―― 2 ――

「……返信が来ねぇ」

 こちらから送った絵文字を最後に、手元のスマホは沈黙を守っていた。

 真智まちは薄情ではないにしろ、自分より他の誰かを優先するタイプではない。だから結果自体は想定していた範疇はんちゅうだった。来るかもしれないと思っていたし、来ないかもしれないとも思っていた。もともと教室にいないことをかんがみても、何か用事があったのかもしれない。

 チャットにあった『胃袋』はなんのことだかわからないけど。

 ただ真智が捕まる前提で予定していたいくつかの事柄が全ておじゃんになったことで、俺の動きは大分鈍くなっていた。その上これから教室に戻る、という気にはならない。

 さて、どうしたものか。一つため息をつきながらスマホをスラックスのポケットに戻す。

 とりあえず近くのベンチに腰をかけた。腰をかけた流れで横になった。長い座面に体を放り、曲げた片足を端に引っ掛ける。

 校舎の影になって直接日が当たることはないとはいえ、正午を回った屋外の気温はそれなりに高くなっていた。じわりと額に汗が滲む。

 真上に向けた視界の先では建物に遮られた狭い空を、白濁した雲が流れては消えてゆく。

 ぼぅっと眺めていると、底の知れない深い青に吸い込まれていくような錯覚に襲われた。

 ここから屋上までは大体二十メートルくらい、か。

 紗香那さかなの身に起きたことが、どうしても頭の片隅をよぎった。

 目を、瞑る。強いイメージが脳の支配を俺から奪う。


 突然放り出される空。

 しがみつけるものは何もなく、明瞭なままの意識が重力を見失う。

 ふわっと込み上げる気持ちの悪い三半規管の混乱。一瞬の停止。刹那の静寂。

 そこから、

 徐々に加速していく視界。流れる景色。耳をつんざく風切音。

 近づく終わり。目の前の終わり。そして終わり。終わ。終。

 自分より硬いものにぶつかる衝撃。鈍重で汚い耳鳴り。衝撃を受けて形を崩す体。

 増大していくエントロピーを観測する自分。経験する自分。認識する自分。

 体に遅れて砕ける自分。潰れる自分。はみ出す自分。散らばる自分。

 自分を保っていたはずの引力に裏切られ。

 自分を象っていたはずの縁取りに背かれて。

 自分では無くなった右腕を遠巻きに眺めている。

 ふと、考える。

 眺めている自分とは、ひしゃげて歪んだこの頭のことだろうか。

 それとも破れてちぢれた心臓か。

 他よりは大きな塊を残した胴体か。

 あるいは独立をえらんだ瞳のことか。

 悲惨な事故と飛散した自己に、概念化されていく自分。抽象化していく境界。

 世界中の全てのカタチが微小の粒子で構成されていることを思い出す。

 そのどれか、が自分なのか。

 どれだけ集まれば、自分なのか。

 あるいはどこにも自分などいないのか。

 見失う。見損なう。見違え、見誤る。

 絶望が、胸に開いた穴を再訪する。

 砕けたカケラをどこまで拾えば、それを紗香那と呼べるだろうか。


「ぴと」

 ふざけた擬音が耳に届くのと同時、閉じた瞼の上から何かが被さった。

「……つめてぇっ!」

「おお、元気だね。財部たからべくん。もっと失意に暮れているのかと思っていたけれど、それなら私の出番は必要なかったかな?」

 反射的に跳ね起きた体を振ると、ベンチの背もたれの向こうに見知った顔があった。

 相も変わらずケラケラと笑いながら、その目は俺より少し上を眺めていて――

「のわ!」

 目線を追った俺の頭上に何かが落ちてくる。反射的に手を出すと、質量のないその物体はカシャっと軽い音を立てて手のひらに収まった。

 冷たい。結露した水滴が触れた指を濡らす。

「ないすきゃっちー」

「……なんだこれ」

 棒読みの賞賛は無視をして、思ったままの感想を口にした。

「なんだこれとは失礼な。親切心で懐を犠牲にそこの自販機で買ってきた絶品モナカアイスだというのに。あれかな、財部くんの家庭では教育に悪いとかの理由で食べさせてもらえなかったのかな?」

