第三章

―― 1 ――

 拝啓

 初秋の季節とはいえ暑い日が続きますが、パパ、ママ、お兄ちゃんにつきましてはいかがお過ごしでしょうか。相も変わらず健やかに、過ごせていれば幸いに思います。

 私が生まれて十六年、悲しいことも苦しいこともたくさんあったけれど、真智まちはこんなに大きくなりました。

 それは、悲しいことも苦しいこともたくさんあったはずなのに、笑顔で私に接してくれた皆のおかげだと思っています。大切に育ててくれた皆のおかげだと思っています。

 不思議、私はそんなにいい子じゃなかったのに。

 感謝の想いはとてもとてもここには書き切ることができません。

 語り合いたい思い出も、小さな紙には収まりそうもありません。


 時間が、ありません。


 ありがとう。

 ありがとう。

 さようなら。

 

 どうやら真智は今日、死んでしまうことになりました。


 けれど悲しまないでください。

 けれど苦しまないでください。

 だけど、忘れないでください。


 ありがとう。

 ありがとう。

 さようなら。


 私も皆を忘れません。

 私は……、えーと、それから……、




 ******




 クシャッと小気味いい音を立てて、ルーズリーフに書き並べた稚拙ちせつな文章は私の手の中で小さく纏まった。

 色波いろは真智まちを表現するには小綺麗がすぎるし、語彙が少ないせいで後半はカラオケ番組でしか聞かない九十年代の歌謡曲みたいになっている。大事な文章のはずなのに、ちょっと面白くなってしまっているのも気に食わない。

 自分のセンスのなさに辟易へきえきしながら、教室の隅で口を開けているゴミ箱に向けて遺書だったものを放り投げた。真智さんの必殺投法『キリモミ回転ジャイロコークスクリューフォーシーム』で不規則な軌道を描いた紙製のボールは、たまたま来ていた隣のクラスの男子に丸めた教科書で打ち返される。どうして高校生男子って飛んできたものをとりあえず全力で跳ね返そうとするのだろうか。

 ため息をつきながら球の行方を目だけで追うと、換気のために開けていた窓の向こうに音もなく消えていくのが見えた。ホームランですおめでとう。

 私は視線を机の上に戻して、新しいルーズリーフを一枚取り出す。

 こうしている暇はない。

 とにかく時間がない。

 私は今日、死んでしまうのだから。

 改めて筆を取ろうとして、……『背景』まで書いて諦めた。四回目のトライでそこを間違えるなんてありえますかね真智さん。ほぼ白紙のままのそれをビリビリに破く。

 やっぱり多分きっとどうして、私に遺書なんて似合わない。

 もうとびきりスペシャルに向いてない。

 私は、死にたくないタイプの人間だ。

 そりゃあ誰だって死にたくはないのだろうけれど、誰か私の代わりに死んで欲しいくらいには私は死にたくない。

 常にいつまでも傍観者ぼうかんしゃとして、観測者として、事態をはたから眺めていたいだけの人なのに、よもや死んでしまうとは何事だ。

「死にたくないなぁ」呟いてみる。

 前の席の子がギョッとした目でこちらを見て、見なかったふりをして自習に戻った。

 もう一度、ため息をつく。

 運命に抗えるだろうか。私でも。

 机に広げた紙面に改めて目を通す。

『 開帝通信かいていつうしん 水曜号 朝刊 』

 見出しは一昨日の夜にあった鶏小屋の不審火の話。興味深くもないことをさもそれっぽく広げて記事にしているようなスカスカな内容だった。

 その隅にちょろっとだけ、紗香那ちゃんの自殺事件のことが匿名かつ細部をぼかして載っている。本命はきっとこっちだったのに、載せられることが少なくて困った様子が紙面の雰囲気から見てとれた。

 でもどうだろう、わかっていることだって本当にこの程度なのかもしれない。

「っとと。違った違った」

 私はその紙を机の端によける。私が読みたかったのはこんなのじゃない。

『 開帝通信 未来号 』

 手に取ったその紙面の見出しを、極力視界に入れないように薄く瞼を開けて見つめた。

 避けたはずの文字が目に入る。当然だけど。見ているか見ていないかで言えば、見ているのだから。


 ――校舎裏の惨殺死体 身元特定される

     一年B組 出席番号二番 色波真智(16)


