間章 

出逢い

 朔根さくねかいという男は、世間で噂されているほど立派な人間ではない。

 そんなふうに口にすると、才能を持つものの謙遜けんそんだの、形だけの自虐じぎゃくだのと、批判にも似た無視を決め込まれてうまく受け入れてはもらえないけれど、実態として僕は幾つかの大切なものを欠落している。

 本人であるところの僕がいうのだから、それは間違いないことだ。むしろダメ人間というカテゴリーに属するのが適切なのであって、人々から送られるどんな好ましい評価にも常に違和感を持っていた。

 賛辞さんじも、褒賞ほうしょうも、畏敬いけいも、羨望せんぼうも、全ては僕なんかに向けられるべきじゃない。それらは例えるなら御堂のような正義の味方をたたえるためにあるのであって、僕のように視野の狭い偏屈なヒトガタには不相応で居心地が悪かった。

 唯一、受け入れることに抵抗がなかった言葉がある。

『君はホームズみたいだね』

 そう言ったのは誰だっただろうか。もう顔も名前も思い出せない彼はきっと僕を褒めるために言葉を選んだのだと思う。

 名探偵シャーロック・ホームズ。遠い異国の古い小説でありながら、その名前を知らない人間はこの国でも珍しい。彼の物語はテレビや映画で何度もリメイクされ、多くのアニメやゲームでモチーフにされている。

 そこで描かれるのは、天才的な観察力と推理力で難事件を次々に解決していく、痩身長躯そうしんちょうくのパイプを咥えたイギリス紳士の姿だ。時には一見しただけで相手の職業や趣味を当ててみせ、積み上げた事実と行動力で犯人を追い詰める。

 事件や謎に対する執着は、確かに僕と彼とで通ずるところがあるかもしれない。だけどそれだけならやっぱりホームズという称号は僕には過ぎた代物で、言葉の限りを尽くして丁寧に否定をしていたはずだった。

 けれど、幼少期の遠い記憶の中でアーサー・コナン・ドイルの原作小説を読んでいた僕はホームズの光でない部分を知っていた。現代の多くの作品では描かれることがないけれど、彼はヘビースモーカーなだけでなく、コカインやモルヒネの常用者だった。

 事件がなくなるとホームズはひどい退屈に襲われて、その空虚さから逃れるように薬物に依存する。そうして一時的な興奮を得て、まやかしの精神の安定とともに次なる事件を待つのだ。友人にして医師でもあるジョン・ワトソンに退廃的な生活をとがめられるまでは。

 彼が抗うことのできなかった強い虚無感は、僕が親しくしている大きな欠落とよく似ていた。大きな壁や、難解な謎、あるいは不可思議な現象に立ち向かう時、僕の心はひとときの安息を迎えることができる。過剰に分泌されたアドレナリンが脳を活性化して、集中力が限界まで研ぎ澄まされた時――その瞬間だけ――僕は生を自覚するのだ。

 まったく、人間としては終わっているけれど。

 その力はこの学校の周辺で過去に起きた幾つかの事件で発揮され、思い返せばもう二年ほど前になる連続吸血通り魔事件を最後に必要とされることは無くなった。あの時の大怪我は、あまり関係ない。

 当たり前のことではある。

 本物の正義の味方がいるこの開帝かいていの界隈に、僕のような半端者が活躍する機会など存在しないというのが厳しいけれど現実だった。

 上には上がいる。僕でなくていいのなら、任せてしまう方が得策だ。近い将来、多くの職業が人工知能に奪われると嘆く声が聞こえてくるけれど、僕の場合は一足先にシンギュラリティを迎えただけ、と言ってしまえるのかもしれない。

