間章

怪底奇譚 『雨』

 外で降り続く雨の残響が、教室の座席に着席した今も頭の中で鳴り止まない。

 しと、しと、しと、しと……、

 雨音を初めてそう表現した人の感性に、私は呪われているのだろうか。

 濡れることはなかったはずの肌に、冷たい雫が伝うような気持ちの悪い感覚が走る。

 雨は好きじゃない。きっと、雨も私を嫌っている。

 どんなに触れても私が溶けださないから、雨は私が疎ましいのだ。


「もぉー、雨宮あまみやさんってば聞いてました?」

 突然自分へ向けられた声で、はっとした私は前へ向き直った。

 私の席を囲うように、三人のクラスメイトが集まって談笑をしている。そのうちの一人が、反応のない私を見かねて声をかけてきたようだった。

 慌てて、けれど努めて穏やかに私は返事をする。

「あ、ごめんなさい。少し今朝から気分が優れなくて、なんの話だったかしら」

「あら、竜乃たつのさん体調がよくないんですか?」

 別の子が心配した様子でかけてくれた言葉に私は小さく頷いた。

「えぇ、けれど気にしないでください。じっとしていればきっとおさまりますから」

 私たちは同学年の友人だけれど、敬語を使って会話をしている。それは私の家柄を知った周りの人間が自然と始め、私自身もそれを訂正することなく受け入れたからだった。

 雨宮の屋敷の中では家族の間でも言葉遣いを気にするし、どうせ大人になって社会に出れば誰もがそうなっていくはず。ただ高校生として、私たちが適切な距離感に身を置けているのかどうかはよくわからないことだった。

「無理したらダメですよ。連日の真夏日のような暑さから、今日になって突然気温が下がってみんなびっくりしているんですから」

「うんうん」

 私はありがとうと伝えて、話を膨らませないためにすぐに目線を外した。私がこの学園に入って覚えた数少ない処世術の一つだ。

「もぉー、そんなことよりこれですよこれ」

 一人がスマートフォンを机に広げて、私から見やすいように画面を軽く傾けた。

 パステルカラーの強いピンクの背景に、丸みを帯びたフォントの文字が並んでいる。中央には大きな画像。その中で、この学園の三年生があまり気のない表情でこちらを覗いていた。興味の薄い私でも、もちろん名前ぐらいは知っている。

 朔根さくねかい。私を取り巻く環境は、どうやらみんな彼に夢中らしい。

「これです!」

 スマホを支える彼女が画面の中を指し示す。その指の先を視線でなぞって、ようやく私はこの場の浮かれた雰囲気が何に起因しているのかを理解した。


 はっぴーばーすでい かいせんぱい。


 このサイトの脳までとろけてしまっているようなひらがなの表現が、私は前々から好きではなかった。背景とコンテンツの色味のバランスの無頓着さも、隠し撮りばかりなのが窺える鑑賞に値しない写真の数々も。

 センスがない。いただけない。

 朔根という男性と出会ったことはないし特別恨みもないけれど、彼に惹かれた人間が集まって作る独特な雰囲気には生理的な嫌悪感があった。

 けれど私がそんなふうに考えている事はこの場にいる誰も思い至らない。誰もが自分と同じものに関心を持ち、同じように惹かれ、同じ感情を共有していると盲目的に思い込んでいる。

 だって私たちは友達だから。

「来月なんですよ。櫂先輩の誕生日。私達新参のクラブ会員も何かプレゼントを贈りたいねって話していて」

「うんうん」

「それでそれで、雨宮さんって絵がとってもお上手じゃないですか!」

 話の先を聞くまでもなく、彼女たちが自分に何を望んでいるのかを悟った。

 褒められて悪い気はしないけれど、心の中でため息が漏れる。口からこぼさないように込み上げたものは飲み込んだ。

 敬愛する櫂先輩に少しでも価値のあるものを渡す術を悩んだ結果、彼女たちは私を働かせることにしたらしい。

 子供らしく無邪気で、高校生らしく短絡的で、その実ひどく残酷な提案。

 贈り物が渡したいのなら自分たちで作ればいいのに、と思ったところで私は考えを改めた。つまりそういう事なのか。彼女らの中では『自分たち』に含まれているのだ。私も。

 しと、しと、しと、しと……、

 頭の中の雨音が強くなる。

 私はいつもの困り顔を作ってから少し躊躇うように、そう見えるように口を開いた。

「皆さんに協力したいのは山々なのですけれど、次のコンテストが近いので時間を取ることは難しいかもしれません」

 話しながら、口実になるものがあってよかったと心の中で呟いた。

 棘のない言葉でやんわり断ることが出来るから。

「そこをなんとか!」

 スマートフォンを支えていた子が急に立ち上がって頭を下げた。これが誠意ですとでも言わんばかりに額を机にこすりつけて、どこかで覚えてきた頼み事の仕方を模倣している。

 想像もしていなかったひどく醜い光景が自分の席に広がって、私はとにかく周りの生徒からの目が気になった。こんなところ誰かに見られたくはない。

「ちょっと、頭をあげてください」

 狼狽うろたえながらも、私は声を潜めてそう伝えた。肩を揺すってみる。

 けれど彼女は机に張り付いて微動だにせず、後頭部だけをこちらに見せている。私がうんというまで、頑なに動かないつもりなのかもしれない。

 困り果てた私は、援護を期待して隣の子と目を見合わせた。聡明そうなこの子ならうまく説得してくれるかもしれないと期待を込めて。

 小さくこくんと頷いた彼女が、上品に口角をあげて微笑んだ。

「色紙くらいの大きさで、そんなに凝ったものでなくていいんです。櫂先輩の似顔絵を中心にそのまわりを少し華やかに装飾して、あとはそれぞれメッセージを書き込もうかって話していて。だからそんなにお時間は取らせないと思います」

「うんうん」

 言葉が出なかった。

 驚くことに、彼女は私の方を説得しようとしているらしい。

 何かがおかしいと思った。何か、は決して私じゃないはずだ。

「でもあの、コンテストが――」

「そこをなんとか!」

 机と同化した後頭部が私の言葉を遮って、人語のような音で鳴いた。

 他の二人はそれには目もくれずにじっと私を見つめている。

 私の反応を伺っているのではなかった。

 ただ私がうんと頷くその瞬間を待っているのだ。

 何もかもが理解できた上で、ゾッとした。背筋を冷たいものが走る。

 初めは単にめんどくさいなぁと思っただけだった。

 だけど、今は言葉の通じない彼女たちに底知れない恐怖すら感じている。

 彼女たちには、私にとってのコンテストがどういうものなのかちっとも理解できていないのだ。

 私がそこで評価されるということがなんなのか少しも想像できていない。

 私がどんな想いで筆を取っているのか考えたこともないはずだ。

 そのくせ、友達を語っている。騙っている。

 私の絵が上手いだなんて、価値を知らない上部だけの文言に少しでも浮かれた自分が恥ずかしかった。悔しかった。ここが教室でなければ、人のいない森の奥であれば叫び出したかった。泣き出したかった。

