―― 3 ――

 sakune¥labyrinth 〉result : no clear

 sakune¥labyrinth 〉failed 13 times

 sakune¥labyrinth 〉maze exit…



 ******


「ぱっとしない顔ね」

「それは犯罪心理学者としての所見かな?」

「知識も技術も必要ないわ。今日もダメでしたって、顔に書いてあるもの」

 水曜日の昼休みの始まり。驚くほどの速さで迷路をドロップアウトした僕は、案の定と言うべきか小袖こそで咲依さよりに絡まれていた。僕はもはや日課になっている夢の中の迷路の軌跡をノートに記録して、それを大して眺めることもせずにパタンと閉じた。

 僕の一連の動作が終わるのを待って、小袖さんが声をかけてくる。

「秀才朔根さくねかいが手も足も出ないなんて、一体どんなカラクリがあるのかしらね」

「文字通りの迷宮入りにならないことを祈っていてくださいよ。小袖さんは、今日も取材?」

「そうよ。内容は話せないけれど、別の人にね。少し都合が良くないみたいだからタイミングを図っているところなの。そうしたらちょうどあなたの寝顔が見えたから数枚頂いたわ」

 もはや彼女の象徴にもなっている大きな一眼レフが数回持ち上がる。

「今日は全然気がつかなかったけど」

「あら、私だって学ぶわよ。フラッシュを絞ったの。隙のないあなたへの対策としてね」

 小袖咲依は抜け目ない。

 まぁ都度都度あの強烈な閃光に目を焼かれるよりはいいのかもしれないけど、記事になるでもなく撮られた写真が一体どこでどんなふうに使われることになるのかはあまり考えたくなかった。

「ね、朔根くん。昨日も思っていたんだけど、机の上のそれってまさかお昼ご飯じゃないわよね?」

 目線を追って『それ』を確認する。銀色のパッケージが眩しく蛍光灯の光を照らし返す。

「あー……、そうだね。違うよ。うん、これは給水」

「そ、ならいいけど。それで済ませるつもりだったらどうしようかと思っていたわ」

「それより、小袖さん」

 苦し紛れに話題を変えるための呼びかけだったけれど、僕はちょうど彼女に会ったら聞こうと考えていたことを思い出していた。

「今朝から渡り廊下に張り出されている絵画のことなんだけど」

「あら、朔根くんからその話題を振られるとは思わなかったわ。芸術の分野にも造詣ぞうけいがあるなんて、あなたの欠点はどこにあるのかしら」

「いくらなんでも褒めすぎだよ。興味はあっても知識がある方ではないし、普段関心を持つのはどちらかといえば彫刻や建築なんかの立体物の方なんだ。それも近代美術は疎くて、もっぱらルネサンス期に傾倒けいとうしている」

「ふーん」

 小袖さんの顔がニヤニヤと歪んでいた。珍しく、記者としての彼女とは別の一面が出ているみたいだ。

「朔根くん、ダ・ヴィンチよりミケランジェロでしょ?」

 当たりだった。僕は何も答えなかったけれど、彼女にはそれで十分伝わったらしい。

「きっと私の方が浅学よ。どの巨匠も名前と年代、それから代表作くらいしか知らないわ。絵画についても機会があって少しは勉強したけれど、正直なところまだまだね。見る目を養っているところ」

「君の謙遜けんそんは居心地が悪いよ」

「あら私、そんなに嫌な女じゃないわ。いつかあなたに芸術の街フィレンツェを案内してもらうのもいいかもしれないわね。お互いこの学校を、無事に卒業できたなら」

 小袖さんが添えた最後の言葉が不吉に宙を漂った。成績も素行も問題のない僕ら二人が無事に卒業できないとしたら、一体どんな問題が起こると言うのか。

 問題、と言うより事件だろうか。

 こんな会話がまかり通るあたり、この学園はどこか狂っている。

「それで、渡り廊下に展示された御堂賞の最優秀作品の話だったわよね?」

「小袖さんも作品を?」

「もちろん見たわ。それも一般公開される前の選考段階の内にね」

 彼女の手腕と活躍からすればそれくらいの特権は当然のことなのだろうけど、小袖さんがさらりとこぼす言葉の中には時々爆弾が潜んでいる。いちいち反応はしないけれど、御堂賞の選考時の作品を拝むということは決してちょっとすごい程度のことではないはずだ。

「朔根くんには、あの作品がどう映ったかしら」

「あの絵、なんていうか」

 聞かれた言葉に、僕は思ったままの感想を口にした。

「技術は申し分ないんだけど、どこか不気味に見えなかったかな?」

 不気味。自分の口から出た文言ではあったけれど、それは強い言葉だと思う。

 ただ、それ以上に僕の覚えた違和感を適切に表せる表現を僕は知らなかった。

「あら」

 彼女は一瞬驚いた顔をして、それからすぐに記者としての顔に戻って手帳を取り出した。僕の目を覗き込むように体を乗り出して口を開く。

「とても興味深い意見だわ。ぜひ理由を教えて」

「さっきも言ったけれど絵画は僕の専門じゃないから、それを踏まえて聞いて欲しいんだけど。僕があの絵の前に立って、受け取った感情は二つあった。一つは圧倒されるほどの迫力、もう一つは違和感のある不完全性。実をいえば、作者が本当にあの絵を描き上げ切っているのかどうか疑ってしまっている僕がいるんだ。それくらい、何かが足りていないように感じる。どこか欠けてしまっているように感じる。あれで全てとはとても思えなかった」

 例えば鳥、と言われて羽を見せられているような。

 例えば家、と言われて扉を見せられているような。

 例えば人、と言われて瞳を見せられているような。

 それだけでは完結しない組み上げ前のパーツをメインディッシュとして出されたような気分に、僕の胸はずっと揺さぶられている。今日の迷路に集中できなかったのも、半分くらいはそのせいだった。

「不思議だわ。私としては想像もしていなかった感想よ。どちらかといえば少数派になるんじゃないかしら。それだけ私はあの絵の完成度の高さに震えたし、審査員の評価はほぼそれと同じ傾向だったから。そう……、つまり朔根くんからすると、あの絵は最優秀の座にふさわしくないと見えるのかしら」