 憧れの機関紙デビューは、ちっとも喜べるものじゃなかった。

 見出しの脇には死体の状況が詳しく書かれていて、もう読みたくないけど端的に言えば、首と頭がつながっていなかったってことらしい。……怖すぎ。

 遺体の発見時刻は今日、水曜日の放課後。

 あくまで発見だから、私が死ぬまではもっと時間が限られているはずだ。

 最悪、秒読みかも。

「死にたくないよぉ」口にする。

 前の席の子がも一度ギョッとして、声をかけるか迷った顔をした後やっぱり自習に戻っていった。意気地なし。

 誰も助けてなんてくれないことは、だけどわかっていたことだ。

 今日私が死ぬことを、知っているのは私だけ。

 誰かにこのことを話してみても、信じてくれるとは思えない。

「真智さん、人望ないからなぁ」

 口に出すと悲しくなってくるけれど、理由はそれだけじゃなかった。

 未来がわかる人なんていない。そうでしょ?

 机の引き出しの中にタイムマシンなんてあるわけないし、占い師の並べるタロットや水晶も実際には胡散うさんの香りがするだけだ。

 例えば相対性理論により光の速さでうんぬんかんぬん……とこねくり回してみたとしても、未来がわかるようになりはしない。周りよりちょっと、歳をとるのが遅くなるだけ。

 だから私だけなのだ。

 、ほ

 それはいつからか毎朝決まって私の机に届くようになった、この未来号のせい。

 呼吸を落ち着けて、ホームルームが始まる前の教室を見渡した。

 いつも通り賑やかで、いつも通りに憂鬱ゆううつで、いつも通りじゃないのは死にそうにしている私くらい。あと左門さもんくんがいない。

 彼は多分今日も普通に遅刻だと思う。

 遅刻は普通じゃないけれど、左門くんがいないのはいつも通り、かな。

 私は視線を紙面に戻した。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 三回唱えて、私はそういう人間だったことを心に刻み込んだ。

 なら、できるだけのことをやってみるべきだ。

 奮い立て、色波真智。

 人を頼ることはできなくても、神サマを頼ることはできるのだから。

 そう、私の武器は『運』だ。『運勢』だ。

 毎日必ず揃えているラッキーアイテムが、かわいそうな私を救ってくれるはず。

 未来号の左下を陣取る二重線の枠の中に、『本日のラッキーアイテム』の文字が踊っている。私はいつもここで指定されたものを集めて、そのおかげで日々を幸せに生きている。

 一昨日は水玉模様。ハンカチを紗香那さかなちゃんから借りて、確か左門くんに渡したまま。

 昨日の赤っぽいものは、結局何味かわからないワインレッドの飴玉をもらって、今朝登校中に隣の家の犬にあげてきた。

 ……今更だけど、犬に飴玉なんてあげてもいいんだっけ? 心配になる。

 どのくらい心配かというと、登校前に家の鍵をかけたかどうか思い出せない時くらい。

 あれ、今朝は家の鍵ってかけたっけ?

 両手で頬を挟むように叩いた。

 違うよ真智。集中しろ!

 今の私に自分の命より大事なものなんてない。

 だからこのラッキーアイテムを集めるんだ。ラッキーアイテムを……、ラッキー……、

 頭の上で、疑問符が浮かんでは消えてを繰り返している。

 混乱していた。紙面にある文字は読める。意味もわかる。

 でもなんていうか、そんなことってある、だろうか。

 頓狂とんきょうなその文字をとりあえず口に出してみた。


「……胃袋?」

 

 あんまり声に出して読んだことのない単語だけれど、そう書いてある。

 少し頭を押さえて考える……ポーズだけとった。

 だって考えることなんてない。胃袋は、だってあの胃袋だ。

 前に座る彼女にも、私の遺書を打ち返した彼にも、教室中の人間に多分一個はついている。食べたものを消化する器官、ストレスを抱えると痛むアレ。

 私にもある。あ、でもそれはだめか。自分の胃袋を取り出したら私死んじゃうし。

 他の誰かでも、きっとその人は死んじゃうけど。

 想像してみた。

 具体的に私自身の手で人の胃袋を取り出す様子をイメージする。お腹を開いて、邪魔な臓器をかき分ける。肺の下から十二指腸を掴めればなんとか手前に持ってこられるかもしれない。