 平静を装うためにつけていた透明な仮面にヒビが入る。

 しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと、

 雨がまた、強くなる。

「私は――」

 今、何を言いかけたのだろうか。

 自分の理性を無視して吐き出しかけた言霊は、けれど形を成す前に授業開始のチャイムに紛れて霧散した。

「考えておいてください。まだ日にちもありますから、よろしくお願いします」

 上品な言葉は小さな会釈とともに机からふわりと離れていった。

 持ち上がった後頭部はまるで勝ち誇ったように笑顔を見せて無言で自分の席に戻っていく。

「うんうん」

 私の席に、私一人が取り残される。

 数学担当の教員が黒板の前に立つのを待って、学級委員が号令をかけた。

 私はそれに従って立ち上がり、形だけのお辞儀をして席につく。

 ノートを開いてペンを取る。けれど、教科書を捲る手がいつまで経っても指定のページを見つけられない。

 ――そんなに凝ったものでなくていいんです。

 人が散って授業が始まっても、何も終わってはいなかった。回答が保留され、私の頭上の制限時間が心なしか早足のカウントダウンを始めただけ。

 凝ったものでなくていいのならどうして私に頼むのか。

 わかっている。わかりすぎている。

 誰も、私の絵なんて認めてくれてはいないのだ。

 ただ、雨宮あまみや竜乃たつのの履歴書を見て、『絵が上手』という都合のいいラベルを見つけただけ。

 視界がにじむ。そんな反応をする自分の体が憎くて憎くてたまらない。

 ペンを握る手に、力が入って軋みをあげた。

 と、膝の上に置いていたスマートフォンが小さく振動した。

 目だけで辺りを見渡して、誰にも気づかれていないことを確認する。

 当然、授業中に携帯端末を使うことは禁止されているけれど、厳格に守っている人間は多くない。それでも教師に見つかるのだけは避けたかった。

 極力小さな動作で届いたメッセージを開くと、少しの時間をかけて画像が読み込まれる。


『似顔絵用の参考画像を送ります。かっこよすぎて失神しませんように!』

 

 粗くぼやけていた画像はすぐに、朔根櫂の姿を象った。

 体育の授業中のものだろうか、体操着に身を包んだ彼が額に汗を浮かべて何かを追いかけている。写っているのは上半身だけで、さらには彼だけにピントのあったこの写真では、実際に何をしているのかはよくわからなかった。

 様にはなっているのかもしれないけれど、美しい構図ではない。

 躍動感に欠け、色彩も薄く、顔の向きも中途半端。

 これがかっこいい? 笑わせないでほしい。

 違う。これは違う。ちっともかっこよくなんてない。

 人を惹きつける魅力もない。輝きもない。

 こうして祭り上げられる当の本人が可哀想だ。

 どうして間違えるのだろう。どうして誤ってしまうのだろう。

 本物がすぐ近くにいるのに、みんな偽りばかりを追いかけている。

 それは罪だ。裁かれるべき悪だ。

 罰を受けて更生されるべきなのだ。

 だって、

 だって、


 本当にかっこいいのは、本当に美しいのは、御堂みどう先輩なのだから。


「大丈夫?」

 俯く私の耳のすぐそばで声がした。

 授業中だったはずだ。それなのに女生徒が一人、私の席の横に立っている。

 胸がいっぱいな私は彼女の言葉にうまく答えられなくて、声が出なくて、だからペンを取って小さく小さく文字を書いた。決して、彼女以外の誰にも見えないように。

 ――たすけて

「先生、雨宮さん具合が悪いみたいなので保健室に連れて行きます」

 彼女に肩を支えられて立ち上がる。頭を伏せて、誰とも目を合わせないように教室を出た。

 後ろで教師が何か言っていたような気もするけれど、私の耳にはうまく入ってこない。

 しと、しと、しと、しと……。

 ただ雨音だけが、廊下の窓と私の頭を叩き続けていた。




 ******




「私、雨宮さんの長い髪が好き。塗り上げたみたいに真っ黒で、艶っぽくて、羨ましいなぁって思ってた。私なんて傷んでいるのがバレないように毎日編んで、そのせいでまた傷んじゃうっていういやぁなスパイラルから抜け出せなくてさ」

 私たちは保健室へ向かう道中の階段に腰をかけて、少し時間を潰していた。私を連れ出した彼女が、私を送った後すぐに教室に戻るのを嫌がったからだった。

 買ってもらったコーヒーの缶を頬に当てる。少し熱いけれど、冷たいよりはずっといい。

 そうしていると、横から向けられた食い入るような視線に気がついた。

 振り向くと、微笑みが返ってくる。

「薄い緑の瞳も好き。そんなに綺麗なんだからあんまり隠すようにしなくたっていいのに」

 彼女の言葉に、恥ずかしくなった私は視線を合わせていられなくて、階下のなにもない踊り場に目を落とした。そんなストレートな言葉を言われれば、今の感情がごちゃ混ぜになってしまった私でなくてもきっと言葉に詰まってしまっていたはずだ。

「どう、落ち着いた?」

 そう聞かれた。正直私はあなたのせいで落ち着かないんだけれど、とは言えなかった。

 目を見れなくて、彼女の揺れる三つ編みに目をやりながら感謝を述べる。

「ありがとう。私を連れ出してくれて。粕谷かすがいさん」

流花るかって呼んで。私あんまり苗字が好きじゃないの」

 彼女は自分のコーヒーに口をつけて、一度苦そうな顔をした後その缶を段差の上に置いた。広い空間に、内容物のせいで低くなったアルミの追突音が響く。

「あの……流花さん、どうして私を助けてくれたの?」

 聞くべきじゃなかったのかもしれない、けれど私の口はそれを尋ねた。

「どっちが聞きたい?」

「どっちって……」

「本音と建前」

 困惑した私を見て楽しむように彼女は笑った。

「雨宮さんと友達になりたかったからだよ」

 流花さんはじっとこちらを見ている。

「それは、どっち?」

「どっちだと思う?」

 本音と建前。

 クラスメイトとしてもちろん粕谷流花という人間がいることは知っていたけれど、こうして二人きりで話をするのは初めてだった。だから彼女が何を考えていて、私のことをどう見ているのかもわかりようがない。建前を混ぜられてしまえばなおさらだった。