「いや、そこまで言うつもりはないんだ。僕は他の作品まで見てはいないから比較してものを言っているわけでもないしね。ただ、あまりに違和感が強烈だったから、他の人にはどう見えているのか気になって」

 小袖さんにはそう言った。けれど僕自身わかっている。

 本当に不思議なことは、それだけ物足りなさを感じるあの作品に、なぜ僕の感情がここまで反応してしまっているのかということの方なのだった。どうしてこんなに固執してしまっているのかということの方。

 すっと絵の前を、通り過ぎてしまってもよかったはずなのに。

 僕はあの絵に吸い込まれるように立ち止まってしまった。

 小さく何度か頷いて、小袖さんは口を開く。

「絵の作者は、あの作品が見る人にとっての鏡になるんじゃないかと言っていたわ。人によってそれぞれ違う世界が見えてくると。聞いたときにはそこまで気に留めなかったけれど、あなたの言葉で少し理解できたような気がする」

 つまり、と彼女の口は続けた。けれどその先は僕が補完した。

「つまり欠けているのは僕の方なんじゃないかってことだね」

 足りないものがあるのは僕の方。

 不完全に見えるのも僕自身がそうだから、か。

 胸の底に落ちるものがある。だって僕は喪失者だから。

「納得する必要はないわよ。少なくとも私はあなたの口から出た感想が朔根くん自身に当てはまるとは思っていないし、究極的には絵画の感想に答えなんてないものね。好きか嫌いか、いいえもっと純粋に、好みかどうかってことが全てなのかもしれない。ちなみに朔根くんはどっちが好みだったかしら?」

 小袖さんに真顔でどっち、と聞かれた僕は多分はたから見ると困った顔をしていると思う。

「どっちっていうのは、なんのこと?」

「赤か青かよ。あの絵の話題なんだから、当然でしょ?」

「ちょっと言っている意味がわからないんだけど」

 あの青一色の絵の話で、赤……。思い当たるものがない。

 僕らの会話の歯車が、うまく噛み合わないのは初めてだった。

「私たち、本当に同じ絵の話をしているのかしらね。まぁ、それはまた今度ゆっくり聞かせてもらうわ。惜しいけれどタイムアップよ。ターゲットが動き出した」

 小袖さんの目は僕の後方のどこかを追いながら、けれど彼女の首はぐっと僕の耳もとに近づいて、囁くように言葉を告げた。

「面白い話だったから、少しお返しが必要よね。第一侵入口の鍵、今日は開いていたわ」

 一瞬だけ目と目が合う。可憐なウィンクを一つ投げて、彼女は僕の席から離れていった。

 止まっていたレコードがたった今回り始めたように、教室の喧騒が耳に届き始める。

 昼休みの残り時間を告げる時計の秒針が僕を急かしている気がした。

 大丈夫、まだ始まったばかりだ。

 屋上。そこに何かがあるはずはない。

 だって僕は事件直後の様子をこの目で見て知っている。

 だけど、

 それでも、

 消えた逆巻を探す手がかりは、あそこにしかないから。

 ロイヤルゼリーをおもむろに後ろポケットに突っ込んで、僕は賑わう教室を後にする。

 リノリウムの廊下を叩く硬い足音に少し焦りが出ているな、なんて他人事みたいに考えながら、僕は第一侵入口への道を急いだ。




 ******




 暑い。それから熱い。

 日光を直接浴び続けている屋上の縁に敷かれた金属製のフェンスは、熱反射率の高い白一色に塗装されているとはいえ短時間でも握っていられないほどに温度が上がってしまっている。腰より少し高めくらいの丈ではあるけれど、これをよじ登って乗り越えるのは不可能だろうと思った。たとえ……、それが死ぬためであったとしても。

 これは僕の持論のようなものだけれど、自殺をする際には致命の一撃、それのみで決める必要がある。即死でなくとも、手遅れなところまで。

 人は決意することをきっかけに頭の中でエンドルフィンが分泌されてハイになる。要はモルヒネを投与するのと変わらない効果を持つその脳内麻薬が多幸感を増幅させて、目の前のことに対して恐れを抱くことがなくなるわけだ。けれど時間は長くない。その一瞬の間に全てを終わらせられなければ――例えば手のひらの火傷なんかで自身の命のありかに気がついてしまえば、二十メートルの不可逆の跳躍を敢行しようとは思わないはずだ。

 月曜日にこの場所で起こった事件は自殺なんかじゃない。

 僕の仮説がより具体性を持って、代わりに真相がさらに深い闇の中へと逃げてしまうような気分だった。まるで迷路みたいだ。それはもはや僕の苦手分野と言えるモノ。

 肌をじりじりと焦がす日差しに耐えかねて、僕はいつもの日陰に体を移して腰を下ろした。スラックス越しに感じるコンクリートの無機質な冷たさが気持ちいい。

 屋上第三侵入口の裏。当然だけれど、僕の他に人はいない。

 少し前なら普通のことだった空っぽの隣に、今の僕はむず痒いような焦りを感じていた。

「逆巻……、君は一体どこに行ってしまったんだ?」

 思わず口に出していた。少し、僕らしくないなと思った。

 スマホで時間を確認して、まだ余裕のある昼休みに安心しながら取り出したロイヤルゼリーの蓋を回す。口をつけると中身はすぐになくなって、ぺちゃんこになった軽い包装が抜け殻のように手元に残った。淡白な食事。味気のない飲み物。僕の体はまたあの頃に戻ろうとしている。

