第四章
―― 1 ――
「珍しいねぇ、
木曜日の授業が全て終わっても、俺の体はなかなか席を立とうとはしなかった。
――
頭の中では昨日からずっとあの男の言葉が針飛びするレコードのように何度も繰り返されている。おかげで今日の学びはゼロだった。せっかく教室に残っても、得られたものは出席日数だけ。退屈な時間に何度もあくびが
とはいえ無気力な学校生活は確かに俺には合っている。能動的な作業は何も必要なく、不合理な衝動に突き動かされるようなこともない。静かに、荒立てることなく、あとはちょっとした悪さを隠し通せば、学園を卒業することはできるだろう。大学を受験するにしても、就職する道を選んでも、開帝の卒業生というだけでそれなりに楽な道を歩いていける。
その方が向いているのだろう。誰かさんが言うように。
他の誰もが帰り支度をしている教室をぼんやりと見渡す。
紗香那がいない。もう見慣れたろ?
――逆巻は死んでない。今、僕が言えるのはそれだけだ。
言葉が楔のように胸に突き刺さって、また身動きが取れなくなっていた。
俺が暫くぶりに登校をする前日の月曜日、逆巻紗香那は昼休みに屋上から飛び降りた。いや、誰かから突き落とされて死んだ。死んだはず。だから殺した人間がいる。殺されたはず。
だけど
まるで前提としている出来事が、別の並行世界のことのように噛み合わなかった。少なくともそう思わされる程度には胸を揺さぶられた。
あいつの言葉は全部嘘だ。嘘だった。紗香那は死んだ。殺された。
その証拠に、この教室に紗香那はいないじゃないか。
「左門くんてば、おーい。よ、よ、よ。うーん、ついに耳までおかしくなっちゃった?」
「耳も含めて、何もおかしくなっちゃいねーよ」
「それは左門くん、異議あり、だよ。ま、でも声が届いてよかった。朝からずーっと、魂が抜けたみたいな顔してたから」
カバンを担いで教室を出るだけのところまで支度を終えた
「で、帰らないの?」
「ん、あー、部活」
そろそろ真智に嘘を吐くのにも罪悪感が薄れている。いい傾向ではないだろうけど。
「へぇ、許可出たんだ。よかったじゃん。体もそろそろ鈍ってきてるんじゃない?」
真智が立ち上がった。帰るんだろうと思った。
見送るつもりで彼女に視線を向けた。真智も俺を見つめていた。
「でも今日は帰りなよ」
そう言った。静かな声で、それは珍しいことだった。
「は? どういうことだよ」
「友達としての忠告だよ。これ以上は何も伝えられないけど、今日は何もしないで帰った方がいい。部活もそりゃ大事だろうけど、諦めてさ。いいじゃない。左門くん、実力はあるけど熱血野球少年って柄でもないんだし」
真智が俺の行動に口を出したことなんてこれまで一度もなかった。珍しいなんてもんじゃない、初めてのこと。
何か不思議なことが起きている。というより、不気味なことが起きている。
「帰ろう。なんなら喫茶店でも寄ろうよ。左門くん、甘いもの苦手だっけ? 真智さんがひた隠しにしていたおすすめの絶品クレープを紹介してあげてもいい。お代は当然自分で出してもらうけど」
「待てよ真智。どうしたんだよ」
「どうもしてないよ。ただ、ちょっとらしくないことはしてるかもね」
自覚まであるときた。異常事態だ。
不穏な雰囲気が、辺りを漂っているような気がした。
少しずつ俺たちのいる席をすり抜けて生徒が教室を離れていく。誰も俺たちに関心など向けない。視線など寄越さない。誰一人、この異常に気付かない。
「お前、おかしくなったのか?」
俺の喉はそう鳴いた。そう聞くのは、至極当然のことに思えた。
「左門くんてばほんっとーにデリカシーがない。クラスの女子に誘われて、返す言葉がそれですかい。……おかしいのはいつだって左門くんの方だよ。あーあ、可哀想な真智さん」
「お前、何言って――」
真智の視線が射るように俺を貫いて、黙らされる。
「何度も言わない。それこそらしくないから。私はそんなに頑張らない。だからこれが最後」
「真智……」
「一緒に帰ろ。今日は……、今日だけは、真智さんの言うこと聞いて付き合ってよ」
絞り出したみたいに最後はどこか尻すぼみな声が、縋るように俺に届いた。
こんな真智は見たことがない。
なんでお前、そんな泣きそうな顔してんだよ。
何一つわからなかった。ただ俺は真智の誘いに応えてもいい気がしていた。
特段、放課後に予定があったわけじゃない。部活にだっていくつもりなんかない。
それなら、
あれ、それなら――なんで俺の体は椅子から動かずにいたのだったか。
――逆巻は死んでない。今、僕が言えるのはそれだけだ。
鋭い痛みが、頭の中を何度も反響している。
逆巻。逆巻紗香那。さかな。紗香那。
紗香那は死んだ。
でも、朔根櫂はそれを否定した。
あいつが殺したからだ。
でも、朔根櫂はそれを否定した。
嘘だ。
でも、朔根櫂はそれを否定した。
逆巻紗香那がもし生きているとするならば、俺が紗香那を――。
「まぁね、そんなにうまくはいかないって思ってたよ」
いつもの調子に戻った真智の声が、俺の意識を現実に引き戻した。ピントを合わせると、真智はもうこちらに背中を向けている。
「帰るよ。クレープは一人で食べる」
「お、おう」
真智は何やら二枚の紙を見比べているようだった。背中に隠れて内容までは確認できない。
帰るんじゃ、なかったのか?
