―― 3 ――
――見つけて。
そう、僕を呼ぶ声が聞こえる。
振り返ることに意味はない。答えることに価値はない。
それは決して目的を忘れてしまわないように、何度も何度も
僕を突き動かす、衝動の
その切っ先は
迷路の中にいても、あるいは目覚めていたとしても、声は僕を許さない。
――見つけて。
今日になって、僕を苛むその声の連弾は次第に酷くなっている。
多分、それは僕自身の焦りが重なっているからだ。
逆巻がいなくなって、正確には彼女が体を失って、四日目が終わりかけていた。
授業を休んで朝から走り回ったはずなのに、気がつけば放課後に差し掛かっている。探し物に追われる僕の体はふらふらだった。もう足が棒のようだ。強ばった筋肉がひきつって、時折痙攣のような痺れが襲う。開帝学園の広さをこれほど憎んだことはなかった。
だからといって止まれない。僕は
痛む体をおして進む。まるで学校そのものが、解けない迷路のように立ちはだかっている。
「くそっ」
思わず声が漏れた。うまくいかないことからくる、自分への憤りだった。
朔根櫂はこんなものだっただろうか。自分はもっと賢くて、もっと鋭くて、この程度のことは苦もなく成し遂げられるのではなかっただろうか。秀才秀才と持ち上げられても何もできはしないじゃないか。
こんなことなら天才になりたかった。伝説や英雄であるべきだった。
本当の正義の味方が開帝に二人いたってよかったんだ。2号ライダーとして、僕が守りたいものだけでも守れるように。
大きな無力感が胸の内をじわじわと満たしていく。
それは逆巻が話してくれた怪底のイメージに近かった。真っ黒な液体が大地から噴き上げて僕を飲み込み、もがけどもがけど抜け出せない。とても苦しいのにそう声にすることもままならず、静かに底に落ちてゆく。黒い油が肺を満たす。
僕は立ち止まった。
違う――違う、これは一時の休憩だ。何も諦めたわけじゃない。ただ、また歩き出すためには呼吸を整える必要がある。そのためのもの。そのためのもの。
右手を壁について体重を任せた。肩が大きく上下して、体が空気を取り込もうとしているのがわかる。そろそろ日も暮れて気温はだいぶ落ち着いてきたというのに、呼気が燃えるように熱かった。
床に落としていた視線をあげる。幸い辺りに人気はない。部活動のある生徒も帰宅し始める頃合いだろうか。
壁に背を預けて、ポケットからロイヤルゼリーを取り出した。思えば今日は何も口にしていない。味のしないドロドロとした液体を一気に飲み込んで、パッケージの裏面に目を通した。今の自分に足りていないものがそこにちゃんと含まれていることを祈って、僕は空をポケットにしまいこむ。
と、目に入る。そうか、ここは渡り廊下だった。
落ち着きを取り戻した僕の前には、壁から迫り出す形で一枚の絵画が展示されていた。
キャンバスを広く使った青一色の絵。油彩で塗られたグラデーションは、精巧な技術と繊細なタッチで一つの世界を映し出している。中心で手を伸ばす人物の表情が、僕に何かを訴えかけているようだった。強烈に心を揺さぶられる。激しい存在感に、自身の矮小さを曝け出されるような気分になる。
素晴らしい作品なのは間違いなかった。改めて見てみれば、なるほど大賞作品というのも頷ける。
それだけに、やはり大きな違和感がどうしても拭えなかった。
この作品は欠けている。どうしようもなく途切れている。これで全てのはずがないのに、完成の烙印が押されている。僕にはそれが作者の意図だとは思えない。もしこの欠落が故意だとするならば、あまりにもこの絵の人物は寂しそうに見えてしまう。
「鏡、か」
精巧で繊細で素晴らしいけど欠陥品。朔根櫂の名刺に添えるにはぴったりな肩書きではないだろうか。面白いジョークだったけれど、自嘲気味に笑うに止めた。心の底から笑ってしまえば猛毒に変わり、きっと僕は動けなくなる。
赤。確か、小袖さんはそう言っていた。
この絵の話題で赤と青のどちらが好みかと。彼女のことだから適当に口から出た冗談だとは思えなかった。何かの謎かけか、それともこの絵に仕掛けがあるのか。
目の前にあるのは青一色の世界だ。