「ごめんね、私そんなにいい子じゃないよ」

 返事に困っていた私を見かねてか、流花さんは一つ声のトーンを落として謝罪の言葉を天井に放った。

「全部見てたの。雨宮さんたちのさっきのやりとり」

「それって授業前の?」

 こくんと三つ編みが揺れる。それから授業中のあなたも、と。

「雨宮さんがどう思っているのかは知らないけれど、私は櫂先輩が好き。櫂先輩は憧れで、私にとっては手を伸ばすこともできないようなスーパースターなの。だってかっこいいもの」

 それは、小さなトラウマを掘り返すように私の心をかき乱す。けれど流花さんはそんなことはきっと承知の上で、言葉を続けた。

「櫂先輩の目が好き。私はいつも、あの鋭く細めた瞳には世界がどんな風に見えているんだろうって考えるの。きっと私や、私の周りの他の誰もが見ているようなものとは違う、想像もできないような何かを見ているんだって思ってる。舌も、耳も、鼻も、口も、きっと感じているものが全然違うはず」

 例えばね、と彼女は缶を手に取った。

「いつも一緒にいる紗香那さかなは、コーヒーの香りを嗅ぎ分けるの。どこの国のどんな種類の豆を使っていて、なんとかって淹れ方で作られたものっていうのが大体わかる。そこまでじゃなくても深みとかコクとか色とかね。それを楽しそうに語るわけ。言われてもちっとも理解できない私に」

 流花さんが缶の口に鼻を近づけてケタケタと笑う。

「私は、コーヒーの匂いってどれもみんな一括りにして終わり。さっきも自販機の前でちょっと悩んじゃった。だって缶コーヒーっていっぱい種類があるけれど、何がどう違うのか飲み比べたとしてもわからないもの。ほんとのところ、渡したそれも缶の見た目で決めたの。雨宮さんには黒が似合うかなって」

 ごめんね、と彼女は笑いながら謝った。

「ううん、私は普段からコーヒーはブラックだしちょうどよかった」

「雨宮さんも違いがわかる人でしょ?」

「どうかしら、紅茶なら少しはたしなむけれど」

「私もお嬢様に生まれてたらもう少し違ったのかなぁ。……変わんないか。あ、今のは皮肉じゃないよ」

 どうしてか、彼女の言葉から嫌味な印象を受けることはなかった。いつもなら、他の誰かなら、少しは気に障るのに。

「紗香那といると、私は自分の見ているもの、触れているものの解像度が低いことを思い知らされる。私が漠然と見ている世界の至る所に本当は精巧なディテールがあって、それを区別して利用して面白いと感じられる人がいるんだよね。そういう場面に遭遇するたびに、なんだか自分自身がつまらない人間に思えて苦しくなることもあるけれど、」

 本当はね、と。

「私、そういうの嫌いじゃないんだ。紗香那と話すのも全然悪くなかった。それでまた想像するの。櫂先輩の理知的で聡明で鋭いあの目を通したら、世界はどんな風に映るんだろうって。きっと私と同じものなんて一つもなくて、何もかもが鮮明に輝いて見えるんだろうなって考えたら、私のそのワクワクした気持ちはいつの間にか彼への憧れに変わってた。雨宮さんにはおかしなことに聞こえちゃうかもね」

「そんなこと、ない」

 まるで自虐的にすら聞こえる流花さんの言葉を、私はすぐに否定した。

 似ているって思ったから。私が御堂先輩に抱いているものと。

「無理しなくていいよ。理解されるなんて、ちっとも思っていないから」

 彼女はまたケタケタと笑った。私の本当の気持ちだったのに、気を使ったように聞こえたのかもしれない。どんな言葉を使えばうまく伝わるのかわからなくて、私はまた言葉に詰まる。

「けどね」

 流花さんは私の弁明を待たずに、言葉を継いだ。

「けど、櫂先輩が嫌われるのはイヤ。私のことや無邪気なあの三人のことなんてどうでもいいの。私は雨宮さんに櫂先輩を理不尽に嫌って欲しくはなくて、苦しそうにしているあなたに声をかけた。だからごめんね、私はそんなにいい子じゃない。あなたがもしも家族や、勉強や、将来のことに悩んで俯いていたのなら多分――ううん、絶対に見放してたはずだから」

 彼女が缶をこちらに向ける。一瞬、何をしているのかわからなかったけど、乾杯のポーズだと気づいて私も缶を彼女に向けた。

 ぶつかった缶が小気味いい音を立てる。

「このコーヒーはもしかしたら私の罪悪感の表れかな。償いだと思って受け取って」

 彼女の償いはまだ暖かかった。私はようやくそのプルタブを引いて、口をつける。

「どんな味?」

「うーん、コーヒーの味かしら」

「私たち気が合いそう」

 自分が笑えていることに気がついた。彼女もそれに応えてくれる。

「私は流花さんの三つ編みも素敵だと思う。そのピアスもね。私は今時のお化粧やおしゃれってさせてもらえないから、いいなぁって前から思ってた」

「さっきの意趣返しでしょ。ダメだよ。私のこの髪は櫂先輩がショートが好みって分かった時点で切っちゃうつもりのものだから。でもそうだね。ピアスはお気に入り」

「あら、もったいないよ。せっかく似合ってるのに」

「私が髪を切ったらもう褒めてくれないの?」

「似合っていたら、かな」

「雨宮さんって、手厳しいよね。嘘は言わないけど、お世辞も言わなそう」

「必要があれば、使うわ。それくらいには大人になったつもり」

「高校生って子供じゃないよね。急に世界がちっちゃくなって、なんだか損した気分になる」

 流花さんの言葉は、私の実感と重なった。そうして見えてきた世界や社会や周囲への諦めが一つ増えてゆくたび、人は、私は大人びていく。大人になるということは、きっと前に進むことなんかじゃなくて、横に広がっていくことなんだと思った。