 モ・ナ・カ・ア・イ・ス、とスタッカートに発音しながら、彼女はベンチを迂回して極自然な動作で俺の横に座った。ふわりとスカートが広がる。

「で、なんだよこれ」

「だからモナカアイス」

「そうじゃなくて」

「ん、あぁ、プレゼント?」

 中途半端につけられた疑問符の解釈は諦めて、俺は緩慢な動作でビニールの梱包を開けた。中身を取り出して、二つに割って、その片割れを隣に渡す。

 ケラケラと笑いながら彼女はそれを受け取った。一体何がそんなに面白いのか、ふーんとか、ほーとか言いながら手に取ったそれを空に翳して、観察するように見つめている。

「なるほどね。財部くんはそういうあり方なのか」

 やがて彼女はそういった。納得したような、あるいは満足そうな言葉が癇に障る。

「どういう意味だよ」

「そのままの意味だよ。深い意味もあるけれど、きっと君には関心のないこと。他の誰かにとっては特殊に、特別に、異端に思えても、君にだけはそれは普通で、普遍で、平凡なことなのだから」

 彼女のいうことはよくわからなかった。理解させるつもりもない独り言のようなものなのかもしれない。……それとも俺はわかっていて、ただ聞き捨てているだけなのか。

「偉大だなぁ。モナカアイスにかかればなんでもわかる。それに美味しい。カミサマだ」

 それほど高さのないベンチから伸ばした足をパタパタと揺らして、幸せを噛み締めているようだった。アイスひとつで。変なやつ。

 手元に残った片割れを俺は自分の口に放り込んだ。

 甘い、それより冷たい。錆びて動きを止めていた頭の中の歯車が、油を差されて動き始めるような感覚があった。ザリザリと噛み合わせの箇所がくぐもった悲鳴を上げて、小さな頭痛が俺を襲っている。

「目が覚めた?」

「ずっと起きてただろ」

「財部くん、ダウト」

 その通りだった。

「君はこれからどうするの?」

 彼女の素朴な問いかけは、自分の内側から聞こえた。俺はこれからどうする?

「俺は……」

 予定していたことの中からできることを考える。一人でも可能で、時間に左右されず、効果の高い事柄を選別する。そんな都合のいいものはない。だから効果は薄くとも、できることをやるしかなさそうだった。

 少しでも前に進む。そうして紗香那を殺した、犯人を探し出す。

 犯人を見つけて、それからは――それからは思考が霞んでよく見えない。

「とりあえず旧校舎に行ってみるかな」

「へぇ、やめておきなよ」

 間髪入れずに否定された。それはどうしてか、彼女にしては珍しいことに思えた。

 隣に目を向ける。彼女もこちらを見つめている。

「あそこは、財部くんの行くところではないかな。多分君が欲しいものはそこにはないよ」

「そんなことはやってみなくちゃわからないだろ?」

「やってみなくてもわかることばかりだよ。世界はそういうふうにできているもの。そうなりそうなことは大体そうなるし、起こらなそうなことは起こらない。人がそれを望むからだね。それが覆るとしたら、奇跡じゃなくて呪いだよ。ほら、やっぱりやめた方がいい」

 友達からの忠告、と彼女は添える。

「友達だったか? 俺たち」

「そ、ヒミツのお友達。素敵でしょ?」

 押し付けるような言葉から目を逸らして俺は空に向き直った。

 起こらなそうなことは起こらない。

 それなら、紗香那は死ぬはずではなかったのではないか。

 それとも、覆ったのだからこれは呪いなのだろうか。

 ……呪いってなんだよ、馬鹿らしい。

 アイスの残りを口に含んで、もっと建設的なことを考えることにした。

 俺がすべき、これからのこと。本当は考えるまでもないけれど。

「はぁ、向いてねぇよなぁ」

 咀嚼そしゃくして飲み込んだモナカと入れ替わるように、自分へ向けた愚痴が口から溢れた。

 財部たからべ左門さもんは、圧倒的に探偵に向いてない。

 わかっていたことだけど、わかっていただけに、いざこうして実際に足が止まると思い知らされる。大してミステリードラマすら見ることのない自分には、捜査のいろはのいの字も想像できてはいなかったのだから。