 やがて、僕はアイデンティティを失った。

 才能を発現する場を失い、眠らせたままのその力は自分のどこにあったのかすらもわからなくなっている。

 ぽっかりと空いた穴だけは、今もこうしてあいたまま。

 朔根櫂は大きな大きな欠落だけを残した喪失者の名前だった。

 記憶は遠く、思考は鈍く、視界はぼやけ、関心すらも薄い。

 そうしてなんのために生きているのかすらも見失い、半ば自暴自棄になってから相当の月日が立っていた時期。

 僕が逆巻さかまき紗香那さかなと出会ったのは、そんな頃のことだ。




 ******




「……暑いな」開いた扉の向こうから、熱風が吹き込む。

 開帝の新校舎は、この地方の地主をバックに持つ私立学園なこともあって全体的に贅沢な作りをしている場合が多い。図書室や体育館などの授業に使う施設だけでなく、購買部や部室、果てはグラウンドのベンチまで、派手にはならない程度に高級感のあるセンスの良いもので固められている。もちろん、壁や床や天井も。

 だから打ちっぱなしのコンクリートで囲まれたこの無骨な屋上は、学園の中でも少し例外的と言える場所だった。

 真上から容赦なく降り注ぐ太陽の光を掌で遮りながら僕はその硬い床を駆け足で歩く。強い照り返しが目を焼くので、僕は落としていた視線を少し上げながら日差しから逃げるように足を早めた。

 今にも七月を迎えようという空は青く、雲はない。夏はもうすぐそこまで来ている。

 屋上はそれなりに広いので、気温も相まって息が軽く上がり始めていた。活力のない日々の中で体力までも失い始めているようだ。自覚はあったけれどこれほどまでとは思わなかった。

 そんな自分に、微かな危機感を覚える。

「はは、」自嘲気味に笑った。

 危機感を覚えるのは、自分自身がまだまともだと言い聞かせるのに有効だからだろう。

 自分を騙すための、安価で底質な睡眠薬。最近は摂取が過剰かじょうになってきている。

 自虐的な思考にため息を一つ吐いて前へ向き直した。向かいの端にある第三侵入口まで行けば、日陰になっているところがある。

 屋上に三つある侵入口はそれぞれ小屋のように床から迫り出していて、奥まった扉のそばには校舎側から屋上側に向けて数段の段差があるため、狭いながらも休憩所のように利用することができる。中でも第三は内側からかけられた錠前のせいで本来の機能であるところの出入り口としては使用されていないので、人の通らない穴場スポットになっていた。

 まぁ、こんなところを使うのは僕のように学園の人ごみからできるだけ離れていたい人間くらいだろうけれど。

「……はぁ、はぁ、はぁ、」

 ようやく辿り着いた小屋の壁に手をついて、呼吸を整えた。

 額の汗を腕で拭う。太陽の下にいては体力を全て持っていかれそうだ。とにかく日差しから逃れるべきだ。壁を伝って、小屋の表へ回る。


 そうして滑り込んだ小さな日陰のその隅で、

 僕の目は、静かに眠るを見つけた。


 その瞬間の衝撃を、僕の稚拙ちせつな語彙で伝え切ることは叶わない。

 ありがちな言葉に収めるならば『美しい』と思った。

 ……いや、それでは嘘になるだろうか。

 多分あの時、僕は彼女を『神々しい』と、そう思ったのだ。

 人魚姫に例えたのは、それがどこか幻想的で、現実味のない光景に思えたから。

 初めて目にした神秘のような景色に、比喩でもなんでもなく僕は息を呑む。

 段差に沿ってくの字に畳んだ陶器とうきのように真っ白な両足は横に倒れ、広がったスカートが風を孕んで微かに膨らみ揺れている。

 制服の白いワイシャツに包まれた体は踊り場に投げ出されて、肩口で切れた裾から伸びる細い腕の片方は小さな胸元に、もう片方は目元を隠すように覆っていた。

 肩先程度まで伸ばした茶色がかった黒髪は、床にふわりと散らばってそれぞれが光の粒子を纏うようにキラキラとこちらに光を返す。

 そしてわずかに覗ける唇の赤、それが妙につやっぽくて、僕はそこから目を離せない。

 目の前にあるものが、緻密ちみつに描き上げられた名匠の絵画なのではないかと錯覚した。視界に入る彼女以外の全てのものが、息を殺して存在感の薄い背景に徹しているようだった。