 ブッ。不意に、小さな振動音が聞こえた。

 僕は首を振る。もちろん誰もいない。もちろん何もいない。

 ブッ。もう一度。

 振動と呼ぶにはあまりにも短い、鈍い音。

 ブッ。三回目にして、今度は音の発生源を特定できた。

 表を向けたまま床に置いていたマナモードのスマホが小さな警告を発している。

 画面には数字の鍵盤けんばんとエラー内容を示す文字列。


 ――パスワードに誤りがあります。


 不思議だった。僕は画面に触れていない。

 それなのにスマホは何かに反応して、鍵盤を光らせ数字を選んでいく。入力欄が埋まる。

 ブッ。警告。もう一度。

 初めに疑ったのはウイルスだった。何かおかしなサイトかメールに触れてしまって厄介なプログラムに感染してしまったのかと思った。けれど、身に覚えがない。

 何より不正にログインしようというだけなら、こんな原始的な方法でパスワードに総当たりをかける必要はないし、そもそも個人の端末に対して攻撃をするというのも大概非効率に思えた。現代なら多くの情報はスマホ本体ではなく、使っているアプリケーションのサーバーに保管されているのだから。SNSやチャットアプリなら疎い僕ですら使っているくらいだ。こうしてわざわざ僕のスマホを操作しなくても、アカウントを乗っ取る方が簡単で着実で有意義なはずだった。

 ブッ。そこでようやく気がついた。

 これは精密機器の中で起こっているエラーや故障やあるいは攻撃などではないという可能性に思い至る。

 そうでないとすれば。

 スマホが正常であるとするならば。

 目の前の景色がもっと単純で、もっと滑稽で、それでいて恐ろしいものへと変わっていく。


 もう僕の目には、

 

 

 何度も、何度も。


 冷たい汗が、頬を伝う。

 不気味な音を断続的に立てるスマホから距離を置くように後ずさった。

 それでも狭い小屋の中でのこと、壁を背にしてもそうは離れることができない。

 せいぜい一メートル程度。だから液晶が覗ける。数字が光って、また震えた。

「誰か、いるのか?」

 僕は目の前の虚空に向かって尋ねた。

 返事はない。すくなくとも、耳には何も聞こえてこない。

 ただ、スマホの画面は動きを止めていた。二桁だけ打ち込まれた状態で入力を待っている。

 僕の声が、スマホを触る何者かに届いたと言うことだろうか。

 それがいいことなのか、それともそうでないのか。うまく判断がつけられない。

「いる、のか?」

 再び問いかける。

 一瞬の沈黙。

 つまり、静寂はすぐに破られた。

 ガタガタガタガタ、と音を立ててスマホに数字が打ち込まれる。

 それは先ほどまでより無差別に、闇雲に画面を叩いているように見えた。

 恐怖で逃げ出そうとする心に、僕はなんとか無視を決め込んでその様子をじっと眺める。

 今目の前の出来事がなんなのかは全くわからないけれど、この学校で起こっているナニかに、僕はようやく直面している、と思った。これはチャンスなのかもしれない。

 頭の中で小袖さんの言葉が何度も反響している。


 ――紗香那さんを助けられるとしたら、

 あなた自身が危険を被るとしても何かをしたいと思うかしら。


 僕はそれになんと答えたのだったか。

 今がその時だと頭が理解している。

 決意することが重要だった。あとは勝手に分泌されるエンドルフィンの助けを借りればいいだけ。頭をフル回転させて、この場を僕が支配するための算段を立てる。

「1が『はい』、9が『いいえ』だ」

 まずは僕の言葉が通じている可能性を考慮して、僕はそこにいる誰かにそう伝えた。

「1が『はい』、9が『いいえ』。理解できるか?」

 もう一度発して、反応を待った。スマホの動きは止まっている。

 数瞬のヒリヒリした時間が過ぎる。やがて画面の中で数字が光った。

 1。理解できる、と僕は解釈する。

 つまり会話が可能な相手だと断定して、こちらが質問して二択を迫る形式での意思疎通が取れるということ。大きなハードルを一つ乗り越えた気がした。

 目の前の見えない相手を見据えて、僕は質問を続ける。

「君は僕に、危害を加える気があるか?」

 999、それからスマホが震えて警告が出る。

 連打したことに意味はあるだろうか。9はいいえ、つまり三重否定の可能性はあるけれど、その場合意味は同じになる。

 ほっと肩の力を抜いた。1であれば、僕は全力でこの場を離れるつもりだったから。

 だけどこの質問には9が返ってくる勝算が高かった。僕を襲うつもりなら、すでにいつでもやれたはずだからだ。

 少し余裕の出てきた頭で、次の質問を考える。

「僕からは君が見えないけれど、そこに、つまり僕の目の前にいるのか?」

 1。予想はしていたことだけれど、ぞくっと背筋が冷える。

「いつから? あ、いや、今のは忘れてくれ。僕が屋上へくる前からここに?」

 1。

「君は、幽霊か何かなのか?」

 1、 それから9。これはどう解釈するべきか。

「答えにくい質問だとおもったら、5を押してくれ。どちらでもない場合、あるいはどちらでもある場合。僕が質問を具体的にする努力をするから」

 5。素直な反応が返ってくる。

「君は人間か?」

 1。見えないけれど人間、という自認があるわけだ。

 それは矛盾している。少なくとも僕の常識では。

 それでも僕は返ってくる数字を信用して、考えを進めていくことしかできなかった。それに常識の外の出来事は今まさにここで起きてしまっている。否定する材料は残念なことにどこにもなかった。

 少しずつ、確信に迫る。

「この学校に関連する人?」

 1。

「生徒?」

 1。

「もしかして、僕の知っている人物なのか?」

 少しの時間がかかって、1。今の間は、考慮すべきだろうか?