僕は背中を壁から離して、向かいの絵画に近づいた。
違和感はともかくとしても、強い想いで描かれている。それは伝わる。
絵の前には膝ぐらいの高さの小さなパーテーションが二本立てられていて、一応は展示用の空間を作っている。だけどこんなものは見せかけだった。ただでさえ通路の中央、それも人通りの多い渡り廊下という立地では区切れる範囲は広くない。パーテーションの外に立っても、肘を伸ばす必要すらなく手が届いてしまう。
これはつまり意思表示なのだった。作品を守るという形式上の意思。生徒の善意を信用し、誤った行為は行われないという慢心。
――見つけて。
頭の中で響く声が僕を促す。
そっと、指の腹で絵画に触れた。
乾いた顔料が表面に細かな凹凸を作って、僕にざらざらとした感触を伝える。油彩独特の匂いが鼻腔をくすぐって、禁忌にリアリティを与えていた。張り詰めた麻のキャンバスが指を拒絶するように押し返す。
絵を壊そうという意図はないけれど、それでも僕の胸を強い罪悪感がくすぐっている。
逆巻と出会った日のことを思い出していた。君に触れようとしたあの時のように、僕は衝動のままに名画を汚し、ささやかな愉悦に身を浸そうとしている。止める者はここには誰もいない。絵画は突然、目を覚ますこともない。
水平に横たわる人物の腕、その肩口に指先を添えた。
すぅーと微かな音を立てながら続く二の腕を優しくなぞっていく。触れているのは絵画のはずなのに、その肉感的な柔らかさが伝わってくるようだった。ゾクゾクと、僕の頭に
このまま進めば朔根櫂という人間が壊れてしまうように思えた。
それとも――もう僕は壊れているのだろうか。
体が震えている。その理由が
今は何もわからない。考えることが怖かった。その必要もない。決定された行動に野暮な動機付けなど許されない。
僕の指は人物の肘で軽く屈折して、
絵の中の手首に触れる。手の甲に浮き出た中手骨の輪郭に沿って僕の指を這わせた。官能的にも思える刺激が脳の髄にまで痺れを引き起こしている。弛緩した両足にありったけの力を込めていなければ、こうして立っているのもやっとだった。
こく、と唾を飲み込んだ。
形容しがたい緊張が破裂して、叫び出しそうな自分をなんとか抑え込む。
もう少し、そのはずだ。
何かを掴もうと開かれた青い手のひらは、まるで
顔料が本当に些細な段差を作って青を二つに分けていた。指先から世界へ、僕の指は人物の輪郭を超えても止まらない。
ただ、その先は終着のはずだった。青い世界は行き詰まり、キャンバスは途切れ、額縁に当たる。そうして僕の小さな冒険は終わる。
一刻も早くここから逃げ出したいという想いと同時に、少しだけ名残惜しくもある。
でも終わる。この世界は欠けているから、これで終わり。
そうだろ? 虚空に問いかけた。
「……そん、な」
次の瞬間、僕の指先は境界を超えていた。
ぶつかるはずだった額縁は遠く、世界は熱く真っ赤に染まっている。
僕は手を離した。体を離した。捩れた胸を正面に正す。絵は再び、青一色に巻き戻る。
ゆっくりと体を、腰を捻った。添えた指先で絵画を横断した時の動作と重なるように、じっくりと右から左へ。視線もそれに倣って、右から……左へ。
「隣り合わせに存在していた……赤い世界」
二分された世界の内側で、互いに触れようと手を伸ばす二人の人物がそこには描かれている。よく似ているのに、全く違う。隣にあるのに、限りなく遠い。悲しげな表情の理由は、すぐそばに存在していた。彼らは、あるいは彼女らは、その境界に気づいてしまっている。
圧巻だった。完成された一つの物語が小さな額の中に見事に収まりきっている。
赤と青のどちらが好みかと、小袖さんは僕に聞いた。彼女には初めからこの絵の本当の姿が見えていたんだろう。彼女だけじゃなく、おそらく僕以外の全ての人間に。
そうして評価された結果が大賞作という称号。
一切の異論を挟めないほどこの絵は特別だった。御堂賞の名に、素直に相応しいと思えた。
体がまた震えている。混じり気のない感動そのものによる震え。
込められた作者の強烈な想いに恐怖さえ覚えてしまうほど、僕はこの絵に魅せられている。
