―― 2 ――

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 そんなふうに思っていたのが、まるで遠い昔のことみたいだった。


 放課後の、まだ生徒で賑わう校舎の廊下を私はゆっくりと歩いている。

 誰かに合わせるのではなく、誰かに追われるのでもなく、ただ自分のペースでゆっくりと。

 こうして眺める景色の中で人並みを構成している人々は、私がその一部だった頃と何も変わりがないように見えた。それぞれが自分のことに一生懸命で、やるべきことと進むべき道だけを視野に収めて生きている。だから周りで起きる事件や事故の情報も、外から運ばれてくるエンターテイメントとしてうまく成り立っている。

 いちいち自分事だと思って怯えてなどいられないから、それでいいのだろう。

 安堵する気持ちにほんの少しの寂しさがぶつかって、私の胸に小さな波紋を立てる。

 逆巻さかまき紗香那さかながいなくても、学園の日常は変わらない。

 そんなことは百も承知だったはずなのになぁ。

 他の誰にも見えないことをいいことに、私はわざとローファーの踵で足音を立てて歩いた。

 カッ、カッ、カッ、と硬い靴がリノリウムを叩くリズミカルな音が響く。それがちょっぴり楽しくて、それから急に虚しくなって立ち止まった。

 開帝学園では、少しずつ人が消えていく。きっと、みんな死んでいる。

 全校生徒は380人、そのうち……今は一体何人になっているんだろう。私はもう消えた人間に含まれているのだろうか。どちらにせよ遅かれ早かれ、というところだろうか。今はそうでなかったとしても、私の名前はいずれそこに並ぶことになる。半分くらいは死んでいる。

 こうなるまでは漠然と、死は点なのだと思っていたのだけれど、案外そうでもないらしい。

 長くて緩やかな下り坂を滑車でくだっているような気分だった。慣性が私を少しずつ死に追いやっている。それをただ眺めているだけの自分。

 廊下の途中に設置された鏡をおもむろに覗き込む。

 そこには黒い眼帯をつけた私が映り込んでいる。通りすがる人がそれを見かけても、誰も驚いたりはしなかった。まぁ、そうだよね。他の誰にも私は見えていないから。

「相変わらず似合ってないなぁ」

 眼帯って、もっとこうかっこいい感じにはならないものなのだろうか。おしゃれに疎い私でも、これがイケてないことくらいはわかる。流花るかちゃんだったら、もっと上手に着こなすんだろうなと思った。……付けこなす? かな。馴染みのない言葉。

 それとも、私はただ今の自分を受け入れられていないだけ、なのかな。

 そのうち、見慣れてしまう日が来るのだろうか。

 眼帯に触れて顔に重なる布をそっとめくりあげてみる。左目の代わりに大きな穴がぽっかり空いていて、私の顔は下手な合成写真のように何とは言えない違和感に包まれている。

 右目を瞑った。私の視界から、廊下が消える。壁が消えて、鏡が消える。

 そうして暗闇の中で知らない誰かと目を合わせた。もう、何度目かになる。

 私をじっと見つめているのが誰なのかは不思議とあんまり気にならなかった。だけどどうしてか、こうしていると焦りが胸に込み上げる。

 何かを訴えているような、そんな気がしてならないのだけど、では私に何ができるのかはよくわからない。

 わからないことだらけだ。開帝学園には不思議がいっぱい。

 眼帯を戻して、私は目を開けた。変わらない放課後の風景と再び対面する。

 不意にさっきまでとは別の視線を感じたような気がして、私は振り返った。

 そこには人の移動があるだけだ。

 部活動や、委員会や、自主的な何かの活動で忙しく歩く人の群れ。

 立ち止まっているのは私だけ。

 誰の目にも留まらない私だけ。

 そのはずだよね。

 ふと、行き交う人々の足元で、小さな暗い影が私をじっと覗いているのに気がついた。宝石のような目を静かにこちらに向けている。艶のある綺麗な毛並み。撫でたら気持ちよさそう。