 いや、相手に1と9の二択、5を含めた三択を強いている以上、こちらの解釈もシンプルであるべきだと思った。つまり、僕の知っているこの学校の生徒ということ。

 だけど、僕には見えない人間の知り合いなんていない。あれ、いないはず、だよな。

 言い換えてみる。見えない人間――ではなく、姿を消した知人――だとすれば。

 ……まさか、な。

「目玉焼きには醤油か、それともマヨネーズ? 前者なら1を、後者なら9を」

 他の誰かなら突飛でおかしな質問に聞こえるであろうことは覚悟の上で、僕はそう聞いた。

 返事は5。どちらでもあるか、どちらでもないか。

 つまり、

「オリーブオイルに塩とホワイトペッパー……、か?」

 1が光るのを見て僕はスマホを取り上げるように手元に引き寄せ、正しいパスワードを入力して床に置き直した。相手がいると思われる方向に画面を向けて、端末の操作を明け渡す。

 すぐに反応があった。

 ホーム画面の隅に配置している受話器のアイコンがタッチされ、現れた鍵盤が十一桁の見たことのない数字を羅列する。

 直後に着信音――そう思ったのは誤りで、僕の端末から流れているのは発信音だ。

 僕はスマホを手に取り、そっと耳元に近づける。

 場違いで機械的なメロディはすぐに途切れた。


「朔根先輩、私怒ってます」


 スマホのスピーカーから聞こえてきた声は、僕のよく知るもの。

逆巻さかまき、なのか?」

 問いかけながら、あたりを見渡す。空っぽの屋上にはやはり誰の人影もない。

「そうです。ここに来れば先輩に会えるかと思って。随分と待ちましたけど」

「屋上は昨日まで閉鎖されていたんだ。今日は鍵が開いているってことを知ったのはほんのさっきで……。いや、そんなことより、君は――」

「私怒ってます。先輩」

 普段の声より数段低い逆巻の声が僕の言葉を遮って威嚇した。静かな憤りを感じるけれど、僕にはその理由がわからない。

「怒ってるって、なんのこ――」

「それで済ませようとしてますよね、食事」

「あ」

 それ、というのがなにを指しているのか、姿の窺えない声だけの会話でも十全に理解できてしまった。逆巻さかまき紗香那さかながここにいるのなら、彼女の視線はきっと僕の横に転がるロイヤルゼリーの抜け殻に向けられているはずだ。僕がここにくる前から彼女は屋上にいたわけだから、全てを見られていたことになる。それを摂取したこと。他のなにも持ってはいないこと。

「これは、違うんだ。その、」

 口では適当な言葉でとぼけて、頭の中では必死に言い訳を考えた。

 実は君がいなくなってから食べ物が喉を通らないんだ、とか。いや、最悪だ。まるで彼女のせいにしているみたいじゃないか。

 それに、逆巻にごまかしなど通用しないことはよくわかっている。どうしようもなく情けない自分を軽蔑しながら、僕はため息と謝罪の言葉を順に口にした。

「悪かったよ。君に見られるとは思ってなかった」

 まるで親に隠れて悪さをした小さな子供のような気分だ。

 そんな僕に、電話越しに届く声は許してくれたのか少し怒りのトーンを落として語った。

「許しません」

 許されなかった。

「心配してるんです。これからのこと……、私がいなくなった後の先輩のこと」

 その声の儚さで、僕の胸に焦りが蘇る。

「まるでもうどこかへ消えてしまうようなことを言うんだな。逆巻、君の状況を教えて欲しいんだ。月曜日のことや、それからのこと。今、起きていること。実を言うと少しは覚悟をしている」

 彼女が生きている確率は希望を込めても50パーセント。その目算は、こうして話している今も変わらなかった。

 僕の目に映る君がここにいないから。

「私がこんな風に現れたら、もっと驚くかと思ってました。姿の見えない何者かに怯えて先輩が腰を抜かすところが見たかったのに」

「十分驚いてるよ。電話口の声が逆巻でなかったら、スマホを放り投げて逃げ出していたさ。でも、君かもしれないと思ってた。君であってほしいと願ってた」

「世間では死んでることになってるみたいですけど、私」

「半信半疑だったし今も否定できないけど、幽霊でもいいと思ってたよ。君と話せるなら」

 スマホのざらついた音声の向こうで彼女は小さくおどけながら「幽霊っていないらしいですよ」とよくわからないことを言った。

「なぁ逆巻、君は……死んではいないんだろ?」

 僕の声はひどく震えていて、とてもじゃないけれど格好がついていない。ただ、聞くなら今しかなかったと思う。このままずるずると普段のような会話で終始して、何もないままこれで彼女とのやりとりが最後になってしまうことが怖かった。

「あんまり、話したくないんです」

 逆巻紗香那はそう言った。

「だって聞いたら朔根先輩、私のこと探すでしょう?」

 そう続く。一瞬、理解が追いつかない。

 だって、僕が、君を、探すから。

 話したくない理由としては不十分な言葉に思えた。彼女の言うことをうまく解釈しきれないほど、今の僕は混乱しているのだろうか。

「探すって、当たり前じゃないか。君に何か良くないことが起きているなら、僕にできることはなんでもするさ。力になりたいんだ。だけど情報がなくて動きようがない。だから、」

「先輩、きっとそう言うだろうって思ってました」

 不思議と、僕らの目があった気がした。

「だって私、先輩の胃袋掴んじゃったから」

 ……うん? ま、まぁそうかな。

「先輩の考えていること、手に取るようにわかります。逆巻がいなくなったら、もうラム肉のミンチでペコリーノロマーノを包んだクセの強いチーズインハンバーグが食べられないって、思ってますよね」

「な、」

「それに時間が経っても緑が鮮やかなジェノベーゼソースの冷製パスタとか、かぼすと山椒を効かせた酸味の際立つチンジャオロースとか、もう一生食べられなくなるんじゃないかって考えてますよね」

 僕は彼女に違うとは言えなかった。違うけど、彼女の口調に随分熱が入っていたから。

「あとはお弁当用に匂いがキツくならないガーリックシュリンプや、旬の味覚を吟味して混ぜ込んだ五目ご飯もそう」

「待て、逆巻」

「大丈夫です。料理はちょっとコツをつかめば誰にだってできます。あとはレシピを覚えるだけ。いいですか、これから逆巻紗香那秘伝の調理法を伝えますから、メモをとってください。まずはラムの挽肉を精肉店で調達します。スーパーではまず見かけないので注意が必要です。それから――」