 そこまで見えたところで、自分の目に涙が溜まっていることに気がついた。

 手で拭う。でも拭ったそばから涙はあふれて、やがてこぼれて頬を伝った。

 本当はもうわかっちゃっていたから。

「できないよ……、できない」

 声が漏れる。

「いくら真智さんだって、そんなことできないよ!」

 ちゃんとした道具がなければ。

 ひとしきり流した涙を乱暴に拭って、算段を立てることにした。

 管理員室に入れれば、鎌か鉈のようなものがあるだろうか。開帝の庭の大きさを考えれば草刈り機やチェーンソーがあってもおかしくはない。けど忍び込むことを考えると、常に鍵がかけられたここは候補から外さざるをえないか。

 剣道部の部室はどうだろう。確か道場の奥の壁に鞘に収められた日本刀が飾ってあったはずだ。真剣、華奢きゃしゃな私に振れるだろうか。もし振ることができたとしても、長物は繊細せんさいな作業には向いていなさそう。

 やっぱり家庭科室が手っ取り早い。あそこには調理実習で使う三徳さんとく包丁があるから。

 そうと決まれば動き出すのは早い方がいいだろう。

 私が死んでしまう前に、やれることをやらなくちゃ。

 音を立てて席を立つと、前の席の子が恐る恐るこちらを振り向いた。やっぱり顔はギョッとしている。

 ちょうどいいので、伝言をお願いしよう。

「今日、色波真智は運勢が悪いので欠席って担任に伝えてもらえる?」

「え、えぇ?」

 快い返事をもらえたので、ホームルーム直前の教室を離れた。

 こういう時、私の特殊能力『サイレントシークレットセイト』は役に立つ。誰も、には聞き返したりしないから。

「死にたくないなぁ」

 呟きながら、私は特別教室棟に向けて人のいない廊下を歩き始めた。


 


 ******




 包丁はすぐに手に入った。

 誰でも入れる家庭科室とはいえ、さすがに刃物をしまう調理器具の棚には南京錠が付けられていたけれど、そこは真智さんの熟達した魔法の呪文で簡単に開けることができた。

『ハリガーネーデコジアケールー』

 コツは濁点の部分を滑らかに発音することと、先端がちゃんと金具を噛んでいるのを感じること。

 同じ棚に入っていた清潔そうなタオルに包んで、先の鋭利えいりな包丁は今、私のスカートのベルトに収まっている。脇差しとしては刃が広いので、ちょっと歩くには邪魔になるけど。

 さて、問題はこれから。つまり誰の胃袋を狙うかだった。

 学校は共同生活の場であるからして、孤立している人なんてそうそう見つからない。それも今は午前の授業中で、フラフラしている人がいたらそれはバカか天才のどちらかくらいのはず。どっちなら勝てるかを考えてみたけど、見分ける手段がないというのが絶望的だった。

 頭を抱えながら、新校舎三階の廊下をあまり勢いのつかない歩調で進んだ。

 ここの窓からは、ちょうど斜めにグラウンドを挟んで向かいに旧校舎が見える。

 向こうは三階建てで屋上もないので、こちらに比べればちょっとこじんまりしていて可愛らしい。木造の外観も、おもむきがあって私は割と好きだった。

 まぁ、近づきたいとは思わないけれど。

 開帝学園の旧校舎といえば変な噂の宝庫で、かつての大災害の被害者のお墓の上に立っているとか、ダークマターの観測実験場だとか、国家機密文書の最終埋葬地だとか、とにかく言われ放題になっている場所。それこそあんなところに近づけば、今日の私でなくても簡単に死んでしまいそうな気がする。