 呼吸の仕方を思い出すのに、少し時間がかかる。

 込み上げてくる衝動がなんなのかもよくわからないまま、体は恐れを成してそこから離れようとしていた。初めての経験だった。魅了されることを怖いと思ったのは。

 そこに横たわる彼女に視線を置いたまま、頭は逃げることだけを考えている。実際、少しずつ僕の足は後ずさる。

 だけど、わずかに残っていた理性が僕をその場に残らせた。

 人魚姫は眠っているように見えた。

 けれど、人気の少ない屋上の片隅とはいえ、昼休みの短い時間の中でここまで無防備に眠りにつくことができるだろうかと現実的な思考が頭をよぎる。

 現実的と言ったのは、そうあろうと努める僕の心が自分を騙すためにつけた不適切な形容動詞だったのかもしれない。ちっとも気にせず眠れる人間がいたって、不思議じゃなかったはずだから。

 それでも、僕は自分に騙されて確かめることにした。

 あるいは、僕は自分に騙されることにして確かめた。

 今思えば、きっとこの時の僕は当てられていたのだ。暑さに。彼女に。ナニかに。


 一歩、彼女に近づく。

 例えば、季節がわりの急な気温差に適応できず熱中症で倒れているのかもしれない。


 もう一歩。

 例えば、突然の心臓発作で本当は助けを求めていたのかもしれない。


 それから静かにもう一歩。

 例えば、陸に上がった人魚姫はすでに死んでいる、とか。


 段差に一段乗り上げて、僕は彼女のすぐ横に屈んだ。近くまで来てみても、呼吸の音は聞こえない。胸も上下しているようには見えなかった。

 本能が焦りを感じている。理性は悲鳴をあげている。けれどここまできて、何もせずに引いてしまえば自分の行動を正当化することができなくなる、と感じている。

 彼女の白桃のような首筋にゆっくりと手を伸ばす。それは脈を確認するための、僕に取っては手慣れた動作のはずだった。指先が震えているのは、だからきっと何かの間違いだ。

 強い罪悪感が胸を締め上げる。それに、まるで美術館のパーテーションを跨いで作品に触れようとしているような汚れた愉悦ゆえつが微かに混じる。自分の行動は正しいはずなのに、誰にもみられたくないという矛盾。

 そうして、僕の指が彼女の肌に触れる寸前、あと数センチというところで、


 


 その時、僕は人生で一番長い一瞬を経験したように思う。

 理屈を備えた弁明、感情に任せた言い訳、この状況から逃げ出す手段、現実からの逃避先、たくさんのことが頭を巡って、その全てを諦めた。傍から見れば、思考が停止しているように見えただろうか。

 本当は、そうやって焦った風を装っただけなのかもしれない。

 この時の僕は、全てを投げ出して彼女の瞳を見つめていたかったから。

 けれど一瞬は、どんなに長くとも一瞬で。

「た、」

 人魚の声で、現実に引き戻される。

 赤い唇が、小さく震えながら形を変えていった。その表情からは、寝起きで混乱してはいるものの、自分に伸びた手とその持ち主をしっかり認識しているのが窺える。

 助けを呼ばれる、と思った。これから起こる最悪の状況がありありと思い浮かぶ。

 屋上自体には人気がないとはいえ、大声で『たすけて』と叫ばれたら簡単に人が集まってきておしまいだ。僕にはなす術がなかった。

「た、」

 けれど、彼女は予想に反して小さな声で、

「食べないでください」

 そう、言った。聞きようによっては『たすけて』を超える非常事態を招きかねなかったけれど、控えめな彼女の声量でそうはならなかった。僕だけに向けられた言葉。

 気温の暑さからくるものとは別の汗が額を伝う。もちろん、僕は彼女を食べようとしていたわけじゃない。どんな意味にしてもだ。言葉の綾ではあるけれど、それならば釈明しゃくめいの余地があるのではないだろうか。