 紗香那を想う気持ちだけは一丁前に、闇雲に、がむしゃらに、けれど何もできずにいる。 

 こんな小っ恥ずかしいことがあるだろうか。

「そうだねぇ。うん、財部くんには向いてない」

 援護射撃が横から放たれ、音も立てずに胸を貫いた。

「財部くんがしようとしていることがなにかは知らないし、なんだっていいけれど、きっとそれは『らしくない』ことだよ。君にそんな熱量はないし、使命や義理や人情もない。ほんとは無感動に授業を受けて適当に部活に参加していたら、それなりに充実した学園生活を送れたはずなのに、君はそこから望んではみ出そうとしている」

 もったいないなぁ、と小さな口がつぶやく。

「一体どうしてなのかな。何が君を突き動かしているのかな」

 一体どうして、何が俺を突き動かしているのか。

 深く考える真似事をして、一生懸命悩むふりをして、俺の頭は紗香那の顔を思い浮かべていた。どんなに探してみたとして、結局俺の中にあるのはそれだけだ。

 紗香那の死、それをどうにかして乗り越えようとしている。

 そのために、俺は犯人を探すしかない。

「財部くん、何か根本的なところで間違っているんじゃない?」

 彼女は足を揺らすのをやめてそう言った。

「なんのことだよ」

「うーん、知らない。それに興味もない」

 彼女の口にモナカアイスの最後のかけらが放り込まれた。幸せそうに噛み締めて、空になった袋をくしゃくしゃと丸めて弄んでいる。

「財部くん、ダメだよ。あんまり執着しすぎると、あんまり依存しすぎると、人って壊れやすくなる。脆くなって、崩れやすくなって、砕けやすくなってしまう。で、壊れそうなものは壊れちゃうの。脆く崩れて砕けちゃう」