「そういえば、あの窓はもうすぐ割れちゃうんだっけ」

 不意に、未来号の片隅に載っていた旧校舎に関する小さな記事を思い出した。

 諸行無常。どんなに長く形を成していた物でも、壊れる時は一瞬だ。

「ぱりーん」

 数十年もそこにあったはずのガラスの窓――今もあるけど――の行く末に想いを馳せて、同じ運命を辿ることがないように柄を握る手に力を込める。

 私は違う。死にたくない。

 と、スカートのポッケが小さく揺れている。

 おもむろに手を突っ込むと、マナーモードにしていたスマホのバイブレーションが何かの通知を主張していた。

 チャット一件。おや、左門くんだ。タップしてメッセージを開く。

『サボりか?』

 なるほど、ちゃんと教室に来たみたい。けど失礼な。不良の左門くんとは一緒にしないで頂きたいですな。

『今、運命と戦っているところ』

 こちらは正直に返事をしたのに、なんだか微妙な表情の顔文字が返ってきた。

 怒り顔の絵文字を送り返す。四つ並べて。

『ぷよぷよ?』

「んなわけあるかーい」

 思わず声に出してツッコミを入れてから、私は深く後悔した。警戒して辺りを見渡す。

 ……けど、近くに人がいる気配はないみたいだ。

 助かった。包丁を抱えた今の私は決して人に見られてはいけないのだから。

『殺す気か!』

 と送ってみたけれど、よく考えると左門くんからすればなんのこっちゃなのかもしれなかった。案の定、はてなマークが飛んでくる。チャットって結構難しいなぁ。

『本題に入るぞ』

 文脈を掴むのを放棄した左門くんの言葉が、小分けにして送られてくる。

『これから旧校舎で』

『紗香那の件を調べる』

『一緒に来ないか?』

 ぶつ切りの文章が電報でんぽうみたい。そんなの戦時物の映画の中でしかみたことないけど。

 で、よりにもよって旧校舎。開帝学園の旧校舎といえば以下略。

 左門くんは昨日の会話の後から、幼馴染の身に起こった事件にご執心しゅうしんらしかった。

 それはきっと学生としていいことだ。熱中できることがあるって、青春っぽい。

 でも真智さんを巻き込んではいけません。

 私は人生最後の日を左門くんと過ごすつもりはないし、そもそも今日を最後の日にしないために忙しいのだから。

 ……あ。思いついた。

 抱えたスマホを操作して、作ったメッセージを送信する。

『左門くん、私に胃袋くれない?』

 通知を待つ。少しの間があって、やがて届いたポップアップには『何いってんだ?』と言いたげな顔の絵文字が四つ並んでいた。ぷよぷよ?