「そろそろ行きましょ。長居すると体を冷やしちゃいそう」

「ありがとう、でも流花さんはここまででいいよ。もう私一人でも保健室に行けるから」

「そう、ならお別れね」

 流花さんに手を引かれて私は立ち上がる。

 繋いだ手の暖かさに触れて、ふと気がついた。

 こうして人と砕けた会話をするのはいつ以来のことになるだろうか。学園に入学してからの記憶には、少なくともどこにもなかった。

 名残惜しさを感じながらも、二つの手が離れる。持っていた透明な温度は空気に溶けて消えていった。

 階段を降りようとする私と、階段を登ろうとする流花さんが一瞬交差する。

「さっきは建前だったけど、」

 数段離れた距離感で、彼女はこちらを向いていた。

「今は本当に、雨宮さんと友達になりたいなって思ってるの」

 流花さんの言葉が嬉しくて、眩しくて、

 私はすぐに答えようとしたのだけれど、

 応えようとしたのだけれど、

 彼女の続く言葉の方が一歩早かった。


「私、もうすぐ友達失う予定だから」


 パタパタと彼女の足音が遠のいていく。

 結局私は何も告げることができずに、冷たい階段に取り残された。

 うまく受け止められなかった言葉が、消化不良を起こして胸をかき乱している。

「……保健室に、行かないと」

 押し寄せてくる不安から逃れるように、私は無理矢理足を動かして前に進んだ。

 しと、しと、しと、しと……。

 遠くで降っていたはずの雨が、私を濡らしているような気がした。




 ******




 遠くでチャイムが鳴っている。

 何時になったのだろう。毛布を頭の先まで被った今の私にはそれを確認する術はなかった。

 覚醒しようと動き出した頭の痛みが、今まで自分が眠っていたことを教えてくれる。

 そうか、私は保健室でベッドを借りて横になっていたんだ。

 今朝から体調が良くないのは本当だったから保健室の先生も疑うような素振りはなくて、人の優しさに甘えるように私は意識を手放したのだった。

 ぼんやりと夢を見ていたような気がする。意識の上澄みにその輪郭がまだ窺える。けれど思い出すのはすぐに諦めた。手繰り寄せようとすればするほど遠くへ逃げていってしまうのが夢の常だから。それならば、認識できなくともそばにいてほしい。

 毛布から顔を出すと、見慣れない真っ白な天井が目を引いた。

 落ち着く彩度の模様のない面は、絵の具が触れる前の無垢なキャンバスを思わせる。

 まだどんなものでも描くことができるその白を、筆を取る前にじっと眺めているのが私は好きだった。

 構図を考え、線を引き、色を塗って、影を重ねる。

 目の前のキャンバスの未来を想うとき、画家は時間の概念を超越しているのだと思う。私たちのやっていることは、何度も行き来した可能性の分岐と並行世界の終端を記憶して、あとはゆっくりと時間をかけて丁寧に筆を動かすだけなのだ。

 もちろん簡単じゃない。誰にでもできることじゃない。だから価値のあること。

 カラカラカラ、と部屋の扉が開く音がした。誰かが保健室に入ってきたみたいだった。

 私は息を潜める。ここはカーテンで仕切られているから、向こうからは見えないはずだけれど、それは私の方からも同じことが言えた。私が把握できるのはこの小さな四角い仕切りの中だけだ。

 見えないけれどすぐそばに誰かがいることの緊張が私の体を強張らせる。

 時間が経っても、仕切りの向こうで会話が始まる気配はなかった。

 先生はいないのだろうか。

 カツ、カツ、カツ、という硬い足音が少しずつこちらに近づいてくる。

 正面を横切って、右の辺に沿うように、私のすぐそばに。

 音が途切れた。……ということは、立ち止まったのだろうか。

 私は音を立てないように顔の半分まで毛布を引き上げて、目だけでそちらを覗いた。

 クリーム色の厚い布が揺れることもなく垂れ下がっている。

 不思議じゃないけど、不気味だった。

 人の、気配がしないから。


「雨宮竜乃さんね。ここにいるって聞いたのだけれど」


 カーテン越しの籠もった声が、私の名前を呼んだ。誰だろう。知らない声。

 返事をすべきかどうか迷った。できれば眠ったふりをして、誤魔化してしまいたかった。

 それができなかったのは、続けて声の主の目的が聞こえてきたからだった。

「あなたの絵についてインタビューさせてもらいたいの。もちろん体調が良くなっていればだけれど、どうかしら」

 興味があったから、というのは間違いだと思う。私はインタビューなんかに関心がない。

 興味を持ってくれたから、私の体は起き上がった。私に。私の絵に。

 内履きに足を通してカーテンに手をかけると、開きかけた隙間から鋭い閃光が走って目を焼いた。

「きゃ」

「あら、ごめんなさい。悪い癖が出ちゃったわ。この写真は使わないから安心して」

 光の中で誰かが近づいて、私の前に手を出した。まだ事態が把握できるほど視界が戻っていないまま、私は手繰るようにしてなんとかその手を掴んだ。

「よろしくね、雨宮竜乃さん。私は小袖こそで咲依さより。新聞部の部長で、開帝通信の編集長よ」

 微笑む彼女の両目とは裏腹に、首から下がる大きなカメラはこちらを睨みつけているように見える。威嚇しているようにも。

「雨宮です。あの、御堂みどう賞のことについてでしょうか?」

「その通りよ。結果の発表がとうとう来週に迫ってあなたもドキドキしているんじゃない?」

 小袖さんに促されて、私はベッドに腰をかける。彼女の方は近くにあった丸い座面の椅子を近づけて、私の正面に座った。胸元の手帳に手をかけてペンを構えた姿勢はとても様になっていて、学生ではなく本物の記者なんじゃないかと錯覚しそうになる。

「こんなところに押しかけてしまって、ごめんなさいね。体の具合はいかがかしら?」

「朝から休ませて頂いたので、もう大丈夫です。」

「無理をさせるつもりはないの。辛くなったら正直に伝えてね」

 私は小さく頷いた。緊張に震える手を隠すように毛布を膝にかける。

 いつもこうだった。

 絵の話をするとき私の体は――もしかしたら心は――他の誰より臆病になる。

「綺麗な黒髪ね。そこまで長いと手入れも大変じゃない?」

 小袖さんはそんな私に気付いてか、どこかで聞いたような褒め言葉から会話を始めた。

「髪は父譲りなんです。切ることを許されなくて、ただ伸ばしているだけなんですけれど」

「あら、するとその目はお母様似ね」

 私にオランダの血が混じっていることを、この人は知っているのかもしれないと思った。

 記者は取材の前に入念な下調べを行うというけれど、彼女はどこまで私のことを知っているのだろうか。

 不思議なことに、まだそこまで会話もしていないと思うけれど彼女の手は止まることなく何かをノートに書き留めている。

「雨宮さんは……一年 B組よね。最近何かと耳にするクラスだわ。入学して半年ほど経つけれど、教室には馴染めたかしら?」

「はい。あの、そうですね……、はい」

 今朝のことがあったからか、口をついて出た返事は自分でも驚くほど歯切れが悪かった。

「まぁ、色々あるわよね。いいわ。本題に入ってしまいましょうか」

 小袖さんは空気を替えるようにそう言って、姿勢を正した。

 本題。つまり御堂賞について。

「本職であるあなたに説明するのも釈迦に説法というものでしょうけれど、この場での認識を共有するために回りくどい言い方をするわね」

 小袖さんの手元でノートのページが一枚戻る。

「御堂賞は一昨年できたばかりの新設の絵画コンテストね。今年で第三回。名前からも分かるけれど、開帝の伝説にして英雄でもある御堂薙が、入学して二週間しか所属していなかった美術部で描いた絵が瞬く間に世界で評価されたことに端を発して作られたの。信じられないスピード感よね。普通そういうものができるのって、卒業してからじゃないかしら」