「待ってくれ、逆巻。そうじゃないんだ。料理の話は確かに嬉しいけれど、僕が助けたいのは君自身だよ。ラムのハンバーグが再現できても、君がいなくちゃ意味がない」

 こんなこと改めて言うことでもないだろうと思っていた。だけど電話の向こう側は不可思議に沈黙している。

「もしもし、逆巻?」

 呼びかけてみても、まるで困惑しているような不自然な息遣いが時折聞こえてくるだけだった。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。

 やがて、

「私がって……、どうして、ですか?」

 彼女はそう言った。なぜ僕が彼女を助けたいのかを問いかける言葉に聞こえた。

 わかってはいたつもりなのに、僕は逆巻紗香那の自意識の低さを侮っていたらしい。

 一つ深いため息をつく。誰もいない屋上の隅に柔らかな風が外から吹いて、キラキラと光を返す彼女の髪がなびく様子が見えた気がした。

「僕が君を助けたい理由がわかれば、今起きていることを話してくれるんだね?」

「先輩がそうやって私の逃げ道を無くそうとしてるのはわかります。けどダメです。だって危険なことなんです」

「僕はそんなに頼りないかな?」

「頼りないところもありますけど、信頼はしています。でも朔根先輩、傷付かずになんでもできる人じゃないから」

 逆巻は僕がこれまで出会った人間の中でもかなり鋭い方だと思う。自分自身のことを除けば、よく周りが見えている。だから彼女が言うのなら僕の本質はそうなのかもしれなかった。

 だけど、それはやっぱり僕が逆巻紗香那のために行動をしない理由にはなり得ない。

 少し考えて、僕は温めていた言葉を口にする。

「いいかい、逆巻。例えば魔法使いがいたとして、彼は手のひらから炎を出したとする」

 僕は右手を宙に翳してパッと広げてみる。もちろんこれは単なるパフォーマンス、何も起こりはしない。

「その炎は超化学的に生まれたもの、つまり魔法だ。だけど少し考えてみると、炎は乾いた紙にマッチで火をつければ同じように上がる。ライターやコンロならもっと自由自在に操れるだろう。それらの炎も、では同じように魔法なのかといえばそうじゃない」

 空を掴むように指を閉じた。

「魔法は、魔法使いが生み出すから魔法と呼べるだけの価値を持つんだ。僕はかつて、自分を見失いかけていた頃に逆巻紗香那に助けられた。でもそれは君の魔法に、料理に救われたわけじゃない。逆巻紗香那という魔法使いに僕は救われたんだよ。沈みかけていた僕は、君に掬われたとも言えるかもしれないね」

 彼女のいる方にあたりをつけて、僕は視線を定めた。

「僕は君を失えない。それは決して逆巻の料理に依存して生きていくつもりってことじゃないんだ。あの日の僕を救ってくれた君のためなら、僕は自分の全てを犠牲にしても構わないほどの恩を感じている。今度は僕に、逆巻を助けさせてほしい」

 電話口の向こうに僕の言葉は届いただろうか。正直、少し後悔しながら返事を待った。

 話を難解にするのは僕の悪い癖だ。彼女を助けたいと思う理由を説明するのに、本当なら魔法も恩も必要なかったはずなのだから。けれど端的に表そうとするには僕の彼女に対する感情は複雑で、掴みどころがないように思えた。僕自身、うまくわかっていないのかもしれない。小袖さんならズバリ一言で言い切りそうなものだけれど。

「朔根先輩……」

 消え入りそうな声で、彼女は言った。

「あんまりこっちを見つめないでください。似合ってないので。その、眼帯が」

「いや、見えていないけど。眼帯って、もしかして怪我をしてるのか?」

 スピーカーから、風を切るような雑音が聞こえた。多分首を振ったんじゃないだろうか。縦か横か、やっぱりそれは見えないけど。

「朔根先輩は、おかしな人です。他のみんなと同じように、私のことなんて諦めてくれたらよかったのに」

「本当にそれを望んでいるなら、逆巻はここには来なかったんじゃないか?」

「そんなことありません。私はただ、朔根先輩が心配で――」

「なら聞き方を変えるよ。君がもしも僕の立場なら、ここで笑ってさよならか? いい思い出だったって、能天気に明日を生きることができるか? それを僕が選べると本当に思ってここにきたのか?」

 硬く握りしめた拳に痛みが走る。もしかしたら、僕は少し腹を立てているのかも知れなかった。

「その質問はずるいです。朔根先輩、私のことを知ってて言ってるんですから」

「わかってるよ。けど話しただろ。君のためならなんでもするつもりなんだ。その程度で心は痛まない」

「わぁ、極悪人ですね」

「ひどい言われようだな」

 今度は逆巻から、ため息が漏れて僕に届いた。

「すごーく複雑なんです」

「覚悟してるよ」

「うまく伝わるか心配で」

「僕が聞き上手なの、知ってるだろ?」

「お昼休み、終わっちゃうかも知れませんよ」

「構わないさ」


「あと、もしかしたら、


 一瞬の躊躇がバレないように、僕は無理矢理口を開いた。

「それはどちらが?」

「私と、それから関われば先輩も」

「けど、何もしなければ君を失うんだろ?」

 沈黙が、正しく肯定を示している。

「ならやる。僕に他の選択肢はないよ」

「本当の本当に、私は先輩に危険な目に遭って欲しくないのに。先輩って時々頑固ですよね」

「それを言うなら君はいつも頑固だと思うけど」

 目には見えない彼女の気配が、微かに笑った気がした。


「私の知っていることを、全部お話しします。

 その中には呪いとか、死体とか、殺人鬼とか、

 突拍子もない言葉ばかり出てくるんですけど、

 全部この学園で、今起きていることなんです」


 スマホのスピーカーから発せられる逆巻紗香那の声に重なって、僕の静かな日常が終わりを告げる音がした。




 ******




 僕は目を閉じて、じっくりと逆巻の話す物語に耳を傾けた。それはほんのこの数日の間に、彼女が見て聞いて知ったこと。本当に話すつもりはなかったらしく、決して整ってはいない彼女の説明に、僕は時折質問を挟みながら一つ一つ自身の認識を改めていった。