やがて真智は顔をあげた。どんな表情をしているのか、こちらからはわからなかった。
ダン、と大きな音を立てて、持っていた紙の一枚を机に叩きつけるように置く。
「真智さんがこの部屋を出たら、ううん、この教室に左門くん以外誰もいなくなったら、見てもいいよ。それまでは絶対に裏返さないこと」
「なんだよこれ」
「見てもいいって言ってるんだから、それを聞くのは野暮じゃない? とにかく約束してよ」
「……よくわからねぇけど、わかった」
そう答えると真智は満足そうに、
あるいは極めて不満そうに、
振り返らないまま、
俺に顔を見せないまま、
「それじゃ、左門くん。ばいばい」
そう残して教室から去っていった。部屋は少しだけ静かになった。
机の上の紙を見る、A4の質の良い紙はちょっとやそっと目を凝らしてみても裏側を透かしてはくれない。ラブレターとかじゃないよな。そういうのって便箋とかに入っているイメージだ。それにあの真智が置いていくのだから、脅迫状とかの方がまだ可能性がありそうだった。
一人、また一人と、教室から人がいなくなっていく。
大抵の生徒は部活に所属していたり塾に通っていたりして、教室に残る用事はない。
放課後もずっと残っているのは宿題を家に持ち帰りたくない思想の持ち主くらいだったけれど、俺がこうして何もせずに教室に居座っているせいで居心地が良くなかったのか、そういった人間も次第に席を立っていった。
放課後に入った頃にはまだ高かった太陽が、真っ赤に燃えながら地平線に半分ほど身を浸している。すぐに、夜が来るだろう。
しん、と空気が静まり返っている。
教室はもう、俺の他には誰もいなかった。そうなってから、かなりの時間が立っていた。
見ていいと言われた条件はもう揃っている。いや、本当なら真智の姿が見えなくなった時、すぐにひっくり返してみてもよかったはずだった。どうせバレることはないのだから。
そうしなかったのは……、そうしなかったのはなぜだろうか。
ふと、立ち上がった。きっかけなんてなかった。
真智の机に近づいて紙に触れる。机との隙間に指を滑り込ませる。質量なんてあってないようなものだから、ふわりと舞って抵抗もなくそれは表を見せた。
『 開帝通信 木曜号 夕刊 』
それは、真智が購読していた校内機関紙だった。
いくつかにコマ割りされた紙面のブロックの一つ一つで、太字になった見出しが記事の内容を要約して伝えている。見覚えのある構成、なんの変哲もない新聞。
その真ん中。
――屋上からの飛び降り死体 身元特定される
三年A組 出席番号十二番
それが何を意味するのかは、俺の鈍感な頭でもすぐにわかった。
飛び降り死体というのは月曜日の事件のことだ。死体が誰なのかはずっと公表されていなかったと真智は言っていた。ただし状況から見て、間違いなく死体は紗香那だとそう伝えられていたし、説明されて俺もそう思い込んでいた。
冷静に、冷静に、物を理解する必要がある。正確に、確実に、事態を把握する必要がある。
深く深呼吸をして、見出しの横の文章に目を通す。
――死体の身元の発覚が遅れたのには二つの理由がある。
一つ目は、回収された遺体には首から先がついておらず、現場周辺で長時間にわたる捜索が行われたにも関わらず発見されなかったこと。これにより、遺体は顔が判別できる状態にはなかったと思われる。
二つ目には、死亡推定時刻が発見の状況と全く一致しなかったことが挙げられている。遺体は発見された当時、既に軽度の腐敗が進行しており、屋上から飛び降りた時には間違いなく死亡していたと見られている。判明したこと以上の謎がこの事件には秘められているようだ。
末筆ながら、この度死亡の確定した本誌開帝通信の編集長・小袖咲依に
「死体に、首がなかった……」
そんな情報は聞いてない。この紙面が今日の日付のものであると言うことは、真智もこんなことは知らなかったに違いない。
――逆巻は死んでない。今、僕が言えるのはそれだけだ。
朔根櫂の言葉は、嘘じゃなかった。
遺体は紗香那じゃない。だけど紗香那はこの教室に顔を出していない。
首のない死体。首のない死体。軽度に腐敗した、首のない死体。
「うそ、だろ。そんな……、ばかな……」
俺の体は爆ぜるように立ち上がっていた。
ロッカーから取り出した荷物を担いで、教室を飛び出す。
紗香那だと思っていたものが、首のない死体だったのなら。
――――――――――――――――――――――――――。
誰もいなくなった廊下を駆け抜けながら眺めた窓の向こうの空には、
もう太陽の姿は見えなくなっていた。
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