「お前の言うことは九割わかんねーよ」

「ふふふ」

 お前はケラケラ笑えよ、って思った。

「財部くんといるのは時々とっても退屈だから、少し昔話をしてあげるよ」

 彼女がほんの少し顔を上げた。見上げているのが空なのか、それとも目の前にそびえる校舎なのかは、横にいる俺からはわからなかった。

 小さな口から物語が紡がれる。


 昔々、ある学校に教師の皮を被った研究者がいました。

 彼の授業は面白くて繊細で、とっても人気があったけれど、それが教え子たちの将来にはなんの役にも立たないことを知っていました。

 教壇に立つということは、だから彼にとっては虚しい、空しいことでした。

 研究者とは、研究をする人のことです。

 だから彼も、他のいわゆる伝統的な研究者の例に漏れず、小難しい研究をする人でした。

 彼の行う研究は世界中の誰の役にも立ちません。

 蟻の歩くような速さで成果が現れても、だから世界にとっては虚しい、空しいことでした。

 彼を慕う女の子がいました。彼女は彼の教え子でした。

 彼の授業中に唯一ピクリとも笑わないその女の子は、彼が胸の中に虚しさを抱えていることを知っていました。彼が胸の内に空しさを抱いていることを知っていました。

 本に囲まれた研究室で彼の働きを覗く彼女は、世界が彼に虚しさを感じていることを知っていました。彼女自身の瞳にすら、彼は空しく映っていました。

 どうして、彼女は彼に惹かれていたのでしょう。虚っぽの彼に。空っぽの彼に。

 彼にも、彼女にも、誰にも、それはわかりません。

 けれど、そうしてただ一人自分のことを理解してくれる彼女に、彼は心酔しんすいしていきました。陶酔とうすいしていきました。

 そうして、いつしか彼の研究は、彼女のためのものになったのです。

 彼女は問題を抱えています。

 よくないものを、呼び寄せてしまいます。

 怪底からぶくぶくと浮き上がってくるそれらに、彼の研究が役に立つかも知れません。

 彼はより、研究に没頭しました。

 授業のことなど放棄して、他の教え子のことなど放置して。

 もう、彼には彼女のことしか見えません。彼女のことしか考えられません。

 いつしか周りのことなど、自分のことなどどうでもよくなってしまった彼は、怪底がすぐそばまできていることに気がつけませんでした。

 愚かだったけれど、そういうものなのです。

 覚えのないうちに浸水し、気づけた時には透水している。

 どうしようもなく終わってしまってから姿を現すものだから。

 彼はもう、壊れていました。

 壊れていたから、彼の研究の全てと彼自身を引き換えに、彼女を救ってしまったのです。

 

「ふわっとしてて、よくわかんねぇよ。結局それってハッピーエンドなのか?」

「財部くんはどう思う?」

「男はやりたいことをやったんだろ? 本望だったと思うけど」

「そういうだろうね。彼と君とは似ているよ。思考が刹那的で、目的のために自己を簡単に犠牲にできてしまう。だけどどうだろう。きっと彼は後悔していると思うんだなぁ、私は」

 少しだけ続きがある、と彼女は語った。

「救われた女の子は、彼から多くのものを学んでしまった。彼の研究を引き継ぎ、彼の行動を模倣もほうするようになった。つまりね、彼が大切に大切に守った女の子は、自身の身を犠牲にして人助けをするようになってしまったんだよ。彼はそんなこと望んでいたかな? 彼が全てをかけて守った女の子が自分の真似事で傷つくのを見て耐えられるのかな」

 パタパタと揺らしていた足を揃えて、彼女は立ち上がった。

「もう行くね。ここは暑いし、アイスももうないし」

「待てよ」

 俺が呼び止めると、彼女は体の姿勢だけ変えて後ろ歩きで遠ざかる。

「男はどうなったんだよ。死んだのか?」

 ケラケラと笑いながら彼女が答えた。

「死ねたのなら、まだ良かったかもね。……沈んだんだよ、怪底に」

 足音はすぐに聞こえなくなった。遠くでチャイムが鳴っている。

「怪底って、なんなんだよ……」

 俺が零した呟きは、温い風に攫われて消えてゆく。

 ポケットからマルボロとライターを取り出して、箱の隅に一本だけ残っていたタバコに火をつけた。普段外では吸わないけど、どうせここに人目はない。バレてしまった時のことを考えるのは面倒だったし、今はそのちょっとしたスリルも心地よかった。

 さわさわと足をくすぐる気配を感じて視線を落とすと、少し離れた物陰から暗い体毛をした黒猫がエメラルドのような瞳でこちらを覗いている。

 手を伸ばしてみたけれど、怖がるように猫は体を翻してどこかへ行ってしまった。

 どうにも俺は昔から、動物にはあまり好かれない。まぁ、いいけど。

 力なく、ベンチの背もたれに寄りかかって空を見上げた。

「なぁ、紗香那。俺は一体どうしたらいいん……だ、って」

 見上げていた校舎の一番上、屋上のフェンスの辺りで何かが動いたのが見えた。

 目を凝らす。ほんの二十メートル。ピントさえ合えば、顔つきだってわかる距離。

 あの男だった。心臓が高鳴っているのが自分でわかった。

 どうやら財部左門の中の探偵が今、目覚め始めているらしい。

 立ち上がって、かたわらに置いていたバットケースを肩にかける。人に物を聞くのなら、これがあるほうが手っ取り早いだろう。

 ここで長い間うじうじと悩んでいた自分を全てベンチに置き去りに、俺は両足に力を入れて立ち上がった。

 希望が、胸に開いた穴を裁縫する。

「待ってろよ、紗香那」

 俺は頭の中に一つだけ残った言葉を繰り返しながら早足で屋上への道を駆け上った。

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