 小袖さんはそんなふうに言ったけれど、普通というのならばそんなものは卒業したって作られない。この学校の人は私を含めて少し感覚がおかしくなっているのかもしれない。

なぎの絵を見たことはある?」

 御堂先輩の名前を呼ぶ小袖さんの口ぶりからは、御堂先輩との距離の近さを感じた。少し、羨ましい。

 私は首を横に振る。

「あら、いい刺激になると思うわ。けれどどうかしら、あれを見て影響されるのが怖いという気持ちも分からなくはないわね。呑み込まれてしまいそうになる迫力があるもの」

「見れるんですか?」

「ええ、いつでも。パリに行けばね」

 聞いたことがある。

 御堂先輩の絵のために、ルーブルの一角に特別会場が設置されているんだとか。

「新設のコンテストとはいえ、御堂賞には日本中の高校から作品が集まっているわ。総数は数千点とも、それ以上とも言われている。その中で最終選考に残っているのはたった五作品。その内の一つが雨宮さんあなたのものね。一年生で残っているのはあなただけ。当然よね。他の作品は年単位の制作期間を充てているのがほとんどだもの。大したものよ。本当に」

「ありがとうございます。けど、まだ結果が出ていないので……」

「狙うは最優秀賞のみってことね。見た目より野心家なところは好感度高いわ」

 ペンが動く。

「雨宮さん、あなたにとっての御堂賞がどんなものなのか聞かせてもらえるかしら。なんでもこのコンテストに向けたあなたの作品制作は鬼気迫るものだったって、部員の間では騒ぎだったらしいじゃない」

「それは、他の部員から聞いたんですか?」

「えぇ、あとは顧問の先生方から」

「そうですか……。私、絵を描いているときにはあんまり周りを見てなくて、他の誰かに作業を見られているっていう意識がなかったのかも知れません」

「周りの評価は正当なようね。安心して、みんなあなたを尊敬していたわ。実力も認めてる」

 小袖さんの言葉に、私はほっと息を吐く。

「御堂賞は特別なんです。本当のところを言うと、私この賞のために開帝を選びました。もちろんどこの高校にいても応募はできるけれど、選考された作品が展示されるのは開帝だけなので、絶対にここへ来たかった」

「他の誰かならともかく、あなたならそう驚くことではないのかもしれないわね。事実、確かな実力で夢をもう目の前にしているんだもの」

「夢……。そうですね、そうかも知れません」

 私は半分ほど開いたカーテンの向こうで、今も降り続く雨が窓を叩いているのを見つめた。

 夢。私が叶えたいもの。

「目に留めて欲しい人がいるんです。そのために私にできることは、絵を描くことだけだったから」


 御堂先輩は、雲の遥か上の人。

 どんなに手を伸ばしても、どんなに背伸びをしてみても、決して届くことがない。

 喉が焼き切れるほど叫んでも、その声すらも届かない。

 気まぐれで実在してしまった神様のような存在。

 集約されて固定化された質量のある奇跡そのもの。

 開帝の入学式で在学生代表として祝辞を読み上げているのを見た時も、

 校門の前で登校してくる生徒に挨拶を交わしているのを見た時も、

 全然、現実味がなかった。

 すれ違っても直接声をかけられても、目の前で起こっていることにはとても思えなかった。

 私が、私自身が、御堂先輩と同じ次元に存在していないような気分になるだけ。

 立っている座標の軸のずれを繰り返し知覚させられてしまうだけ。

 同じ空間にいることに、なんの意味も感じられなかった。

 彼女の視界に入ったところで、私は御堂先輩の学園生活に紛れる背景にしかなれない。

 物理的に近づいてもダメなのだと言うことは、初めからわかっていたことだった。

 他の誰かと変わらないただの生徒の一人として、御堂先輩に触れる自分を私は許せない。

 凡庸で平板で無個性な、そのままの私ではいられない。

 私は特別じゃなきゃいけなかった。

 それも家柄や、譲り受けただけの瞳の色なんかじゃなくて。

 確かな才能と、それを引き出す努力の持ち主として。

 御堂先輩の1パーセントでも、価値のある人間として。

 私は特別じゃなきゃいけなかった。

 その証明に、御堂先輩の名前を冠した御堂賞はうってつけだったのだ。

 評価されて競争に勝ち残り、私の絵が貼られれば、それは私の名前と写真と共に御堂先輩の目に留まる。


 その時初めて、雨宮竜乃は御堂先輩と、伝説御堂薙と出会うのだ。


「――さん。雨宮さん。ちょっと、大丈夫?」

 私を心配そうに呼ぶ声が聞こえた。

「あ、」

 視線の先で、小袖さんが私を覗き込んでいる。

「すいません。少し、ぼぅっとしてました」

「構わないのだけれど、やっぱり体調が戻っていなかったかしら?」

 必死に私は首をふって否定した。

「そう、なら続けるけれど……。いいわ、作品の話題に移りましょうか」

 また一枚、ノートのページが捲られた。

 それを、私は何処かピントの合わない目で見つめている。

「あの、小袖さんはご覧になられたんですか? その……、私の絵」

「ええ、見させてもらったわ。最終選考作品は結果発表の日まで一般公開されないものなのだけれど、編集長特権ね。あなたのものを含めて五つとも観覧させてもらったの。振りかざすつもりはないけれど、肩書きって偉大だわ」