 信じられないような話のそれぞれを、けれど信じる他はない。

 ここに彼女の姿があったなら、一蹴して笑い飛ばすこともできただろうか。無色透明で現れた逆巻紗香那の存在は突飛な言葉に問答無用で説得力を持たせることに成功していた。

 ――怪底かいてい、怪異、呪い。

 創作ならば傑作けっさくで、現実ならば滑稽こっけいな、それらの単語を語る逆巻の話は妙にリアルで胸をざわつかせる。僕らのすぐそばにある、僕らの知らない世界。本当の意味で頭が理解をするには、まだ少し時間が必要な気がした。

 それに比べ、あまりにわかりやすい脅威の話。

 ――首のない死体と、学園に潜伏している殺人鬼。

 例えば、邪悪な思念がいずれお前を殺すだろう、などと言われても正直ピンとこない世界観の僕でも、包丁で腹部を貫かれればどうなるかは簡単に想像できる。皮膚は破れて肉は裂け、骨は砕けて血飛沫が舞う。痛みと寒気を伴った苦しみの果てで、最後は死に到達する。

 ここが度々人の消える開帝学園でなければ、また捉え方も違っていただろうか。もしもの話が増えるのは、僕がまだ逆巻の話の全てを受け止めきれていない証拠なのかも知れなかった。

 話を終えた彼女は、僕を置いて屋上から離れた。もちろん離れるのを見てはいないけれど、離れると言ったのだから離れたはずだった。

 放心した様子の僕に、事態を咀嚼そしゃくする時間が必要だと考えたのかもしれない。

 僕はそれからえらく長い時間を、何も映さなくなったスマホの液晶を眺めて過ごした。何も考えていないような目で、何も理解できていないような表情をして、僕は自分の中の凝り固まった常識と戦っていた。

 構築していた仮説は意味をなさず、論理で展開する仮定は容易に否定される。ここにくるまで考えていたことの半分は誤りだった。半分は正しかったことが奇跡のように思えた。

 逆巻紗香那は自殺などしていなかった。

 けれど、あのフェンスを超えて校舎から落ちていた。

 逆巻紗香那は生きている。

 けれど、死んでいないというだけでゆっくりと終わりに向かっている。

 彼女の体は学園で殺された首無し死体と入れ替わり、どこかに消えてしまったらしい。それは犠牲の元に行われた死の回避であったという。

 ただ状況から言って、回避と呼ぶのはあまりに楽観的で、実際には一時的な延命に過ぎないと考えるべきなのかもしれない。彼女の諦めたような口調の正体はこれによるものだった。

 放置された人の体は、いずれ腐る。未だ暑気の残るこの九月の気候では、場所によってはすでに手遅れになっている可能性すらあった。考えたくはないけれど、直に日の光を浴びていたとすれば半日だって保たないだろう。

 事件があってから、ちょうど丸二日が経っている。条件が良かったとして、タイムリミットまでは長くないとみるべきだ。

 ただし、問題は時間だけではない。

 入れ替わりの呪い。それが具体的にどんな技術と概念によってなされたものなのかまでは、彼女の説明からはわからなかったけれど、とにかくそれは実行され、秘匿ひとくされていた死体は校庭に現れた。

 つまり、現在の逆巻の体がある場所を知っているのは、元の死体のありかを知る殺人鬼だけということになる。

 僕を巻き込みたくないというのはそういうことだったのだ。逆巻を探すということは殺人鬼に近づくということ。次に首を落とされるのは、運が悪ければ僕なのかもしれない。

 逆の立場なら、と告げた僕を彼女はずるいといったけれど、なるほどその通りなのかも知れなかった。僕が逆巻の立場なら、自分のために彼女を巻き込んで殺人鬼と関わらせることはできなかっただろうから。何も話さず、笑ってさよならを選んでいたのかも知れなかった。

 だけど全てを聞いた上で僕が後悔しているかといえば、もちろんそうじゃない。今はまだ何をすればいいのかわからないけれど、彼女のためにできることを考える余地は広がっている。情報に対する正誤の判断くらいはうまく行えるようになったはずだ。

 僕は立ち上がり、一つ伸びをして校舎内へ戻るために第一侵入口の扉へ歩き出した。

 容赦のない陽光が背中を焼いて、かいたそばから汗が揮発していく。昼休みはとうに終わっていて、僕は当面の課題としてどんな理由を述べて授業中の教室に入るべきかを考えながら金属製のノブを回した。

 扉を潜る。


「随分長い休憩じゃないですか。先輩」

 

 初めに目に入ったのは合成皮革のカバーに包まれた長物だった。あまり目にする機会はないけれど、中身は金属バットだろうか。僕が進む道を邪魔するように狭い通路を横断している。

 それは廊下の右手に立つ少年の腕から伸びていた。声の主も彼らしい。

「君は?」

 短く聞いた。彼の微塵みじんも隠そうとしない敵意に僕は身構える。

「一年B組の財部たからべ左門さもんって言います。あんたのことは知っているので、自己紹介はいりません。開帝の人気者、朔根櫂……先輩」

『人気者』の部分に皮肉をたっぷり込めて彼はそう言った。

 財部……か、割と最近名前を聞いた覚えがある。

「あぁ、確か練習試合でデッドボールの」

「それ、そんなに学園内で広まってるんすか?」

 財部少年が嫌悪感を全面に出して僕の方に視線を送る。いい話題ではなかったようなので口をつぐんだ。彼の用事はわからないけれど、あまり機嫌がよくないことだけは確からしい。

 僕は努めて冷静に、それはつまり彼をこれ以上刺激しないように言葉を選んで尋ねる。

「それで、見たところ僕は通せん坊をされているようだけど、何か用件があるのかな」

「いくつか聞かせてもらいたいことがあって来たんです。どうしても先輩から聞き出さなきゃいけないことを」

「授業をサボってでも?」

「授業をサボってでも。うちのクラスは今数学の小テスト中ですよ。単位算出に直接配分のある重要項目の一つですけど、それよりずっと大事なことです」

 軽口の間も僕を覗く財部の目は笑っていない。

 余計な会話は双方望むところではない、ということ。

「なにかな、聞きたいことって」

 一瞬、僕を取り巻く全ての音が途切れた。


?」

 センパイサカマキサカナヲコロシマシタカ。


 財部の攻撃的な態度の意味がようやくわかった。

 彼は僕を疑っている。そういう人間が出てくることは想定されていたことだった。逆巻と屋上というキーワードだけでも、容易に朔根櫂の名前が結びつく。僕だって立場が違えば同じ結論に至っていたはずだ。