「違うんだ、その……」

 僕が言葉を探していると、彼女は身を翻して近くに置いていた小箱を守るように僕の前に立ちはだかった。両手を広げ、どうやっても鋭くはならない目でこちらを睨みつけてくる。

 僕はまるで逮捕直前の現行犯のように両手を頭の上にあげて見つめ返すしかなかったのだけれど、やがて彼女の表情は突然軟化した。

「あれ、みたことある……人。 弁当泥棒じゃ、ないんですか?」

 不本意ではあるけれど、僕の顔は学園の中でそれなりに知名度がある。

 それが幸いしたのだろうか、彼女は僕に向けて頭を下げた。長くはない髪の毛先が遅れてついてくるほど勢いをつけて。

「すいません! 私、なにか勘違いしちゃってたみたいで」

 夢、だったのかな、と彼女の口から小さく続く。

 僕は胸の中で弁当泥棒くんに感謝した。

 悪いのは君で、僕じゃない。

 ここはそういう共通認識を形成することで、自分の身を守ることができそうだ。

 自分自身からも。

「いや、僕の方こそ、眠っている君を起こしてしまったみたいで悪かったよ」

 そう答えると、早くも彼女は僕に対する警戒を解いたようだった。小箱を膝に抱えて、段差の隅に座り直す。それから僕の方を不思議そうに見つめて、口を開いた。

「座らないんですか?」

「え、あ、」

 彼女の横は不自然に空いていた。いや、僕が座ることを想定して彼女が移動したのなら、それはごく自然な空間なのかもしれない。

 そうした人の気配りや機微も、普段の僕なら当然見抜けたはずなのに。

「先客がいるとは思っていなかったんだ。ここにはほとんど人が来ることなんてなかったから。今日のところは君に譲って、僕は教室に戻ることにするよ」

「いいじゃないですか。ここ、二人くらいなら十分入れるし」

 彼女の手が、パタパタと段差を叩く。

「それに日差しも強いし、せめて少しくらい休んでからでも」

 こめかみを雫が流れた。彼女には、もちろんそれが気温の高さからくるものに見えているだろう。親切心から放たれた言葉が、僕の胸をチクチクと刺す。

 数秒迷って、僕は結局彼女の隣に座ることにした。背後でコンクリートをジリジリと焼く日の光がいい加減、億劫だったことも確かだったから。

「ありがとう。本音を言うと助かった」

「いえいえ。私、逆巻です。一年の逆巻紗香那」

「僕は三年の朔根櫂。君は時々ここに?」

 逆巻、逆巻……。問いかけながらその名前を反芻する。聞き覚えはない。

「いいえ。ほとんど来ることはなかったんですけど、クラスの子から『三つ編み』が欲しいって言われて、いつも一緒にお昼を食べている友達を取られちゃったので」

「三つ編み……が欲しい?」

「おかしく聞こえちゃいますよね。いつも何かを探している不思議な子なんです。私も言われた言葉以上のことはわからないんですけど、ちょうどよかったのであげちゃいました」

 ちょっと窮屈きゅうくつだったから、と彼女は小屋から見える狭い空を眺めながら言う。

 その横顔に、せられる。

 紗香那……、さかな……、人魚姫。なるほ、ど?