「どう、でしたか?」

「正直に答えていいのかしら?」

 彼女と視線を合わせて、私はしっかりと頷いた。

「第一印象は……そうね、怖いと思った。幻想的な景色のはずなのに、どこかその世界が自分のすぐ隣にあってもおかしくないようなリアリティを感じて鳥肌が立ったわ。美しいとか、鮮やかとか、絵画に対していくつか寸評のための言葉を用意してはいたつもりだったけれど、私が浅かったことを思い知らされた。あなたの絵からはとにかく凄みが溢れていた。薙の絵を見ていないと聞いて驚いたわ。正直アレに近いものを感じたから」

「御堂先輩の絵と比べられるのは、恐れ多いです……」

「褒めているのよ」

 小袖さんは上品に笑った。

「さ、これは雨宮さんへのインタビューよ。私からも色々と聞かせてもらうわ。あなたの絵でまず強烈に目を引くのは、あの大胆な全体の構図よね。キャンバスを左右にバッサリと分割する発想は、一体どこから来たのかしら」

 私はほんの少し目を瞑って、自分の絵を瞼に映し出した。

 隅から隅まで詳細に思い出せる。それだけ私はあの絵と長い時間、強い想いで向き合ってきたのだから。

「相反する二つの世界をテーマに描きたかったんです。一つは此方こなた、もう一つは彼方かなた。二つは決して遠く離れたところにあるわけじゃなくて、隣り合わせに存在している」

「向かって右手の青い世界と、左手の赤い世界ね。そしてそれぞれから向き合うように手を伸ばす二人の人物。初めに受ける印象では、それらは全く違う場所、全く違う世界観を持っているように見えたけれど、じっくり眺めるとどちらにも共通したオブジェクトが散見されるわね。これらにはどう言った意味があるのかしら?」

 さっきの言葉と矛盾するように聞こえるかも知れませんが、と私は前置いた。

「二つの世界は、二つに別れているだけの同じ世界なんです。それぞれに同じものがあって、同じ人物がいて、もちろん互いを認知しあっている。ただ私たちが外から眺めると、それらには明確な違いがあって、世界を割る致命傷になっているんです。えっと、言葉にするのは難しいんですけど」

「致命傷、ね。素敵な表現だわ。いいの、言葉は私の専門分野よ。あなたがうまくまとめなくても、編集でどうにでもなるわ」

 小袖さんはペンで私の言葉を書き止めながら、何かに納得したように頷いている。

「質問を続けるわね。私があの絵を見た時、実はとても混乱したの。世界を分割する太い境界を見て、右から左へ見ればいいのか、それとも左から右へ見るのが正しいのかをずいぶん悩んだ。結局答えは出ていないわ。作者であるあなたの意見を教えて」

「いろんな見方をする人がいるんじゃないかって思いながら描きました。登場人物の捉え方も人それぞれになるかも知れません。例えば、二つの世界を単純化して天国と地獄に見立てることができますよね。すると、赤にいるのが天使に、青にいるのが悪魔になります。他にも暑い国と寒い国とか、明るい未来と暗い過去とか。極端な見方をすれば九十度傾けてしまって」

 私は頭の中でキャンバスを右へ回転する。

「海底に沈む人と、それを助けようと手を伸ばす人、とか」

 ペンの音が止む。私の言葉を小袖さんが引き継いだ。


「あるいはその逆に、海底に引きずり込もうとしているのかも」


 気持ち悪い寒気が肌を撫でて、私は毛布を強く握って膝にかけなおす。

 小袖さんの意見は興味深かった。私にはない発想だったから。

「なるほどね。つまりあなたは明確な世界観を提示したわけではなく、あくまで鑑賞する人間の想像力を掻き立てる作品を描いたと言えるのかしら。見るものに内在する心理情景を映し出す鏡のようなものね」

「結果的にはそうです。ただ、初めはもっと具体的な絵だったように思います。小袖さんの言葉を借りれば、私自身の願望が映し出された鏡だったのかも知れません。それが私にはとても醜く思えて……」

 御堂先輩。あの時の絵は、あまりにあなたに似すぎていた。

「それで、ぼかしました。絶望は青く。願望は赤く。良かったんだと思います。そうしなければ、あの絵は私の手を離れることはなかったかもしれないから」

「あなたの作家性、面白いわ。自分の中から何かを生み出す人って、合理的でない、といえば聞こえは悪いけれど、どこか周りとは違う価値基準を持っていることが多いわよね」

「どうなんでしょう。私自身ではよくわかりませんけど、自分と他人との違いの中に作品を見出す人も多いのかも知れません」

 楽しそうに小袖さんはメモを取っていく。

 質問の内容から彼女が私を特殊な人間として扱おうとしているのはわかった。そうでなければ、これから書く記事に価値が生まれないから。けれど私には、こうして学生の身でありながら記者であるということを体現している小袖咲依という人間の在り方も、同じくらいに特殊に思えた。

「絵の話、面白いですか?」

 私の口が唐突に、そんなことを聞いた。やめておけばいいのに。

「あら、不安にさせてしまったかしら」

 小袖さんがこちらを見つめる。

 そうじゃないんです、と私は答えた。

「小袖さんは絵画に特別詳しいわけではないですよね。毎日たくさんのジャンルの全く違う事柄に目を通して、記事としてまとめているはずです。だから、ふと思ってしまって。絵の話は面白いのかなって。それとも記事としてどうまとめるかを考えることが、楽しいのかなって」

 ペンを動かす手を止めて、彼女は少しこちらに体を寄せた。

「私の編集長としての仕事に興味を持ってくれたのかしら。そうね、記者の答えとしては後者と言いたいところだけれど、そこまで単純ではないわ。いえ、逆に単純なのかもしれない」

 自身の中で何かを納得したように頷く。

「この世界って、いろんな分野があるでしょう。絵画、造形、建設なんかの芸術、野球やテニス、陸上のようなスポーツ、他にも学術系や料理、それからゲームやアニメ等のサブカルチャーも含めて、本当にたくさん。そしてそのそれぞれに身を浸して生きている人々がいる。彼らはみんな独自の価値体系を創造することで、私たちにはわからない何かで一喜一憂しているのよね。野球を例にあげるけれど、知らない人からすれば点数に繋がらなかったけれどいいプレーだった、なんて言われてもちっともピンとこないわ。でもそういうものは存在する。私はそこで生きる人にしか分からない良し悪しを図る物差しを理解したいの。平たく言ってしまえば好奇心そのものだけれど、それを私が他の誰かにうまく説明できたら素敵じゃないかしら」