 色良い返事じゃなさそうなので、私は返信するのをやめてスマホをポッケに突っ込んだ。

 話の通じない人間は嫌いだ。今みたいに忙しい時は特に。

 止まっていた足を動かし始めながら、深くため息をついた。

 少しずつ、焦りが込み上げる。

 このまま誰とも出会わなければ、私は孤独に死ぬことになる。

 死んだらどうなるんだろう。流石にそこまでは開帝通信にも載ってはいなかった。

 死。漠然と、真っ暗なイメージがある。

 何も見えなくて、何も聞こえなくて、何も感じなくて、何も考えられない。

 どんなものも観測することができなくて、どんなことも傍聴することができなくて、どんな事態も考察する術がない。

 そんなのは私じゃない。色波真智じゃない。

 残された時間はどれくらいあるのだろうか。

 時計を見るのが怖くて、確認することはできなかった。

 歩調が自ずと速くなる。

 心なしか鼓動も自然と加速した。

 死にたくない。私は死にたくない。

 思考がたった一つの感情に汚染されていく。

 死にたくない。私は死にたくない。

 自覚していながら、止めることはもうできなくなっていた。

 目はしきりに歩く胃袋を探している。

 胃袋の囀りに耳をそばだてる。

 胃袋の香りを嗅ぎ分ける。

 包丁にまとわせていたタオルはいつの間にか解けてどこかに落としてしまったらしい。

 抜き身の刃を握って、校舎を彷徨い歩く。

 人に出会わないように、けれど誰かと出会えるように。

 矛盾している目的は、いまだ起きていないことを知っているという最大の矛盾を抱えた真智さんにとても似合っていた。もちろん皮肉だけど。

 血走り始めた目が痛い。

 頭の内側で回る秒針がうるさい。

 死にたくない。私は死にたくない。

 、妙案を思いついた。

 ――胃袋ならば、人でなくてもいいかもしれない。

 どうして今まで、今の今までそのことに気がつかなかったのだろうか。

 走る。廊下を走る。

 駆ける。階段を駆け降りる。

 すぐに一階までたどり着いて、内履きのまま校舎の外に飛び出した。中庭の縁石を蹴って進むと、すぐに胃袋の鳴き声が耳に届く。あたりには家畜の匂い。

 威嚇しないように、足音を消して呼吸を整えた。

 少しだけ冷静になった頭が周囲を警戒して、辺りを見渡す。

 人はいない。当たり前だ。こんな時間に。こんなところに。人間なんて来るはずはない。

 小火騒ぎの件だって、何日も巡回に人をあてたりできないはず。

 足を止めて、呼吸も止めて、近づいた小屋の内側を覗きこんだ。

 大量の胃袋が鶏を着て歩いている。数歩近づけば、手が――刃が――届く。

 喜びで表情が歪んだ。

 まじまじと見てみたことはなかったけれど、胃袋の動きは滑稽だった。端の木枠に撒かれた餌をついばんで、三歩移動してはそのことを忘れてまた啄んでいる。

 哀れで、不恰好な臓器。

 グルルルル、という唸り声が聞こえる。驚くことにそれは真智さんの喉から出ていた。

 獲物を前にして、私はどうやら人であることを捨てたらしい。手に持つ刃はいつの間にかもう体の延長であるかのように馴染み始めている。屈めた姿勢は人であるなら不自然に思えるかもしれない。

 いまだけはそれでいい。私は死なないために、胃袋を狙う獣にならねば。

 静かに、慎重に、ゆっくり近づいて、私はケージに手を伸ばす。

 その瞬間の私は、色波真智は確かに獣そのものだった。人ではなかった。


 だから、に気がついた。

 私の後ろに人がいる。


 警戒はしていたはずなのに、いるはずのない誰かが、そこにいる。

 一メートルなど離れていない、もうすぐそこに、いる。

 私の左手はケージに触れている。右手は刃を握りしめている。

 見られてはいけない姿を、ソレはもう目にしてしまっているはずだった。

 どうすることが最善か、を考えるには時間があまりに足りなくて。

 やるべきことを成すための、道具はこの手に収まっていた。

 息を吐く。呼吸を止める。

 右手を返す。姿勢も返す。

 躊躇ちゅうちょはない。視線はそこに立つ胃袋の胃袋だけに定めて、私は左手も添えた渾身こんしんの力で包丁を突き出した。右足を軸に踏ん張って、できる限りの体重を乗せる。スピードも十分。

 肉を突き破る感触が怖くて目を瞑る。

 なんてことはない、一瞬だった。

 暗闇の向こうで刃が止まる。

 ここにきて初めて私は、自分の手が震えていることに気がついた。

 怯むな真智! 瞼の向こうでは、決着がついているはずだ。

 私が胃袋を手に入れるための行為。

 これは、それ以上でもそれ以下でもない。

 プランがBからAに戻っただけ。

 粛々しゅくしゅくと、あとは胃袋を取り出すだけだ。

 恐る恐る目を開けた。止まっていた呼吸が、また止まる。

 ありえない光景が広がっていた。

 私が全力で繰り出した包丁による渾身の突きは、それのへその直前で二本の細い指に阻まれていた。まるで薄くて軽い紙のプリントでも持つように、鋼鉄の刃をつまみ上げている。

 そんなはずはない……のだけど、実際目の前で起きていることを否定するのは難しい。

 呆けていた頭が焦りを取り戻す。

 失いかけた感情が目的を思い出す。

 死にたくない。私は死にたくない。

 前に込めていた力を抜いて、包丁を引き戻す。

 恐ろしいほど簡単に、刃はそれの指を離れてこちらに返ってきた。

 自由になった我が剣を振り上げて、握り込んで、打ち込む。

 技はない、ただ力がそこに乗っている。それは人にとって、十分に脅威であるはずだ。

 鈍い音が響く。それが耳に届いて私の腕は弾かれる。刃が何かと打ち合った。相手も得物を持っている。

 冷や汗が額を流れた。立場が同じなら、私の方が絶対に分が悪い。

 リーチの短い三徳包丁。不慣れな戦い。力量の知れぬ相手。

 勝機があるとすれば、相手が防戦のうちにこちらが仕留めてしまうことだけだ。

 間髪を入れずに刃を振るう。何度も何度も叩きつける。その都度弾き返されても、私は力を込めて彼女に襲いかかった。

 避けるような素振りはない。ぶつかる刃の間に火花が散る。どんなに軌道をずらしても、必ず追いつかれて弾かれる。むしろ振るう私の手の前に、常に先手で防御を置かれているような感覚さえ覚えた。

 速さでは、勝てない。圧倒されている。

 それを頭が理解して、だから覚悟を決めて私は屈み込んだ。

 地面のスレスレまで体を折り曲げて、そこから弾けるように真上に飛び上がる。逆手に握り込んだ包丁を高く高く持ち上げた。私の力だけで足りないのなら地球を、重力を味方につけるしかない。