なぜ、ずっと気づけなかったのだろうか。
世界が二つあることに。
こんなに近くに、すぐそばにある赤に。
視界を揺らす。真っ直ぐに見つめると絵画は欠ける。それは全く違和感を伴わない、赤の消失。片側の喪失。額縁も補完され、縦横の比率も変わらない。ただ青い、それしかない。
顔を左へ傾ける。すると絵画は完成する。二つの世界は僕の視界の中心からは外れてしまっていて、けれど正しくそこに在る。
僕の目は――いや、脳は左にあるものを認識していない。
どうして気がつかなかったのだろうか。
事例としては知っていたはずだった。
僕は喪失者だから、多少の違和感は見逃してしまっていた、ということか。
「左半側空間無視。右脳を損傷した際に残るポピュラーな障害のはずなのに、その可能性を考えもしなかったなんて」
僕はどれだけ愚鈍なのだろうか。どこまで盲目なのだろうか。
自分だけはまだどこかで特別だなんて、思っていたのではないか。
目の前の絵を見つめる。初めからあった青と、秘匿されていた赤。
その存在は、僕に大きな間違いを気づかせる。
見ていたのに、見えていなかった。
捉えていたのに、認識できなかった。
それは全てを変える。
それで全てが変わる。
――見つけて。
声に促されるままに走って廊下を渡り、空き教室に入った。座席の一つに手をかけて座る。
窓の向こうでは太陽が地平線に最後の抵抗をしているところだった。
もう、まもなく夜が来る。
今だけは焦りが邪魔になるから、深呼吸をして肩の力を抜き、それから目を瞑った。
sakune¥labyrinth 〉maze up
sakune¥labyrinth 〉new maze installing…
sakune¥labyrinth 〉■■□□□□□□□□ 20%
瞼の裏にはもう一切の光が届かない。
異様に深く、底の知れない黒。正しく無であり、闇そのもの。
もう何度もこなした動作で、コマンドを入力する。
新しい迷路が、形成されていく。
sakune¥labyrinth 〉new maze installing…
sakune¥labyrinth 〉■■■■■■■□□□ 70%
普段ならこの時間、いくつもの迷路の定石を思い返しながら、その時を待っていた。もちろん一々忘れるわけもなく、ルーチン化された単なる作業のようになっていて、実際迷路の中でそれらが役に立つことはなかった。これまでは、だ。
解けない迷路など存在しない。
思考と試行の途方もない回数は、その反証にはならない。
僕は文字通り、見逃していただけだったのだから。
sakune¥labyrinth 〉■■■■■■■■■■ 100%
sakune¥labyrinth 〉successfully installed
sakune¥labyrinth 〉seed-number:31217122312151
暗闇が変質する。
それは先程までとは全く違う、奥行きをもった重い黒。
そこにもう見慣れた僕が立っている。すぐに近づいて僕は僕と重なった。
実体を持った朔根櫂の耳に微かにさざ波のような音が届く。潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
視界は黒。その中にぽつりと、微かに発光する小さな白い点を見つける。
消え入りそうなほど淡く光を放つその点は軌跡を残しながら静かに移動し、分裂し、接続して、いく筋かの線と数枚の面を構成して僕を閉じ込めた。
ギリギリ両腕を振り回せる程度に区切られた、闇。
四方に扉が形作られた立方体の小部屋。
いつも通りのスタート地点。
奇妙で奇怪で難解な、迷路の、迷宮の始まり。
sakune¥labyrinth 〉character setup completed
これまでずっと、そう思っていた。
今まで全て、そう見えていた。
思わず笑いが込み上げる。
解けない迷路の正体が、こんなにあからさまなものだと誰が想像できただろうか。
涙ぐましい過去の自分の努力がここまで的外れだったとは、思いもよらなかった。