「いつかの黒猫ちゃん?」

 見覚えはある。でもどこで出会ったのだっただろうか。そっと近づこうとしたのだけれど、彼女はどこかに逃げてしまった。怖がらせてしまったのかもしれない。

 やっぱり動物にはうまく好かれないんだよね。寂しいなぁ。

 顔を上げると、人の流れはさっきより少なくなっていた。それはこうして日常と離れてから意識することが難しくなった、時間も一緒に流れているからだった。お腹が空かないからかな、気がつくとあたりが暗くなっている。

 今日が終わろうとしているのがわかる。一日が過ぎ去ってしまう。

 また、私は人のいない校舎に取り残される。

 そっと立てた靴音がやけに大きく反響して私の孤独を引き立てた。

 廊下の人影が消える。


 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 今思えば、そう思いたかっただけなのかも知れなかった。


 逆巻紗香那は、自殺を考えたことがある。

 そんなことを話したら、私を知る人たちはみんな驚くんじゃないだろうか。そんなネガティブな感情は私っぽくないからね。自分自身でもそう思う。笑っちゃうくらい、そう思う。

 だけど人にとって、死ぬことを考えることは生きることを考えるのとそこまで大差がないんじゃないかとも思う。どう生きるのかと同じくらい、どうやって死のうかって頭を巡る。

 高校生になると進路や将来や理想や夢と向き合うようになって、いろんなことを考える時間が増えた。たくさんの選択肢、無限の可能性の中に、死は必ず含まれる。それを簡単に無視できる人と、そうでない人がいるだけ。

 自殺ってとっても強い言葉だ。殺人や事件や事故なんて簡単にフィクションの世界にしまって置くことができるけれど、自殺はそうじゃない。生きている全ての人間の、すぐ隣で常に寄り添っている。見えないだけで、だからそう幽霊みたいなものなのかも。それに気づいてしまったら、自分ではもう見なかったことにはできなくなる。

 私が死ぬことを考えたのは、周りの人間の大切な歯車を狂わせてしまうから。

 きっとそうした出来事が積み重なって、うんざりしてしまっていたんじゃないかと思う。

 小さいころから、よく私の周りでは人が壊れた。

 初めは多分、母さんだった。物心つく前だったからよくは知らないけれど、小さな紗香那を怖がるようになった母さんを、父さんは私から引き離すことを選んだ。多分私はとても寂しかったけれど、そうする他なかったのだと思う。だってその後、父さんは死んだ。母さんがそうならなかったのは、父さんが犠牲になったからだった。

 父さんがどこでどうして死んだのか、誰も教えてくれなかった。

 母さんがどこでどうしているのかも、誰も教えてくれなかった。

 寂しさよりも、悲しみよりも、何が起きているのかわからない混乱が勝っていた。

 私の何が悪かったのか、何がそんなにいけなかったのかちっともわからなかった。

 わからないことだらけだ。開帝学園でなくても不思議はいっぱいある。

 だから極力、私は人と関わることを避けた。小学校でも、中学校でも、誰かと仲良くなることを避けてきた。

 それなのに私はこの学校で、一年B組の教室で、流花ちゃんと出会ってしまった。


『逆巻さん、だよね。可愛いお弁当だなっていつも思って眺めてた。マカロニってサラダに入ってるイメージだけど、それは違うの?』

『これはアラビアータっていうイタリア料理だよ。この形のショートパスタはペンネって言って、横に溝があるタイプだからペンネ・リガータ。日本ではショートはみんなマカロニって思われてるけど、別のものだよ。もし辛いのが平気なら、食べてみる? ……えっと、』