「私、先輩のことみたことあります」

 彼女は、こちらを向いていた。

「なんでだったか忘れちゃいましたけど、友達に紹介されたのかな。何かすごい人でしたっけ?」

 漠然ばくぜんとした質問と、下から覗きこむ大きな瞳に僕は困惑する。

「そんなことないよ。きっと見かけただけだと思う。他よりは広く見えるけど、この学園だって箱庭だからね。どこかですれ違っていてもおかしくないさ」

「そういうことじゃない気がするんですけど。むぅ、思い出せないので諦めます。先輩もお昼ご飯ですか?」

 膝の小箱を包んでいた薄い布の結び目を解きながら、彼女はそう聞いてきた。

「あぁ、そうだね。そういえば、どうしてここまできたのか忘れてた」

 僕は、ズボンの後ろポケットに無造作に入れていたモノを取り出して、小さな蓋を捻るように開けた。

 ロイヤルゼリー。無果汁。グレープフルーツ味。

 片手に収まるその小さな容器は、特筆して強くはない僕の握力でもなんなくへこんだ。一息で喉に流し込めば、一瞬にして空になる。

「……先輩。それは食事じゃなくて給水です」

「教室にいると、数十人に囲まれて同じことを言われるからここに逃げてきてるんだ」

 これは本当のことだった。

「それで終わりですか?」

「これで終わり。けど、栄養は十分に摂取できてるよ。なんたってパッケージの裏面をいっぱいに使ってぎっしりそう書いてある」

「いやでも、食事ってそういうものじゃないです」

 期待通りの、平凡な反応だった。他人からの説教にも似たありがたい食事論にはもう慣れている。けれど僕は治らない。直らない。欠落しているから。

「味が、わからないんだよ」

 いつものことだったのだから、彼女の言葉もいつものように軽く流せばよかったのだ。

 それなのに僕の口は――あるいは心は――くだらない自分語りを始めていた。

「笑ってくれていいんだけど、いつからか僕は少しずつさまざまな感覚を失ってしまったんだ。視界は狭くなり、痛みは鈍くなり、味覚は最も顕著けんちょでほとんど何もわからなくなった。原因は一言ではいえないけれど、きっと自分の存在価値に疑問を持ち始めてしまったことだと思う。何度も克服しようとはしてみたさ。けど、あるだろ? 理屈ではわかっていてもどうにもならないことって」

 彼女の顔を見れなくて、今度は僕が空を見つめる番だった。

「そうなってから、食べるものはなんでも良くなった。味がわからなければ何を食べても同じだったから、美味しい不味いって基準は硬いか柔らかいかに代わって、終いには楽か面倒かが全てになった。で、行き着いたのがこれ。理にかなってるだろ?」