小袖さんに説明したような、特別なルールなんてどこにも存在しない。
ただ前提が間違っていただけなのだ。僕には見えていなかっただけなのだった。
こうして少し意識をして眺めれば、それはなんて事のないトリックアート。
呆気なさすぎるほど、シンプルな真実。
正方形の方眼ノートに軌跡を記していた小部屋の一つ一つが、
まさか、五角形だったとは。
sakune¥labyrinth 〉maze start
解けない迷路など存在しない。
その確信を強くして、僕は十数回目の初めの一歩を踏み出した。
――見つけて。
呼び声に導かれる。
きっと、これが最後だ。
******
「もしもし、逆巻か?」
「朔根先輩。息が荒いですけど、もしかして走ってますか?」
「これから伝える場所にすぐに来て欲しい。僕も今向かっているからそこで落ち合おう」
「いいですけど、急ですよね。何か――」
彼女の疑問に答えることすらもどかしく、僕は言葉を遮って必要なことだけを伝えた。
「あぁ、君の居場所がわかった」
スマートフォンをスラックスのポケットに突っ込んで目の前の階段を駆け上る。酷使した両足はもつれてしまいそうになりながらも、なんとか僕を運び上げていた。正直なところ、体を起こしていられるだけでも奇跡に思えるような疲労が僕を包んでいる。
夢の中にいた時間はどれほどだっただろうか。窓の外では陽が落ちて、すっかり夜の
はたから見ると僕の走りは荒々しく見えるかもしれないけれど、極力音を立てないように注意を払って行動するように心がけた。もう生徒が学校にいる時間ではないから、巡回の教員に見つかれば、いかな優等生朔根櫂でも足止めされて大きな時間を浪費することは目に見えている。慎重さを欠くわけにはいかない。
三階と四階を繋ぐ踊り場で、僕は一度立ち止まって呼吸を整える。
ここまできて焦る必要はない。一秒や二秒、いいや、三分や四分でも、到着が遅れたところで結末は変わらない。自分に言い聞かせる。
落ち着け。そう唱えた。落ち着け。落ち着け。呪文の様に何度も繰り返す。
深く、肺の中身を吐き出した。入れ替わる様に冷たい夜の空気が胸を膨らませる。
階段に足を掛けて、僕は静かにもう一度歩き始めた。
特別教室棟の四階。その中でもこれより先は、開帝学園に二年半通った僕でさえほとんど立ち入った記憶がない。誰かが利用しているのを見たことすらなかった。不思議と意識から消えていて、人が寄り付かないならばそれこそ怪しいはずなのに、それこそ初めに捜索をしてもよかったはずなのに、ここに近づこうとは考えもしなかった。
ただ、僕の頭が抜けていたのだろうか。ただ、失念していただけなのだろうか。
こうして不思議なことばかりと対面していると、どんな些細なことも偶然には思えなくなってくる。迷路のゴールがこの先を示していたことが、無関係だとは到底思えなかった。
そろそろ、廊下の端に突き当たる。
正面の扉は屋上への第三侵入口だ。僕と逆巻が普段昼食を取っていた小屋の裏。屋上からは見えなかったこちら側には、幾重にも巻かれた金属の鎖と南京錠が目立つように設置されている。まるで何かの封印だ。執拗なほどに厳重で、どこか不気味な景色に思えた。
その、左。
今、僕の前にあるのはなんの変哲もない女子トイレの扉だった。
顔の高さに磨りガラスのはまった窓が付いてはいるけれど、中の様子は覗けない。それはお手洗いとして当然のことだ。部屋の明かりがついていない今は人の姿があるのかどうかもわからなかった。
少し、その場で考える。きっとそれは不要なことだったけれど、僕は数回の躊躇を経て小さく3回ノックした。この時間、この場所に、人がいるとは思えないとしても最低限のマナーを守ろうとする程度には僕の頭は冷静だ。これはその確認の意味もある。
少し待ってみたけれど、やはり扉の向こうに人の気配はなかった。僕はゆっくりとノブを回して押し開く。蛍光灯のスイッチは入ってすぐの右の壁に手を滑らせるだけで見つかった。
パチンと小さな音を立てて、部屋が昼光色の明かりに照らされる。
「…………っ」
その景色は、この学園で初めて目にするものだった。