 強く強く、両手で抱えた刃を振り下ろす。力任せに。これならどんなに相手が強くとも、止められるはずがない。

 相手には私がどんなふうに映っているだろう。

 理不尽な暴力に憤っているのだろうか。それとも醜い獣の姿に驚いているだろうか。

 あんまり想像したくない。

 それでも私は、死にたくないから。


 胃袋、もらいます。


 それは、

 まるでスローモーションのような一瞬だった。

 飛び上がった私を見つめて、彼女は居合のような姿勢で構える。

 得物を腰に添えて、片足をグッと前に突き出し、降りかかる刃に視線を向けた。

 一撃に全力を込めた私にはそれを眺めることしかできない。

 彼女の腕が振り抜かれた。

 風を鳴らして、軌跡が走る。閃光が散る。

 私に届く衝撃は、ほとんど存在しなかった。

 ただ、金属の砕ける音が中庭を走り、後ろで鶏がざわついた。

 私は膝から地面に崩れ落ちる。

 完敗だった。

 柄だけになった包丁だったものを手放して、私は空を見上げる。

 にじんだ視界。ぼやけた世界。そこで私は理解する。

 あぁ、私死ぬんだ。

 やれることはやったのに、最後まで全力だったのに。

 悔しいなぁ。悲しいなぁ。

「色波真智!」

 聞き覚えのある声が、空をさえぎって頭上から届いた。

御堂みどう先輩、ごめんなさい。私……」

 迷惑をかけたことを謝らなくちゃいけないと思った。けれど、うまく言葉が繋がらない。

 だって、私はもうすぐ死ぬから。それを私は、知っているから。

 それ以外の全てのことが、私の意識の内側であやふやになっている。

「いい太刀筋だったな。フェイントや侵入角度にはやや熟練度が足りないが、想いのこもった技にはそれなりの力がある。久々に軽い運動になったよ。しかし最後のはダメだ。捨て身の攻撃では大切な自分を守れない。お前が怪我をする前に止めることができてよかった」

 先輩の手が、私に伸びる。

 それを目で追った。でもそれだけ。立ち上がる手助けをしてくれているのはわかるのだけれど、今の私はその手を取ることに意味を感じられなくなっている。だって、どうせ死ぬ。

「ふむ」

 小さく唸って、先輩は手を引いた。それから自分の胸元を探ったかと思うと、屈んで私に目線を合わせた。

「実は先ほど校門のそばでこんなものを拾ったのだ」

 いくつもの伝説を作り上げてきた手が、私の目の前で小さな紙屑を広げた。くしゃくしゃになったルーズリーフ。下手くそな文字。下手くそな文章。

「こほん。拝啓、初秋の季節とはいえ暑い日が」

「や、やめろぉ! 鬼か! 悪魔か!」

 顔から火が出るかと思った。いいや、出たね。ちょっと出た。

「どうやら正解だったようだな。推理は私の得意分野ではないが、たまにはうまくもいくらしい。『真智』という名前は全校で三人。これを拾った場所への窓からの射出角度から予測すると二人に絞られた。教室まで行ってみるとお前が早退したというので当たりをつけて探していたんだよ。色波真智」

 とんでもないことを言い出した。

 英雄が、そんな稚拙な紙切れひとつで私を探していたという。

 それはなんだか、恐ろしいことに思えた。授業にも出ないで、身一つで……。

 違うなぁ、御堂先輩は何かを持っている。

 何か、と表現したのはそれを私の知識では『アジの干物』としか呼べなかったからだ。

「ん、今何かよからぬことを考えているだろ?」

「いや、不思議なものを持っているなぁと」

「な、ちが、これはその紙を拾う前に別の人間を探すのに使っていたのだ!」

 なんか面白いんだよなぁこの人。

 よく見ると干物には所々切り傷のようなものが走っているけど、浮かんだ考えを信じたくないのでそれ以上は気に留めないことにした。

 とはいえ、一応自分の身を守るために新しい呪文を作っておこう。

『ヒモノハタベモノコワクナイ』

「私のことはいいのだ、色波真智」

 御堂先輩は立ち上がって、私の頭にポンと手を置いた。

 力強さは感じない。慈愛に満ちた人の重みがさわさわと頭のてっぺんをくすぐっている。

「何やら困っているのだろ。言ってみろ。私がいれば文殊もんじゅの知恵、とは誰の言葉だったか忘れたが。まぁ、包丁片手に学園を歩き回るよりは良い策が思い浮かぶかも知れん」

