amanecer ― 夜明け ―(四)
居た
この地に学ぶ者すべてに開かれた大広間。列柱に取り囲まれるその場所は、〈学院〉の自由な精神性の象徴。春の祝祭で音楽を奉献した少女を拒む者はいない。だが、メルシーナは強烈な疎外感に襲われた。
足早に廊下を抜け、
両の瞳は宵の闇に染まり、重苦しい
灰の世界を裂き、地を叩きつける水の音が、世界に溶けていた。
その中にあって、少女は頬に湿り気を覚えた。
灼けるような目尻から伝う、生暖かい湿り気。頬を一瞬だけ温めたそれは、すぐに冷たくなって地に落ちた。
そのまま、メルシーナは立ちすくんだ。凍てついたかのように動けず、夏の世界でひとり震えた。
自分が今、涙を
痛いと感じた。
でも、痛いのか、痛いと思いこんでいるだけなのかさえも、本当は分からない。
そんな少女をあざ笑うかのように、水滴は無秩序に地を叩きつけ、
「どうかしたのかい」
不意に掛けられた声に、メルシーナはびくつきながら振り返った。そこにはロレンツォ・デステがいた。少女の様子に何かを感じ、追ってきたようだ。
「何でもありません……何でもないんです」
必死で言い張った。そう主張しなければ、心配してくれたこの導師をも責めてしまいそうで怖かった。
彼もまたそれを感じ取っていたようだが、かけるべき次の言葉に迷っていた。
ロレンツォの日常に存在する大人たちと違い、今、目の前にいるのは繊細な少女。そのような存在にかけるべき言葉を、この若き導師は
少女は、与える言葉に傷つき、与えられる沈黙にも傷つき、同時に自らを傷つけ続けているかのように見えた。そんな少女に差し伸べるべきは何かを知らず、結局、ただの言葉しか与えようがなかった。
「何でもないことはないだろう。君は泣いている」
「……」
顔を上げた少女の両目の縁には涙の粒が光る。その涙に、滲んだ雨の滴が映っていた。自分を見上げる少女の歪んだ面持ちを見つめ、ロレンツォは次の言葉を待った。
沈黙を飾る雨音だけが、時を数えるかのように響く。
「わたし……泣いていますか?」
やがて搾り出された言葉に、ロレンツォは無言をもって返した。
沈黙を受け止め、少女は自分の状態に改めて気づく。
そして心の中で呟く。
──わたし、確かに泣いてる……
灰の世界が、少しだけ白くなった気がした。
小さな気づきは、凍てつく少女を少しだけ溶かす。
零れ落ちる涙は、「なんでもない」という主張をいとも簡単に突き崩し、少女に僅かばかりの変容を強いた。
「わたし、もうよくわかりません……。今が嫌なわけじゃないけれど、嫌で…」
口に出して、自身の支離滅裂さを痛感する。視界は滲んでいたが、向けられる視線を察し、灼けつくかのような痛みを覚えた。
「この厳しき学びの城は、一面で暖かく心地がよいからね」
「……」
「それゆえに腐敗も早い」
「……」
独り言のようなロレンツォの言葉が刺さった。今更ながら、雨声の大きさに驚く。遠雷の低い
「一度は逐電してみたものの……何故か僕はまたここにいたりと、面白いよね」
「……」
「したいようにしたつもりで、この
メルシーナにかけた言葉なのか独白なのか、その遠くを見つめるかのような、愁いに沈む細められた目がメルシーナには印象的に映った。
「さて、もう暗い。この雨も止みそうにはないが、メルシーナ……」
「……」
送っていこうと、纏う外套を差し出す導師に断りを入れ、濡れないようにリラを抱きかかえて、メルシーナは雨の中に躍り出た。雨中に消えゆく少女の姿をしばらく目で追いながら、一人残された青年は呟いた。
「僕くらい
雨の音は、時折風に
「鬱陶しいな」
小さな呟きが雨音にかき消された。
メルシーナは寝台に横たわって、冷えた体を温めていた。
自虐的にロレンツォが呟いた言葉が頭に残った。
──したいようにしたつもりで、この様だ。
何をさしてのこの様なのかは解らない。したいようにしたとは何なのか。
その前に、したいようにしていいのだろうか。
──逐電してみたものの……。
そうも言っていた。この場を、この〈学院〉から離れてもいいのだろうか。
雨はいまだに、世界に音を添えていた。
彼女は眠れず、雨の音を聞き続ける。だが漠然とした感情に眠れなかった昨日までとは違い、何かを掴みかけていたからこそ眠れなかった。
それは少しの興奮と熱狂、そして少しの恐怖が入り混じった感情の
夜も更け、やがて彼女の規則正しい寝息が、静かな室内にこだました。
未だ散乱する書籍の群れも、明日には整理されているだろう。
夜明けは遠い、だが雨音もまた、遠くに消えつつあった。
(1193年 夏)
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