豪奢な装飾の多い開帝の新校舎とは思えないほど素朴で雑な作りのトイレ。ひびの目立つタイルや壁に包まれて、全体がどこか古ぼけた写真の中の風景の様だ。年季の入っている乾いた汚れや傷みが、どちらを向いても僕を見返している。
あまり居心地は良くない。
ひんやりとした冷たい空気が肌に触れた。夜、というだけでは説明がつかないほど、この部屋は室温が低い。ちょうどこの真上に設置された貯水タンクが何か関係しているかもしれないと、僕は屋上の作りをぼんやり思い出しながら考えた。
そんな余計なことを考えていなければ、僕はすでにこの場を逃げるように離れてしまっていたかもしれない。そう判断できる程度には、この場所の異様さは際立っている。身体中の危険を知らせる信号が不吉なアラートを鳴らして、冷たい汗がこめかみを流れた。
先ほどから、水場特有のカビの匂いに混じっていくつかの異臭が鼻を突いている。
一つは微かに漂うタバコの匂い。
そしてもう一つはむせ返るほど強烈な、鉄の匂い。
何を意味しているのかがわからないほど僕の頭はお花畑じゃない。動物は手負いの獲物を追うためにヘモグロビンに含まれる鉄イオンに対して嗅覚が鋭く進化してきたというけれど、人間もまたその例外ではないということ。
ここで、間違いない。
自分が息を呑む音が、やけに大きく耳に届いた。
両側の壁に設置された個室の扉は全て閉まっている。奥まで歩いて振り返り、認識の難しい左も確認した。
扉から迫り出した取手の中央で、表示はどれも緑を指している。
つまり、鍵は閉まっていない、ということ。
ここに立っているだけでは、ゴールしたことにはならなかった。
僕の目的は汚いトイレをこうして見渡すことなんかじゃないからだ。
確認する必要がある。
ひとつ、ひとつを。――その内側を。
僕は静かに、一番近い手前の個室に近づいた。
作った拳で押し込むように、その古びた扉に力を込める。
キィ、と
拍子抜けするほど呆気なく、視界は向こうへ開けてなんの変哲もないトイレの景色が現れた。蓋の閉じた便器と、芯だけが備え付けられたペーパーホルダー、ただそれだけの小部屋が蛍光灯の冷たい光に照らされている。
それだけ、それだけだ。
緊張が一瞬だけ緩和する。
いつの間にか止まっていた呼吸に気がついて、溜めていた空気を吐き出した。
加速する動悸が全身を揺らしている。心臓はオーバーワークで悲鳴をあげている。
一つ目でこれでは僕が持ちそうにない。
それでも、中の様子を理解して少しだけ余裕が出てきたようにも思えた。
そうだろ、朔根櫂。僕は僕を戯言で奮い立たせる。
横にずれて、また拳を作った。
二つ。それから三つ。
扉の向こうの変わらない景色に安堵しながら、同時に焦りが胸を騒つかせる。
弾が出るまで引き続けることを余儀なくされたロシアンルーレットを強いられている気分だった。しかも、銃口をこめかみに突きつけられているのは僕じゃない。
逃げることはこの僕自身が許さない。許せない。
四番目、その前で立ち止まる。
「…………!」
息を呑んだ。
他と同じように並ぶ扉、その目線の高さに微かな跡がある。
垂直に積もった埃が、乱暴に拭われた跡。
それは、ちょうど今僕がこうして構えているように、強引に拳の底で押し込みでもしたかのような痕跡。今日や昨日のものではない。けれど、それほど前のものでもないはず。
嫌な予感が頭をよぎった。
続く悪寒は背を撫でていく。
だけど、もう止まれない。
僕はその跡に重なるように手を当てて、これまでよりも慎重に、慎重に扉を開く。
キィィ、と。
赤。
赤、だ。
一面の赤。赤、赤、……赤。
秘匿されていた赤が僕の視界を覆い尽くしていた。
個室として区切られたその空間の全てが、深紅の鮮血に塗れて染め上げられている。
時間の経過を感じさせない凛とした赤。
まるで今まさに人体から吹き出したかのように、濁りのない血液の飛沫。
その鮮烈な景色は不思議と恐れや気味の悪さを忘れさせ、僕の胸を恍惚とさせている。
吐き気を催すほど強い刺激臭さえも、ここでは彩りのひとつとして完璧に調和している。
これは油彩で描かれたキャンバスではない。
残酷な殺害現場のその跡、だ。
