amanecer ― 夜明け ―(三)

 「まあ、何て……」

部屋に入るなりアンヌは絶句した。この惨状を見れば誰もが言葉を失うだろう。

 庇護者であったハーゲン師から譲られた屋敷の中、メルシーナが過ごすこの部屋は、すさんでいた。

 屋敷と共にメルシーナに譲られた家内奉公人一家の娘アンヌは、メルシーナの求めでしばらくの間この部屋に立ち入っていなかったのだが、いつになく目覚めの遅い少女を起こすべくその扉を開いたのだった。

 メルシーナはバツが悪そうに俯き、床を見つめた。

 一面に散らばった羊皮の書きつけ。脱ぎ捨てられ散乱する衣。さらに書見台を衣服が覆いつくし、寝台には書籍が積まれ、全ての調度が本来の役目を果たしていない。 

 メルシーナ自身は、この惨状に改善の余地を十分に認めながらも、整理することが出来ないでいた。そして自分の無精さに苛立いらだち、傷ついた。

 

 この部屋の有様は、何かを否定したい心情のあらわれであった。しかし、なにを否定したいのか、少女には解らない。

 この屋敷で共に住む故国からの侍女オフィリアは、屋敷の差配はアンヌたち奉公人の領域であると、多少の小言を言うだけであった。ハーゲン師の計らいで、先に〈学院〉で学んだ彼女は、現状否定と再構築はあるべきよねなどとうそぶいて、過干渉を避けていた。


 頼るべき侍女がこの調子なので、メルシーナは自分でなんとかするしかない。

 もっともらしい理由を用意して、弁明に努める。「手に取りやすいし、わたしにはどこに何があるかわかる」、そして「この方が落ち着く」と。

 だがそれは、児戯に等しい言い訳にすぎない。

 アンヌはメルシーナの目を見据えて正そうとした。

「メルシーナ様。いったいこれはどういうことですか。こんなに汚して!」

 その剣幕に、メルシーナはたじろいだ。素直に謝れば、呆れられながらも許されるだろう。だが逆に、引きつった笑いを浮かべ食ってかかる。 

「わたしはこれでうまくやっているわ。別にいいじゃない」

「よくありません!」 

「わたしの部屋のことなんだから、わたしがいいって言えばいいの!」

「貴重な羊皮は踏まれてかすれ、乱雑にした衣類は糸がほつれて……。本当にこれでうまくやれていると?」

 アンヌの正しさは、他ならぬメルシーナ自身が一番理解している。

 しかし、メルシーナには甘えがあった。年若い家内奉公人の娘に、理解と共感を求めていた。

 だがアンヌには分からない。アンヌは、メルシーナが直面しているような鬱屈感に襲われたことはなかった。それは仕方のないことだった。彼女は、気付いたときには働いていた。子守や雑用に追われた幼年期、日々の労働に打ち消された少女時代。

 さいなまさる無気力感は、不自由なき生活を送る事ができる者たちの特権であることを、メルシーナは解らない。アンヌとメルシーナは、わかり合うことが出来ない。


 メルシーナの言い逃れに一貫性はなく、全て反駁はんばくされ、いつしかアンヌへの怒りへと変わっていく。だが、本当は自分自身に腹を立てていた。

 居たたまれず、逃げだしたかった。そして、その逃避は許される。

 アンヌにしても、雇用主を過度にいさめることはせず、それが、さらにメルシーナを刺激した。

 ──もっと怒ればいいじゃない。


 理不尽だと分かっている。しかし、拒みつつも叱責を渇望かつぼうした。

 不条理な甘えだった。不条理だが、彼女の中ではある種の一貫性や、整合性を持っていた。ただその整合性など、口に出すと単なる幻想でしかないことに、嫌でも気付いた。

 だから、口を閉ざすことしかできなかった。


 ※ ※ ※


 体を震わせ、はっとして目を醒ました。雨音に彩られた夕の世界。

 まだ薄暮はくぼの頃合い。微睡まどろみは、ほんの一瞬であったようだ。

 再び誰かに声をかけられた。

「じきに暗くなろう。もう帰りなさい」

 その声のうちに、雨音でも打ち消すことの出来ない苛立ちを感じ、少女は身をすくめる。そして、億劫おっくうさをまといながらも居住まいを正した。

「申し訳ありません。もう戻ります」

 絞り出した、か細い声は雨にかき消された。

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