 けれど答えはノー。僕は逆巻を殺していないし、彼女はその実、生きている。

「いいや。殺してない」

 ただ、僕は迷っていた。どこまで事実を伝えるべきか、どうすれば理解を得られるか。僕自身ですらきちんと受け止めるにはまだまだ時間が足りていない事柄ばかりだから。

「へぇ、もっと動揺するものだと思ってました。それが嘘でも、本当でも」

 彼にとって、僕の回答は当然のものだったのだろう。僕が犯人だったとしても殺したと答える理由はない。だから彼にとって重要なのは言葉ではなく反応であったはずだ。答える言葉を決めてから行う嘘発見機にかけられているような気分だった。嘘などついていなくても、ピリピリとした空気に緊張感が高まる。

「失礼だけど、君は逆巻とどういう関係なんだい?」

「それを聞いたら、さっきと返事が変わりますか?」

「変わらない。事実だからだ。けど他の質問に関してなら、僕の口も滑らかになるだろうね」

「なら期待して答えます。幼馴染ですよ。小さい頃からの」

 逆巻紗香那の幼馴染、財部左門。

 小袖さんから写真を見せられた三つ編みの親友の件もそうだけれど、本当に僕は逆巻の交友関係を全くわかっていなかったようだ。なるほど、彼女のために動いているのは僕だけじゃない。それは思いもよらず嬉しいことだった。

 だけど彼女のことを思えば、これ以上危険を犯す人間を増やすべきではないと考えるべきだろう。財部に伝える言葉はより慎重にならざるを得ない。

 ただ、友好的な関係は築けるはずだ。

「財部くん、君は――」

「俺、全然見ないんですよ。探偵モノの映画とか、ミステリー小説とか、あと名探偵なんとかって漫画もありましたよね。俺とは別の世界の娯楽だと思ってここまで生きてきました。だからセオリーなんてほとんど知りません。推理の基本もわかりません。そんな俺でも一つだけ知っている格言みたいなものがある」

 財部の視線がほんの僅かに逸れて僕をすり抜ける。その先はたった今出てきた屋上への扉。

「犯人は現場に戻るってやつ。単純すぎてまさか本当だとは思いませんでしたけど」

 瞬きを一つ挟んで、それからゆっくりと僕らの視線が重なった。

「先輩、逆巻紗香那を殺しましたか?」

 全く同じ質問。

「……いや。殺してない」

「今度はちょっと動揺しましたね」

 彼の手が、僕の行く手を阻んでいたバットケースから離れた。棒状のそれは重力にしたがって廊下にぶつかり、不規則に跳ねて硬い音を立てる。それを目で追っていたことで、僕は気付くのが遅れていた。

 視界の外からいつの間にか接近していた財部の拳に。

「ぐっ」

 不意打ちの一撃が僕の腹部を捉える。ノーガードで受けた重い衝撃が内臓を揺さぶり、痛みと重なって気持ち悪さが胸を満たしていくのを感じた。思わず膝をついて、倒れるのだけはなんとか堪える。

 込み上げる吐き気に意識を持っていかれそうになりながら、僕は財部を見上げた。

「もう一度聞きます」

 彼は僕の耳元に寄って、けれど囁くとは言い難い強い言葉で僕を殴った。

「先輩、逆巻紗香那を殺しましたか?」

 大丈夫。体は苦しくても僕はまだ冷静だ。それにこう見えて、喧嘩のやり方は知っている。

 ボディを狙った攻撃は致命傷にならない。ただ動きを止めるのには有効で、財部の狙いもそうだったはずだ。だから、二の矢は屈んで狙いやすくなった頭。

 瞬発的にかざした右手が、財部の拳を受け止めた。痺れるような衝撃が手のひらを覆う。

 驚いた表情を見せる財部の腕をそのまま払って、僕は立ち上がった。挙動をゆっくり見せることで警戒させ、腹に受けたダメージを回復する時間を少しでも稼ぐ。

「やるじゃないですか、朔根先輩。頭でっかちなヒョロガリだと思ってました」

「悪いけど、こう見えても優等生なんだ。体育ももちろんA判定だよ」

「なら手加減は要らないっすね」

 財部が左腕を大きく振りかぶりながら距離を詰めてくる。けれどおそらく、その動きはフェイクだ。初めのパンチから推測して、彼の利き腕は右。懐に隠しもったアッパーが来るはず。

「くっ!」

 とっさに後ろに飛んだ。とはいえ扉を背にした僕には下がれる範囲に限界がある。防御をするためにも、前に出るしかない。多少開いた間合いを利用して右のストレートをすり抜け、アッパーには先回りをして手のひらを重ねた。加速する前の勢いの無い左はそれで止まる。

 強引に撃ち込まれていれば危なかったかもしれないけれど、彼の諦めの早さに救われただろうか。

 ――いや、隠しているように見せていたものこそが、囮だとしたら。

 交錯した彼の顔が僕の真横で、不気味に笑った。

 地面を蹴る音、至近距離から突きあがるように飛んでくるのは膝だ。必死に両腕をクロスして直撃は防いだけれど、体重がうまく乗ったその攻撃は軽々僕を吹き飛ばした。宙に浮いた体が勢いよく扉に叩きつけられて大きな音を立てる。

「がはっ」

 肺の中の空気を全て失っても、なお僕の体は何かを吐き出そうと咳き込んでいる。痛みはほとんど感じなかった。そもそも僕は痛覚も鈍い。ただ体中の至る所が軋んで悲鳴をあげているのは感じ取れた。