それなのに、
それ、なのに、
目の前の惨状はまるで芸術とさえ呼べるほど美しく、そして艶やかに僕には映った。
そっと、赤の内側に踏み込む。
その中心には、体重を背もたれに預けて人が座っている。
キラキラと光を纏う長くはない髪が乱れていて、その表情は伺えない。
けれど、僕は彼女をよく知っている。彼女も僕を知っている。
「逆巻、」
呼びかけると、彼女はゆっくり顔をあげた。
「朔根、先輩……」
桃色に腫れた目が僕を見る。逆巻紗香那は泣いていた。
一瞬だけ僕と目を合わせたあと、視線をまた手元に落とす。僕の視線もその先を追う。
彼女は両腕でナニかを大切そうに抱えている。
その姿はミケランジェロの彫刻、サン・ピエトロ大聖堂のピエタ像を思わせる神秘的な光景だった。十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアのように、深い慈愛と悲しみが彼女から感じとれる。周囲を取り巻く残忍な赤すら、聖母を際立たせる差し色に成り果てていた。
僕は静かに、静かに近づく。彼女の腕の中のものには想像がついていた。
逆巻から聞いていたから。
それはまだ見つかっていないのだと、聞いていたから。
僕は逆巻紗香那の小さな胸の中に収まっている彼女の頬に、そっと触れながら声を掛けた。
「僕を呼び続けていたのは、君だったんだね。小袖さん」
小袖咲依の顔は、首から先だけになっても気高く、凛々しくあり続けていた。
迷路の終わりで彼女の死に気づいていなければ僕はもっと取り乱していたのかもしれない。
こうして現実に向き合う前に少しでも心の準備ができたことが、幸せなのかどうかはわからないけれど。
小袖さんと交わした会話のどこからどこまでが、彼女自身の言葉だったのだろうか。
今思えば、交換条件なんて言いながら馴れ合う場面も多かったように思う。
実は僕自身、あなたとフィレンツェを歩くのを楽しみにしていたんだ。
約束を破ることがあるなら、それはきっと僕の方だと思っていたのに……。
別れの台詞はうまく言葉にできなくて、僕は無言で小袖咲依の瞼を閉じた。
「寂しかったんだろうなって、わかるんです。誰にも気付かれないままここに一人にされて、ずっとそう訴えてくれていたのに、私何度も目を逸らしてきた」
逆巻の声は震えている。
「彼女がここで殺されたことも、ここまで発見することが遅れたことも、君のせいじゃないよ。そうして自分を責めることを、小袖さんが望んでいるとは思えない」
「仲がよかったんですか? この人と……」
「どうだろう。記者であり編集長である小袖さんにとって僕はちょうどいい商材の様なものだったと思うけれど、僕は彼女の聡明さが好きだったよ。開帝や、社会や、あるいは僕自身にとっても、失われていい人じゃなかった」
「私、よく知らないんです」
「話すよ。落ち着いた頃にね。僕も吐き出したくなる日がきっとくるから」
逆巻の肩に触れると、彼女も手を重ねた。温かい。生きている人間の体温にほっとする。
「逆巻、立てるか?」
「ちょっとギクシャクしますけど、体は多分大丈夫です。でももう少しだけ……、もう少しだけこのまま居させてください」
時間が必要なことはある。僕が逆巻よりほんの少しだけ冷静なのは、守るべき存在がそばにいるからというただそれだけの理由なのだろうと思った。彼女を尊重して、僕は先に個室から出る。
その途中で、僕は真っ赤に染まる壁の隅にあるものを見つけ、拾い上げた。
逆巻の視界に入らないところまで移動して、僕はそれを開く。
小袖さんが常に身につけていたあの黒い手帳だった。メモと資料で分厚く膨らんだそれを、前から順に捲っていく。こうして覗くことを小袖さんは許してくれるだろうかと一瞬だけ考えて、それ以上は意味のないことに思えて視線を手元に戻して読み進める。
思わず感嘆が漏れるほど、その中には多くの情報が整理され、まとめられていた。人に見せるはずのものではなかったはずだ。それなのに彼女の文字は驚くほど綺麗で読みやすかった。まるでこの手帳そのものが出版物であるかのようだった。