 おかしなやつだと思われているだろうか。気丈に振舞った言葉に反して僕の足は小さく震えていた。

 どうしてこんな話をしたのだろうか。

 本当に、今日の僕はどうかしている。

 そのせいで、きっと特別だったはずの出逢いを台無しにしてしまったような気がした。

 汚してしまったような気が、した。

「食事ってそういうものじゃないです」

 横からもう一度。

 唐突に、目の前の空が大きな影に覆われる。視線を上げた。影は彼女だった。

 向き合うように僕の前に立って、それから屈んで目線を合わせる。

 近い。けれど、段差に座る僕はもう今より後ろへは下がれない。

「これ、なんに見えます?」

 彼女は左手に持った小箱、つまるところの弁当箱から、右手に構えた箸を器用に使って中身を一つ取り出した。これ、とはそれのこと。

「なんにって、」

 当然知っている。長らく食べてはいないけれど、分厚く巻かれた発色のいい黄色。

「たまごや――」

 言葉を最後まで言い切ることができないうちに、僕は突然の暴力に見舞われた。

『き』の形で閉じ切る直前の口の中に、目の前の物体が飛び込んでくる。避けることはできなかった。驚異的な箸さばきだった。

 舌の上が、頬の内側が、柔らかい感触で満たされる。

 びっくりした体が思わず吐き出そうとするのを、彼女の小さな手のひらが無理矢理唇を覆って押さえ込んだ。力はそんなに強くない。けれど僕の無意識を止めるには十分だ。

 視線が重なる。きっと彼女に映る僕の目は、困惑の色に染まっていることだろう。

「飲み込まないでください。ゆっくり百回噛むまでは」

 そう言う彼女の目は少しも動じている様子はなく、静かに咀嚼そしゃくが始まるのを待っている。

 怖い、と思った。先程まで感じていたものとは違う。もっと純粋で、根源的な恐怖。

 僕は彼女に従うことにした。唇を押さえられたまま、僕は口の中のものを噛み締める。味は無い。ただグニャグニャと、何かをこねているような感覚があるだけ。

「私は今朝、五時四十分に起きました」

 彼女は、何かを語り始めた。

「昨日寝る前に昆布を水に浸しておいたので、冷蔵庫から取り出して鍋にあけます。昆布だしには『水だし』と『煮だし』があって、昆布を取り出すタイミングが違うんです。今回は昆布のえぐみが出にくいように、火にかける前に水からあげました。『水だし』の方ですね。火力は中火、沸騰させてしまわないように鍋から目は離しません」

「んぐっ」

「ダメですよ、先輩。あと八十七回」

 質問しようとして開きかけた口元を、改めて押さえられる。

 いったい、僕は何を聞かされているんだ。てか待て。話しながら数えているのか?

「お湯の温度が大体八十度を超えたくらいで、鰹節をどっさり加えます。これもやっぱり、沸騰させてはいけなくて、雑味が出ないギリギリを攻めます。ここ、アツいんですよ? 素材の旨みをどう引き出すかが料理の醍醐味ですから。あ、旨味ってわかりますか?」

「むぐむぐ」

 むぐむぐと言ってみた。どうせ意味のある言葉は発声できないから。

「そうですよね。えーと、味って基本的には五つの種類があるんです。甘味、酸味、塩味、苦味、それから旨味。他に比べてちょっとイメージしにくいかもしれませんけど、ちゃんと人の舌には旨味の受容器官が備わっていて、違いがわかるようになっています。旨味成分はいくつか種類があって、相乗効果で料理をおいしく仕上げるところに科学があるんです」

 例えば、と彼女は余った手で自分の唇に指を当てながら虚空を見つめる。

「肉には核酸系物質のイノシン酸があります。それにアミノ酸であるグルタミン酸を持つ野菜を合わせて調理するのは世界のどこでも行われていますよね。中国では長ネギや白菜、ヨーロッパなら玉ねぎ、セロリ、ニンジンで作るソフリットなんかが代表的です。本題に戻りますけど、つまり昆布のグルタミン酸と鰹節から出るイノシン酸を最高のバランスで限界まで引き出してあげたいってことなんです。火を止めて、休ませて、布で濾した黄金出汁は見た目も風味も最高なんですよ。それはもうキラっキラしていて」

 語る彼女の目も、僕にはキラキラしているように見えた。

 話の趣旨は見えてこない。けれど、正直なところ僕は興味を惹かれ始めていた。味のわからない僕には、料理という分野はひどく遠い世界の物語のように思っていたから。

さかまふぎゃ」

「あと三十二回です」

 どうあっても、僕にものを言わせる気はないらしかった。観念して閉じたままの口を動かし続ける。ちょっと顎が疲れてきた。

「取った出汁を常温くらいまで冷ましながら、卵を割って卵液を作ります。今日は二つ。卵の溶き方って個性が出ますよね。人によっては念入りに全体が均一になるまで混ぜてみたり、布でこして滑らかにする人もいますけど、私はちょっとランダムな感じが出るのが好きなので卵白を軽く切る程度です。そこに薄口しょうゆと、酒、みりん、それから食感をよくする片栗粉をちょっとだけ加えて、黄金出汁で伸ばします。この時点でもう……あ、すいません。ちょっとよだれが」