 ぶわぁ、と涙があふれた。

 私は今日死ぬ。それが決まっている。

 どうして私が死ぬのかも、なんで死ぬのが私なのかもわからない。

 なぜそれを知っているのかも話せない。

 だから私の言葉を信じてもらえるはずがなかった。

 信じてほしいとも言えるはずがなかった。

 それなのに、私はこの人に助けて欲しいと思っている。

 この人なら、無理を通して助けてくれるのではないかと考えている。

 先輩に、刃を向けた自分が急に恥ずかしくなった。

「せんぱぁい……」

 ぐずぐずと、鼻が鳴る。でも込み上げた涙を自分では止められない。

 伝えてみようと思った。信じてみようと思った。

「あの、その、」

 精一杯に言葉を選ぶ。伝わりにくいことだからこそ慎重に、けれど短く、シンプルに。


「御堂先輩、胃袋を……くれませんか?」


 やってしまった。

 意識しすぎて全てを端折り、目的だけがぽろりと口から漏れてしまった。

 真智さんのばか。うつけ者。

 怖くてもう、先輩の方を見れない。

「ふむふむ、そうか。うーん、なるほど」

 頭上では困惑したようにも納得したようにも聞こえる声が先輩の口から漏れている。

 必死につくろう言葉を探すけど、焦る頭が空回りしてちっともうまくいかなかった。

 萎縮いしゅくしてガチガチになった肩が痛い。

 血の気の引いた頭が酸素を求めて呼吸が苦しくなっていく。

 やがて、先輩の手がポンと私の肩を静かに叩いた。

 背筋が反射で跳ね上がる。それから、恐る恐る顔を上げる。

 先輩の目が私を見つめていた。

「本来私は校則を守らせる立場なのだが、かわいい後輩の頼みとあらばやむを得まいか」

 そう語る口元は、なぜかとっても意味深に綻んでいて……、

「任せろ。ハチノスにしてやるよ」

 私は、死を覚悟した。

 なるほど。こうやって今日、私は死ぬんだ。

 御堂薙。開帝学園の英雄にして伝説。彼女の怒りに触れて色波真智は死ぬ。

 他のどんな結末よりも、なんだか潔くて悪くない気がした。


 パパ、ママ、お兄ちゃん。

 十六年間、真智はとっても幸せでした。

 それはみんなのおかげです。

 

 ありがとう。

 ありがとう。

 さようなら。

 

 遺書は上手に書けなかったけれど、気持ちだけでも届いたらいいなと胸の中で願った。

 石畳でできた中庭の沿道を、御堂先輩の手にずるずると引きずられながら。


 死にたく、なかったなぁ。




 ******




 追伸


 その日、色波真智は結局のところ死ぬことはなかった。

 開帝通信の未来号にも誤ったことが記載されることがあるのか。

 それとも私自身が運命を打ち破ることが出来たのかはわからない。

 けど、わかったことが一つある。

 牛のような反芻はんすう動物には胃袋が四つあって、その二番目をハチノスと呼ぶらしい。

 先輩に連れてこられた高級そうな焼肉屋さんで、私はその奇妙なお肉と対面することになった。なるほど形は蜂の巣そっくりで、言われなければ肉というよりこういう植物なのかと思ってしまうのではないだろうか。

 よく焼いたハチノスをタレにつけてからサンチュで包む。口に放ると甘い脂がタレと混ざり合いながら口の中いっぱいに広がった。コリコリした独特な食感もクセになる。

 ほっぺたが落ちそうになるのをなんとか堪えて、感謝を述べると先輩は豪快に喜んだ。

 御堂先輩は、私に何も聞かなかった。

 どうして私が胃袋を求めていたのか。

 どうして私が包丁を持って鶏小屋にいたのか。

 今、学園で起きていることや、私のクラスのことについても聞いてはこなかった。

 だから私も話さなかった。

 それを、私が後悔する日が来るのだろうか。

 もしかしたら、先輩が後悔する日が来るのだろうか。

 考えることは無意味に思えて、ただ今日は御堂先輩の好意に甘えることにした。

 どの肉もみんな美味しかった。

 キムチも。あとナムルも。




 追伸 二


 家に帰ると隣の家の犬は死んでいた。

 私の家の鍵はちゃんと閉まっていた。

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