けれど今、それを隅々まで読み漁ることは叶わない。だから、ある程度の目星をつけてページを進めていく。あの抜け目のない小袖咲依のこと、殺害された当日の彼女のスケジュールが残されていてもおかしくないはずだった。それも誰と会う予定だったのかが分かれば、この残酷な行為を働いた犯人を特定することすら可能かもしれない。
殺人鬼。
その言葉に現実味がないなんて、もうジョークにすら成り得ない。
このまま放っては置けなかった。
と、ページが行き詰まる。
三週間前の木曜日、そのページは乱暴に破かれていた。
誰かの手によって。
つまりそれは殺人鬼の手によって。
証拠はここにはなかった、と諦めようとした瞬間、ある発想が電撃のように僕を襲った。
この一週間の彼女との会話を思い出す。僕と話していた時の、彼女の手元を思い出す。
もしかすると、手帳は彼女の死後も書き進められていたのではないか、と。
僕はもう一枚、ページを捲った。
「…………!」
――見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
――見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。見つけて。
「そん、な……」
全身の毛が逆立つ様な寒気が、首筋を走り抜けた。
破り取られたページ以降。その全てが、たった四文字の繰り返しで埋まっている。
それまでの整然としたものとは違う、必死に書き殴られた醜い文字。歪み、捩れ、乱れに乱れたその言葉が、僕と向き合っていたあの瞬間の筆の運びで生まれたものだとするならば、それはあまりにゾッとする話だった。
こうして俯瞰して見つめるだけでも、不安が胸の中で大きくなっていくのを感じる。
まるで、他人の行った呪いの儀式を垣間見ているような、そんな奇妙で不吉な感覚だった。
「先輩?」
自分の肩に触れる手に気がついて、僕は急いで手帳を閉じた。
振り返ると逆巻が個室から出てきていて、僕の反応に驚いたように手を引いている。
「あ、すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ。もう、いいのか?」
こくんと、逆巻がうなずく。彼女は手元に、今も小袖さんを抱いていた。
「ここには、置いていけません。どうしたらいいのかわからないけど、連れ出してあげなきゃって思うんです」
「そうだね。警察か、彼女の体が安置されている病院か、いずれにしてもそれまでは袋か何かに入れていこう。そうなると、まずは教室に戻るべきだろうね。誰にも見つからないように」
ほっとした気持ちがため息に混じる。
きっと、ようやく実感したからだった。
僕が逆巻を、無事に見つけることができたということを。
とにかくもう、この場所に残る必要はなかった。
振り返る。
そうして、扉を視界に入れた僕は全身から血の気が引くのを感じた。
歩き出そうとしていた僕が急に止まったからだろう、逆巻が背中にぶつかる。
僕は後ろ手で彼女を制した。
決して、動かないように。
決して、声を出さないように。音を、立てないように。
この女子トイレに入る扉の、ちょうど人の頭がくる高さにあるすりガラスの小窓。
そこから誰かがこちらを覗いている。
冷たい汗が頬を伝った。それが雫になって落ちないように願いを込める。
すりガラスは解像度の低いデジタル画像のように向こうを粗く映し出していた。こちらからは人の顔の輪郭しか見えず、表情などはもちろんわからない。性別も、生徒か教師なのかも。かろうじて
それは、相手にとっても同じことのはずだ。けれど、煌々と灯りのついたこの部屋にいる僕らは、扉まで多少の距離があってもすでに気付かれていると考えるべきだった。
首だけを小さく振ってあたりを見渡し、僕は状況を整理する。
殺害現場、大量の血痕、女生徒の生首。
この部屋の惨状を見られれば、言い訳のしようがなかった。
僕らの知る全てを正直に話したなら、理解を得ることもできるだろうか。
全て、とは何を示す言葉だっただろう。
逆巻の体験した不思議な数日間の出来事か?
それとも夢にみる迷路の話だったか?