粕谷かすがい流花るか。流花って呼んで。私からあげられるものは冷凍物のシューマイしかないけど、よければ交換しよ。でも、その前に』

『その前に?』

『私も、紗香那って呼んでいいかな?』


 流花ちゃんは、私のことを特別だと言ってくれた。

 友達を作ることをやめた私に親友だと、家族を失った私に姉妹だと、言ってくれた。

 嬉しかったし、楽しかった。でも、ずっとずっと私は怖かった。

 流花ちゃんが壊れてしまうのが、怖かった。

 流花ちゃんを壊してしまうのが、本当に本当に怖かった。

 いつも恐れてた。だから流花ちゃんといるのは少し疲れた。

 ごめんね、流花ちゃん。

 私はこうなる前に死ぬはずだったのに。

 それなのに――。

 私が死ぬことを考えたのは、まだ夏になる前の、けれどとても暑い日のことだった。

 屋上に上がったのは本当は初めてのことで、これから死のうと決めていたのに、妙にテンションが高かったのを覚えている。人に止められてしまわないように、屋上のずっと先まで歩いた。距離があったから少しバテながら、一番奥の出入り口まで近づいて、扉が開かないことを確かめてからフェンスに近づいた。

 フェンスはそんなに高くはなくて。危ないなぁって、そんな場違いなことを思った。

 私の胸の高さよりは低いし、よじ登れば越えることはできそう。

 でも、できなかった。

 なんとも情けない話ではあるのだけど、そっと指先で触れたフェンスが想像以上に熱かったから。瞬間的に指を離したので火傷になるほどではなかったのだけど、なんだかもうそれが面白くなってしまって、気が抜けて、私はそこに何をしにきたのかわからなくなっていた。

 今思えば、自分がどこまで本気だったのか少し怪しくもある。これから死のうとしてたのに、なんでお弁当箱持ってたんだっけ?

 とにかく私はあんまり死ぬ気にならなくて、もう一度気が乗るまで日陰で待つことにした。

 それでいつの間にか眠ってしまって。

 起きたのは、確か弁当泥棒のせい。じゃなくて朔根さくね先輩……、に結局全部食べられたからやっぱり弁当泥棒だったのかも。

 先輩は私の料理を美味しいと言ってくれた。言葉は少なかったけれど、まるで生き返ったような顔でモリモリ食べてくれた。

 私は調理研究部だから人に料理を食べてもらうことなんて珍しくはないし、いい感想を貰えることもそれなりに経験している。

 それなのに、あの日の朔根先輩の顔は忘れられない。

 昨日の電話で先輩は私を魔法使いに例えたけれど、本当は私の方こそ魔法をかけられた気分だった。すごく、嬉しかった。

 作った料理が人を喜ばせることができると私は知ってしまった。これはとても大きな誤算。だって死ぬために屋上に行ったのに、生きる理由を見つけて帰ってきてしまったのだから。

 笑っちゃうようなちっぽけな出来事ではあるけれど、ちっとも大袈裟なことじゃない。

 感謝をしているのは私の方だった。恩を感じているのも本当は私の方だった。

 あの日から、私の持っていたたくさんの選択肢はちょっとだけ少なくなった。無限の可能性は一回り小さくなった。朝起きるのが苦じゃなくなった。献立を考えるのが楽しくて仕方なくなった。

 ごめんね、流花ちゃん。

 私はそうして流花ちゃんを壊してしまった。

 逆巻紗香那はもうすぐ本当に死を迎える。こんなことならあの日、私がちゃんと死んでいたら流花ちゃんは今も笑ってクラスにいられたのかなって、やっぱり考えてしまう。

 あるいは流花ちゃんの呪いが私をちゃんと殺せていたら、と考えてしまう。

 だけどその裏側で、

 頭のずっと片隅で、

 もう少し生きていたかったなぁなんて、私がそんなふうに思うのは図々しいだろうか。


 しん、と校舎は静まりかえっている。

 窓の向こうでは、沈む太陽がほんのわずかに頭を残していた。

 きっと、もうすぐ夜が来る。

 

 足元を小さな気配がすり抜けた気がした。

 それを目で追わなかったのは、スカートのポケットが震えていたから。

 取り出したスマートフォンの画面を確認して、耳に当てる。

 着信した番号は昨日登録したばかりのもの。


「もしもし、逆巻か?」

「朔根先輩。息が荒いですけど、もしかして走ってますか?」

「これから伝える場所にすぐに来て欲しい。僕も今向かっているからそこで落ち合おう」

「いいですけど、急ですよね。何か――」

 先輩の声は誰もいない廊下に少しだけ反響して私の耳に届いた。

「あぁ、君の居場所がわかった」

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