「追いかける。だけど、ただ走ってもあの男が邪魔をするだろ。
「へぇ、冷静だねぇ。
「手も足も出さなかったんだろ。あの時は完全に不意打ちだったし、あいつに俺を攻撃する意思はなかった。
「守るものがあれば違う?」
「なんでもやるタイプだ」
「ふーん、同じ匂いを感じてるんだね。いいなぁ、それってなんだか青春っぽい」
楽しそうに彼女は俺の周りを跳ねて、廊下の端に体を寄せた。細い指先が金属製の鍵にかけられて、ガラスの窓が開くと冷んやりとした夜の空気が吹き込んでくる。
今晩は、月明かりがやけに眩しい。
「怖い顔してるよ。財部くん。ほらリラックス。もうすぐ君の望みが叶う、そうでしょ? なら、もっと楽しまなくちゃ」
余計なお世話だ。
「わ、余計なお世話って顔になった。君はわかりやすいなぁ。いいけどね。まぁこれでも食べて元気だしなよ」
彼女の腕が下手に振れて何かを放り、俺は視線を向けることなく片手でそれを受け取った。パスっと軽い感触が手の中に収まる。
「なんだよこれ」
「あんまり何度も言わせることじゃないと思うけどなぁ。モ・ナ・カ・ア・イ・ス、偉大で美味しいカミサマ」
「じゃなくて」
「あぁ、
含みを持った言葉の全てを無視して、袋を開けた。それから丁寧に二つに割って、片割れを投げ返す。緩やかな弧を描いて、それは彼女の手のひらに着地した。
ケラケラと。ケラケラと。
「面白いよね。モナカアイスって積み上げたレンガみたいに、二かける六のブロックが長方形を形作ってる。ここには君と私がいて、二人で分けるのなら真ん中で割ったらいいのに、そのためにきっとどこをとっても偶数なのに、財部くんはとっても上品に八割五分を投げ返す。もともとあったどの線とも重ならない、君だけの箇所で切り離されたカケラが手元に残ってる」
彼女は自分のアイスを月に
「これが君の在り方なんだよね。とっても
「知らねぇよ。俺はただ、釣り合うように分けてるだけだ」
彼女がアイスを頬張って、俺もそれに倣った。手元のアイスは半分になる。
その温度は、俺の心のどこかでほんの少しだけ残っていた熱を静かに奪っていった。
冷静に、冷静に、すべきことを考えろ。正確に、確実に、やるべきことをなせ。
「二人は、あそこに逃げ込むみたいだよ」
細い指先が窓の向こうの古びた建物を指していた。使われていない木造の旧校舎。ここから遥かに下の大地を、小さな影が走っていくのが見えた。
「あそこは……」
「そ、君の行くところじゃない。分が悪いね。やめて今日は帰る?」
「バカ言えよ。俺に明日なんかもうないだろ」
「何もできなければ、そうかもしれないね」
かわいそ、と彼女の口からちっとも思っていなさそうな言葉が漏れた。
俺は一つ大きく息を吐いて、向かうべき場所を見据える。
「まどろっこしい会話はもういい。教えろよ。確か犠牲がいるんだろ? 指とか、耳とか、そんな感じの。用意するから――」
「腕」
「あぁ?」
「財部くんの、その太くて立派な腕だよ。何度もホームランを叩き出して、最近は自分の頭にも当てたんだっけ? その腕。一本でいいよ。二本あるうちのたった一本」
「なんでだよ。指の一本と腕の一本じゃ全然違うだろ。そんなもん失ったら、」
「嫌なのかな? ふーん、でも彼ならどうするだろうね」
そんな言葉を彼女は吐いた。俺の頭には、朔根櫂の顔が浮かんだ。
「なんでもする覚悟があるのは、彼だけ?」
「…………」
腕、か。夏服の短い袖から伸びる自分の左腕を眺める。
無骨で筋張ったそれに、十六年間連れ添ったこと以外の大した愛着はなかった。……そう言い聞かせる。そう思い込む。
躊躇している時間はない。
余裕がないのは、あいつらじゃなくて俺の方なのだから。
右手に持っていたバットの持ち手を、彼女に向ける。
「いいんだ?」
「煽ったのはお前だろ。責任持ってやれよ」
「責任なんて知ったことじゃないけれど、そうだね。じゃあ、愛情を持ってやってあげる」
彼女の手にバットが渡った。
一キロ程度のアルミ合金の塊が、その小さな手で持ち上がる。
高く高く振りかぶられて、その刃は俺を鋭く睨みつけていた。
「なぁ、その前に約束しろよ。大事なことだ」
「いいよ。私の腕が疲れるまでなら聞いてあげる」
「絶対に,……、絶対に紗香那は殺すな。最後は俺がやる」
「わかっているつもりだよ。それをしてしまったら財部くんの願いはおしまいだもんね。あ、でもそれも面白いかも」
「冗談じゃねぇ……」
「冗談だよ。少なくとも今はね。ほら笑って、笑って」
俺は左腕を真っ直ぐに突き出して、窓のサッシに向けて水平に渡した。しっかりと握って固定する。支えがある方が、失敗するリスクを減らせると思ったからだ。ここまでやれば彼女の細腕でもあのバットならやれる。俺がびびって腕を引かなければ、だけど。
目を瞑るべきかを少しの間迷った。
だけど結局、俺は全てをちゃんと見ておくことに決めた。
朔根櫂なら、そうするだろうと思ったから。
「ね、彼は殺しちゃってもいいの?」
彼女がさも楽しそうに、そう問いかける。
「あいつは、」
少しだけ、少しだけ考えた。
紗香那のことを、逆巻と親しげに呼ぶ男。
紗香那と同じ時間を過ごし、紗香那の生存を最後まで信じ続けた男。
残していた半分のアイスを口に放った。冷たい刺激が頭に響いて、俺の頭はなんとか冷静さを失わずに済む。本当に大事なことを思い出させてくれる。
紗香那。その、首から上。俺が欲しいのはそれだけだ。
「朔根櫂は、眼中にねぇよ」
ズン、と左肩に重い衝撃が走った。
「あ、ごめんね。腕が疲れちゃった」
ケラケラと。ケラケラと。
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