あるいは怪底、呪い――そんなものは僕自身うまく理解できているとは到底言えなかった。
尽くせる言葉は多くない。
逃げ道も、目の前にある封鎖された扉それだけだ。
覚悟を決めるしか、ない。
僕は逆巻を自分の背中に隠すように移動させて、ゆっくり扉に近づいた。
初めは取り乱されたとしても、きっと最後にはわかってもらえるはず。
そうだろ? いや、事態を好転させるにはそう信じるほかない。
そもそも臆病が過ぎた様にも思えた。慎重すぎるのは僕の欠点でもあるから、少し気を楽にしてもいいはずだ。
そうして、
カチャ、と。
僕が伸ばした手がまだ届かない、ほんの五センチ先でノブが回った。
「……紗香那?」
開け放たれた扉の向こうから、逆巻を呼ぶ声がした。
戸惑いと、驚きと、それからおそらくまだ実感の薄い喜びが混ざり合って声は震えている。
その人物には覚えがあった。
忘れられるはずがない。僕に取っては複雑で、あらゆる意味で痛い記憶とともに強く刻みこまれている。
「君か、どうしてこんな時間に」
僕のかけた言葉に返事はなかった。そもそも財部の眼中に僕はいない。
彼の視線はじっと後ろの逆巻に向けられていて、彼女の生存を理解したのか次第に表情が綻んでいくのがわかった。
彼でよかった、とそう思った。緊張して不自然に入っていた全身の力が抜けていくのを感じる。財部なら、逆巻と会話をすれば事態が大きくなることはなさそうだ。
それに、偶然ではあるけれど彼との約束を果たすこともできた。
次に会う時には横に逆巻も一緒だとか、確かそんなことを言ったのだったか。
「紗香那、なんだよな。まさかほんとに生きてるなんて……」
財部が僕らの方に一歩近づく。
とにかく必要な会話をこなして、一刻も早く学校を出るべきだった。
伝えるべき内容を精査し、どうにか財部に理解してもらおうと口を開いたその時、
その時――
「えっと、ごめんね。誰、だっけ?」
背後から、逆巻紗香那がそう言った。
誰、と。
「……うっそ、だろ」
僕の判断は早かった。
逆巻の手を強引に掴み、扉に向かって走り出す。
呆けた顔の財部を突き飛ばし、僕らは女子トイレから出て廊下を走り出した。
「ちょっと朔根先輩、」
「いいから、今は全力で走ってくれ。逆巻」
「でも、突然だったから、私落としちゃったんです」
何を、と彼女は言わなかった。言わなくたって、ちゃんと僕にはわかっていた。
それでも、今は走るしかない。一刻も早く、この場から離れるしかない。
財部左門の言っていた『幼馴染』というのは嘘だ。
逆巻は彼を知らない。
彼女は基本的に人の顔を覚えるのが得意じゃないから、同じ学年やクラスメイトでも認識していない人間は多数いるはずだ。だから本当のところで関係性はわからないけれど、少なくとも幼馴染なら顔を見てわからないということはないだろう。
関係は嘘だった。なら、彼の逆巻に対する執念はいったいなんなのか。
それは流石に僕に推し量る術はない。
わかることは、なぜあの場所に財部左門がいたのかということだけだ。
僕らはここのところ、不思議に思えるような偶然に出会いすぎていた。だから初めは彼も逆巻を助けるために何かに導かれたんだと、なんとなく思い込んでしまっていた。
彼の執着を知ってしまっていたから、僕が彼に共感してしまっていたというのもある。全ての巡り合わせが、僕を誤認させようと収束しているみたいだった。
真実は、もっとずっとシンプルだ。
わかっていたはずだ。
あの場所――逆巻紗香那と入れ替わった小袖咲依の遺体の場所を知っているのは、実際に殺害を行った犯人だけだということを。
財部左門は首切り殺人鬼だ。
それも、なぜか彼は逆巻紗香那に異常な執着を見せている。
走れ、走れ、走れ、
「先輩、私、呼吸が、」
握りしめている手の先で、逆巻が苦しそうに僕を呼んだ。
体を数日放置されていたことの影響が、ここで現れているのかもしれない。彼女を財部から逃げ切れるところまで走らせ続けるのは難しそうだった。どこかに、隠れる必要がある。
「逆巻、もう少しだけ頑張ってくれ。必ず、必ず僕が守るから」
何をしてでも。
どんな目に遭おうとも。
ごめん。小袖さん。
ごめん。君も連れて行きたかった。
ごめん。ごめん。ごめん。
遠ざかった女子トイレの方角から、何かが潰れるような音がした。
僕らは振り向かなかった。
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