 小袖さんが自分の手帳を、そっと数ページめくる。

「雨宮さんの絵を見て、私はいくつか勉強したのよ。例えば、あなたが油彩に拘っているというのを他の部員から聞いていたから、水彩と油彩、他にいくつかある画材でどう違うのか調べたわ。そうして、すぐに納得できた。油彩は乾くのが遅い特性があって、グラデーションを描くのに適しているのね。キャンバスのほとんどを青か赤の濃淡で表現されたあの絵には、確かにぴったりだと思った。そう思えた瞬間が私の喜びなの」

 つまりね、と続ける。

「先の質問に答えると、私はあなたと絵画の話をするのが面白くてたまらないわ」

 にっこりと、本当に上品に小袖さんは笑顔を作った。

「よかった。すいません、変な質問をして」

「もちろん、構わないわよ」

 彼女の笑顔が眩しすぎて、私は伝えることができなかった。

 私が油絵の具を使うのは、単に雨に溶け出してしまわないためだということを。

 しと、しと、しと、しと……。

「あの、こんなことを小袖さんに聞くのは違うと思うんですけど」

「なにかしら?」


 しと、やめておけばいいのに、


 しと、しと、しと、やめておけばいいのに、


 しと、しと、やめておけばいいのに、


 聞いた。


「私、御堂賞に選ばれるでしょうか?」


 あーあ、


 しと、しと、しと、やめておけばよかったのに、


 しと、しと、やめておけばよかったのに、


 しと、しと、しと、しと、やめておけばよかったのに、


「――いかもしれないわね」


 しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと……。

 雨音が私を薄汚い言葉で侮辱する。

「他の作品の感想を話すつもりはなかったのだけれど、あなたが気になるのは当然ね。正直なところ圧巻よ。技術や完成度はもちろんだけれど、どの作品からもすごく強い印象とテーマ性を感じた。さすが最終選考よね。雨宮さんの絵を含めて、どれが選ばれてもおかしくないし、必要な魅力を備えているわ」

 しと、しと、しと、しと、

「それでいけば、あなたが獲る確率は五分の一。いえ、その中でもあなたはやはり少し抜けているかもしれない。だから見込みとしてはもう少しあるかもしれないわね」

 だけど、と雨が続けた。

「審査員はそれぞれの絵を誰が描いたのか知っている。もちろん安易に忖度をすることはないわ。御堂の名前がつけられたこのコンテストで、選ぶ作品の実力に妥協をすることなんて許されない。けれど、五人それぞれの作品が相応しいとなった時……、」

 先に交わした会話が脳裏をよぎった。

 ――一年生で残っているのはあなただけ。

「雨宮さんにはあと二年ある。それを加味すると、」

 しと、しと、しと、しと、


「――いかもしれないわね」


 思わず私は立ち上がっていた。

「そんな! そんなのっておかしいです。初めから私は同じ土俵に立ててはいないってことですか?」

「そうは言わないわ。ただ、今年の御堂賞は総合的なレベルが高すぎたのよ」

「……私が、一年生だから?」

「気に病む必要はないの。だってこれは、」

 あなたにはどうしようもできなかったことなのだから。

「そん、な……」

 悔しさで涙が込み上げた。

 私には来年も再来年もあるから、今年はどこかの誰かに賞が渡る。私の名前も、私の写真も、最終候補作品の作者の一人として公表されることになる。私の絵は、他の作品と一緒に小さく横に並べられて、御堂先輩の目に留まることはない。

 それじゃダメだ。

 私には、今年しかない。だって御堂先輩は三年生だ。

 開帝にいるのは今だけ。彼女はもうすぐ、世界に飛び立ってしまう。

 そうなってしまってからでは、全てが遅い。

 私の絵が、なんの価値もなくなってしまう。

 私は特別じゃなきゃいけないのに。

 誰よりも、評価されなきゃいけないのに。

 彼女のいる開帝で、私は御堂賞を獲らなきゃいけなかったのに。

「そんなのって、ないですよ……」

 何を後悔したらいいのか分からなかった。

 産まれてくる時期なんて変えられない。

 他の道を探るべきだったのだろうか。

 そんなの無理だ。私はこうして絵を書くことしかできなかったはずだから。

 私はこれ以上、作品に何を込めたら良かったのだろう。

「雨宮竜乃さん、あなた……」

 小袖さんが私を呼んだ。取り乱す私に、言葉を選んでいるように見えた。

 今の私に、慰めなんて届かない。

 私にとって、絵なんて手段だった。

 それしかなかったから、没頭したというだけのこと。

 欲しかったのは結果だった。

 それはつまり評価であって、私が特別であるという証。

 御堂先輩のそばにいてもいい私に、なりたかったのに。

 私には、それだけだったのに。


「なんでも、できるかしら」


 一瞬、それが小袖さんの口から発せられたものだということを疑った。

 意味を理解する前から、彼女らしくない、と思ったからだ。

「え?」

 私は聞き返す。

「例えば、雨宮さんの家庭は所謂いわゆるお金持ちよね。開帝の財務に一部関わっていることも聞き及んでいるわ。あなたは御堂賞をその手にするために、お金を積むことを強要されたら迷わず差し出すことができるかしら? そうして獲った賞でも価値を受け入れられる?」