 彼女のポケットから水玉のハンカチが出てきて、軽やかな所作で口元を拭う。

「失礼しました。そこまで準備ができたら、玉子焼き用の長方形のフライパンを火にかけます。火加減は中火、少し強めにしておきます。玉子だからって弱火にしていると、学校に遅刻しちゃうので。引いたごま油の上に一気に薄く卵液を流し込んで、ほんの少し色が付いたところで巻きます。すかさずもう一度。流し込んで、焼き色をみて、巻く」

 僕の目の前で、箸を拾った彼女の手が玉子を巻く工程を何度も再現してみせた。まるで踊っているかのように洗練された手つきで、玉子の塊が少しずつ大きくなっていくのが見えてくるような気さえする。

「はい。百回です」

 彼女の手が、僕の口からゆっくり離れた。

「どうですか?」

「どうって、僕に味は――」

 わかるわけない、と言おうとして口の中の違和感に気が付く。


 がかかっていた。


「そんな……美味しい」

 散々咀嚼した後のだし巻き玉子を噛み締めながら飲み込んだ。

 起きた出来事に頭の整理が追いつかない。

 確かに僕は今、美味しいと感じた。ような、気がして。

「さ、く、ね、先輩」

 彼女は得意げな顔で弁当箱の中身をこちらに見せつける。

「確かめてみます?」

 一瞬、僕には逆巻紗香那が人魚姫ではなく悪魔に見えた。

 箱の中に大きく場所を取った玉子焼きの残った片割れを、彼女から受け取った箸で持ち上げて口に運ぶ。

 信じられない。

 鰹と昆布の出汁の旨味が、全体を引き締める醤油の塩味が、卵自体の持つ繊細せんさいなコクが、僕にも理解できた。

「美味しい」

 そう口にした。けれど、驚きがまさってうまく感謝の言葉が出てこない。

「食事って、そういうものですから」

 それでも彼女からは満足げな返事が返ってきた。

 箸が進む。止まらない。

 仮説を立てた。僕は、僕という人間を知っている。ひどく頭でっかちな僕は、物事を理解で認識しようとしてしまう。彼女のかけた魔法は、つまりそういうことだったのではないだろうか。長い長い口上で、僕の頭に味を概念付けして食べさせた。この一瞬で、僕は脳に味覚の受容器官を植え付けられたということになるのだろうか。

「難しいこと、考えてますか?」

 いつの間にか立ち上がっていた彼女が、僕を見下ろしながらそういった。

「多分そうじゃないんです。よく噛むと唾液だえきがいっぱい出るじゃないですか。味って唾液が運ぶので、それだけでなんでも美味しくなるんですよ」

 チャイムが鳴る。昼休みが、もうじき終わる。

「あ、すまない。逆巻、勢い余って全部食べてしまった」

「いいですよ。調理研究部冥利につきます。でも、明日はもう少しいっぱい作ってこなきゃいけませんね」

「明日?」

「何がいいですか?」

「何がって、」

「先輩、何もしないとまたそれで済ませちゃいそうだから」

 彼女の指の先で銀色のパッケージがきらりと光る。……そう、かもしれない。

「頼んでも、いいのか?」

「私にできるものなら。それに、料理は好きなので」

 彼女は弁当箱を布に包んで、小屋の外へ歩き出す。

 日の光を受けてキラキラと輝く彼女の背中に、僕は少し声を張って答えた。

「それならハンバーグ、かな」

「早起きします。では、また明日」

 早足で駆けていく彼女を、追いかけることはしなかった。久しぶりに食べた食事の余韻が僕の胸を満たしている。あるいは、彼女自身の余韻か。

 弁当泥棒くん、謝るよ。どうやら僕も同じらしい。


 六月の終わり、快晴の空。強い日差しと夏の匂い。

 僕と逆巻紗香那は、こうして始まった。

 ……ほんの少しの後悔を残して。


「ハンバーグは、ちょっと子供っぽかったかな」

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