 体の自由が効かないまま、耳はなんとかこちらに近づく足音を捉えている。

「これで俺も優等生ですか?」

 財部の皮肉は、すぐそばから聞こえた。

 正直に言って、僕は彼を過小に評価しすぎていた。有り体に言えば下級生だからという理由で舐めてしまっていたのかもしれない。成長期である僕らは生まれた年が一つ違えば力に相当の差があるはずだった。筋力も、判断力も、バランスも。それに僕には多少の経験がある。

 だから体格だって僕より少し小さいくらいの彼に、膂力りょりょくだけで持っていかれたのは予想外だったと言える。喧嘩慣れしているようには思わなかった。ただただ地の力に圧倒されている。

「先輩、逆巻紗香那を殺しましたか?」

「殺してないよ、財部。逆巻は僕にとってかけがえのない人だ。どんな理由があろうと、逆巻を傷つけるような真似はしない」

「なら、先輩は誰が紗香那を殺したんだと思いますか? まさかあいつのそばにいて、紗香那が自殺を選んだなんてふざけたことを言うつもりはないですよね?」

「それは、」

 僕は逡巡しゅんじゅんしていた。財部左門に逆巻本人から聞いた全てを話せば、彼は協力者に変わるはずだった。これ以上の暴力は不要になるし、あわよくば友人が一人増えるかもしれない。

 彼女を探すのにタイムリミットがあることも、僕の気持ちを揺らしている。人手はあればあるほどいい。これが普通の状況であれば、だけれど。

 頭の中では、見ることの叶わなかった逆巻の困った表情の顔がぼんやりと僕を見つめている。そう、だよな。彼女を前にしたら僕は頼れる先輩じゃなくちゃならない。

 本当は初めから、覚悟は決まっていたはずだ。

「逆巻は自殺したりしない。けど財部、この事件に君は関わらず、僕に任せてくれないか。必ず僕が逆巻を救うよ。彼女は帰ってくる」

「紗香那が、まるでまだ生きているようなことを言うんですね」

 初めて、財部の目に少しの困惑の色が浮かんだ。それは狙い通りで、言葉にあえて多くの含みを持たせたからだった。僕が彼より多くのことを知っていること。その上で、決して話すつもりはないこと。彼の理性は僕の意思を汲み取ったはずだ。財部の思考は読めないが、言葉の通じない相手だとは思わない。

 僕は僕のやり方でここをどうやって切り抜けるかを必死に思考する。

「逆巻は死んでない。今、僕が言えるのはそれだけだ」

「生きている、とは言わないんですね。そんな言葉遊びみたいなちっぽけな希望で、誤魔化さないでくださいよ」

 財部の左手が僕のネクタイを掴んで引き寄せた。彼の両目が数センチ先から僕を睨みつけてくる。怒りに塗れてはいるけれど、純粋な曇りのない瞳。

「先輩、やっぱり紗香那を殺したんじゃないですか?」

「殺してないよ。何度聞かれても答えは変わらない。事実だ」

「なら、どうして殴り返してこないんです? 自分で言うのもなんですけど、今の状況って朔根先輩にとってかなり理不尽だと思いますけど。憤慨ふんがいして仕返してこないのは、倒錯とうさくした自責の念があるからでしょ? 紗香那を殺したことへの」

「馬鹿を言うなよ。そんなんじゃない。ただ、幼馴染の君を殴れば逆巻は悲しむだろ? 彼女を傷つけないってのは、そういうことでもあるのさ」

 逆巻は財部が傷つくのをよしとするはずがない。――彼に真実は告げられない。

「僕に任せろよ、財部。君にやられてズタボロだけど、こう見えても開帝一の秀才にして開帝一の優等生なんだ。それも、開帝通信編集長のお墨付きでね」

 財部の目を強く睨み返した。それは彼に対する意思の表明だった。

「殺してないんですね」

「殺してない。僕は逆巻を傷つけない」

 ふっ、とネクタイにかかっていた張力が霧散した。僕の体は財部から離れるように重力にひかれて後ろに倒れる。金属の扉に支えられて、僕はなんとか崩れかけた姿勢を持ち直した。

「先輩の言葉は一つも信用できませんでした。隠し事ばかりで、綺麗事ばかりで」

 財部が背中を向けて、転がったままだったバットケースを拾い上げる。

「ここに来た時と同じ、俺はあんたを疑ったままだ。だけど、今日のところは引き上げます。頭を冷やしてもう一度会いにきますよ。その時は――」

 半分だけ、財部はこちらに振り返った。


「もう、手加減しませんから」


 ケースを床に引きずって、不快な音を立てながら僕の元から離れていく。その背中に、僕は精一杯の決意を投げかけた。

「その時は、きっと横に逆巻も一緒さ」

 そう、伝える。ただ負け惜しみではないにせよ、言葉は自信の現れではなかった。

 タイムリミットを考えると、そうでなくてはどのみち僕の負けなのだ。

 財部は足を止めず、そのまま廊下の先へ消えていく。

 まだ熱を持っている腹に左手を当て、不揃いな歩調を自覚しながら僕も自分の教室へ向かって歩き出した。保健室で手当てをすることも考えたけれど、理由を聞かれるのはあまり好ましいことじゃない。

 優等生のはずの朔根櫂が喧嘩をした挙句、後輩にぐうの音も出ないほどボコボコにされたとあれば、明日の開帝通信の見出しは決まったようなものだった。

「格好悪いなぁ、僕は」

 吐き捨てた言霊が無人の廊下を静かに彷徨う。

 朔根櫂が何かを成すことができたのは、もう遠い過去のことだった。例え、どんなに周囲からの評価が高くとも、どんなに他の誰かに愛されようとも、僕自身が今の朔根櫂の在り方を認められずにいる。

「逆巻……」

 君の言う通り、僕はずるい人間だ。

 利己的で、視野の狭い、中身が空っぽのヒトガタ。

 逆巻紗香那を、何を犠牲にしてでも救いたい、という気持ちに偽りはない。

 ただ、その想いの奥底で僅かながら考えてしまうのだ。

 君を助けることができたら、僕は朔根櫂を取り戻すことができるだろうか。

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