「でも、さっき小袖さん言ってたじゃないですか。コンテストの審査員が安易に忖度をすることはないって。お金なんかで――」

「その通りよ。だから私が聞いているのは覚悟の話。雨宮さんに、今年の御堂賞を獲るためならなんでもできるのかを確認したいの」

「言っていることが……、わかりません」

「あら、本当に?」

 小袖さんの目が、私を射抜くようにこちらを見つめている。

「私が何かをすれば、穫れるんですか?」

 御堂賞を。特別な評価を。彼女の横にいる権利を。

 小袖さんが、今までと同じように上品に笑った。

「簡単ではないわ。目的が大きいほど、必要な犠牲も相応に膨れ上がっていく。けれど、なんでもできるとなれば、怖いものなんてないわよね」

 あなたにその覚悟があれば。

 言葉が頭の中を反芻している。

 あなたにその覚悟があれば。

 目的と犠牲。

 私は、

 力なく重力に逆らっていた膝を、床に落とした。

 両手もついて、這うような姿勢を作って視線を落とす。

 衛生的でないことなんて、私の頭のどこにもなかった。

 ただ、誠意を示すために、白い白い床に額を擦り付ける。

「私にできることがあるのなら、なんだってやります。どんなことでも、何が犠牲になっても構いません。私に、」

 雨宮竜乃に、

「御堂賞を、獲らせてください」

 しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと、しと、

 私を叩く雨音が強くなる。強くなっていく。

 雨が私を呼んでいるのだろうと、そう思った。

 冷たい手が、私の肩に優しく触れる。

 顔を上げた。

 小袖さんの笑顔がすぐそばにあって、

 それは私の耳を食べてしまうくらいに近づき、

 そして小さな小さな声で囁いた。


「あなたの覚悟は伝わった。おまじないを教えてあげるわ」




 ******




「お、雨宮さん。今日はもう上がるの?」

「用事があって部活はお休みさせていただきます。顧問の先生にも伝えていただけますか?」

 時刻は十六時二十五分。

 一日の授業が終わって美術室に入ってくる先輩部員とすれ違った私は、断りを入れて部屋を後にした。

 ぺちゃんこの鞄を抱えて階段を降りる。駆け出してしまいそうな自分を必死に抑えて、一段ずつしっかりと踏みしめた。

 たくさんの生徒とすれ違う。開帝学園には優秀な人間しかいない。

 私にはできないことをいとも容易くやってのける人たちばかりで、入学してからこれまでの私は静かに萎縮いしゅくしていたように思う。

 けれど、今は違う。

 私は、私にしかできないことを成し遂げた。

 あとは認めてもらうだけ。御堂先輩に、気づいてもらうだけ。

 特別棟と普通教室棟を繋ぐ渡り廊下の真ん中で、私の体は立ち止まった。

 白く広いだけの、今は何もない壁に手を触れる。ひんやりと硬い感触が私を押し返す。

 ここに来週、私の絵が展示される。名前と、写真が添えられて。

 その景色を眺められないことだけが、ほんの少しだけ心残りだったから、多分ここへ来たのだろう。

 瞼を閉じて、真っ白な壁に絵を重ねる。

「御堂先輩、私の絵を見てなんていうんだろう」

 ちっぽけな私にあの人の考えなんてわかるわけがなくて、それでも想像するだけで心がわくわくしていくのを感じた。

 不安なんてどこにもない。

 私は、大丈夫。全部、大丈夫。

 壁から手を離した。ここにはまだ何もないから。

 私は未来を作るために、廊下をまた歩き出す。

 

 しと、しと、しと、しと……。


 生徒玄関で靴を変えて、私は鞄から折り畳みの傘を取り出した。

 開きっぱなしの扉を抜けると、雨の匂いが鼻腔をくすぐる。雲に覆われた空は驚くほど暗くて、時間はまだ早いのに夜の気配が漂っていた。

 歩く。

 傘を叩く水音が頭の中をかき乱す。

 支配されないように、私は御堂先輩との出逢いを思い出していた。


 あれは、二年前のこと。

 世間では連続吸血通り魔事件というのが騒がれていて、暗い夜道には私以外の誰もいなかったはずだった。当時の私は中学生で、塾の帰りで、親の心配を鬱陶しく感じていた私はちょうどSPを振り切ってしまったところだったのだ。

 年齢相応の反抗期だったのかもしれないし、偶然が起こる確率を軽視していたのかもしれない。テレビの中で、あるいはネットの中で、どんなに騒がれ噂されようが、それは全部自分から遠いフィクションのような物だと思っていたんだろう。

 得てして、私は出会ってしまった。

 鋭い牙を持ったヒトガタに。

 それからのことを私はあまり思い返したくはなかった。

 というよりも、恐怖の中で私はその経験を脳内に残すことを躊躇ったのかもしれない。

 濃い靄が被るように間の記憶は抜けていて、結果として私を助けてくれた人のことだけをよく覚えている。

 御堂薙、という名前は後で知った。

 気まぐれで実在してしまった神様のような存在。

 集約されて固定化された質量のある奇跡そのもの。

 ただ、全身に真っ赤な血を被って立ち尽くしているあの瞬間だけは、どこか寂しそうな一人の人間のように私には映って。

 孤独なのかもしれないと思った。

 彼女のそばにいてあげたいと、そう思ってしまったのだ。


 開帝の校舎から少し離れた公園で、私はようやく足を止めた。

 水はけの悪いコンクリートの地面は浅い池のように水を貯めていて、ローファーで踏むたびにパシャパシャと音がする。波紋がゆっくりと広がっていく。

 傘を首に挟んで抱えながら、鞄に入れていた絵筆を取り出した。

 部室から持ってきた毛質の柔らかいヤギの毛で作られた白い平筆。少し使い古して毛先が割れてはいるけれど、力の入れ方を工夫すればまだまだ使える私のお気に入り。

「ごめんね」

 あなたはこれからも、沢山のキャンバスを彩るはずだったのに。

 私は屈み、筆の先で自分の足元の水面に触れた。

 つー、と線を引くと波を立てて軌跡が残る。雨に埋もれて消えてしまわないのを、なぜだか私は不思議に思うことはなかった。


 しと、しと、しと、しと……。


 描く。絵書く。絵楽。

 筆が通った跡が、私の周りを埋めていく。

 水は青くない。雨は白くない。

 絵画として描くときとは決定的に全てが違っている。

 だってこれはおまじない。

 人に見てもらうための作品じゃない。

 誰にも見られてはいけないものだから、透明な画材はピッタリだった。


 しと、しと、しと、しと……。


 描き切った私は、立ち上がって呼吸を整えた。

 公園の街灯が時折明滅している。その光に照らされて、私の線が全貌を見せる。

 こうして俯瞰ふかんしてみると、なんだか地上絵にも似た、おかしな幾何学模様の集まりにしか見えなかった。

 あんまり美しくはない。まぁ、なんだっていいのだけれど。

 私は、小袖さんのいう通りのことをした。

 御堂先輩に見つけてもらうために、

 彼女の横にいられるために、

 あとは全てを犠牲にするだけ。


 抱えていたままの鞄を放った。

 バシャ。

 鞄は形を失って、飛沫を散らしながら水面に消える。

 跡形もなく、まるで溶けてしまったように。


 右手で差していた傘を投げる。

 バシャ。

 不規則に回転したあとは、鞄と同じことだった。

 跡形もなく、まるで初めからなかったかのように。


 しと、しと、しと、しと……。

 体に当たる雨音が、私を急かしている。

 しと、しと、しと、しと……。

 私がようやく溶け出すのを、喜んでいるみたいだった。

 少しも悔しくはない。

 だってこれは、御堂先輩のため。

 そのために必要な儀式。必要な犠牲。

 私が私であるために、私が私を捨て去る儀式。

 勢いよく地面を蹴った。

 ほんの一瞬だけ、私の体が宙に浮く。

 空に向けて手を伸ばした。

 強く、強く、届くはずのないものに、

 この指先が届くように。


「これからよろしくね、雨」


 バシャ。

 ――――。

 ――――。


  

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