amanecer ― 夜明け ―(二)

 ふぅっとため息をついた。

 空気が変わり、灯火に照らされる小さな雨つぶがちらほらと見えた。

 今まさに落ちようとする陽と、広間を照らす炎にあぶり出され、軒下に張られた蜘蛛の巣に絡んだ水滴が、いびつな光の輪を中空に浮かび上がらせている。

 ──本降りになる前に、帰らなければ。

 その時、誰だかが少女に声を掛けた。

「今のうちに、退出した方がよかろう、楽師の姫」

「は、はい」

 返事はしたものの、体が動かない。それどころか、言われたことがかんに障った。

 今のメルシーナは、周囲の人間の言葉に、簡単に腹を立てることができた。「楽師姫」などという他愛もない異称で呼ばれることにさえ苛立いらだった。賛辞の愛称だとは判っているし、それを名誉だとも感じている。だが、未だ技量も情緒も相応ふさわしくないことも理解しているから、重荷でしかない。

 それに、そう呼ばれた時の謙遜の仕方も分からなかった。

 だから、相手に敵意を持ってしまう。

 少女は、自分が全面的におかしいことを理解していた。だが、湧き上がる拒絶の感情をどう抑えていいのかが解らなかった。


 だから、少女は世界に絶望する。

 ──いつまで続くのだろうか。こんな日々。

 少し前まで世界は単純で、目の前のことだけに一途でいられた。あの頃のわたしは何処へ行ったのか。これから、ずっとこんな調子なのだろうか。


 少女は人を避けながら、他者の存在を熱望した。

 諫言かんげんを疎ましく思いながらも渇望した。

 そして、このような自らの思考と行動の不可解さに戸惑う。

 この一貫性の無さを、自らの意志の薄弱と断罪し、彼女はますます自分を傷つけた。隘路あいろに迷い、蜘蛛の糸に囚われた蛾のように、まとわりつく糸が絡まるに任せていた。それを断ち切る力が、たとえ備わっていたとしても今の彼女は発揮できない。断ち切る術を知らず、また断ち切る努力さえも放棄していた。さいなまされる無気力感に焦りつつ、その倦怠に堕ちる自分の姿を一面で楽しんでいた。

 すべて、どうでもよかった。

 でも、どうでもよくはなかった。


 声をかけた何某なにがしかは、すでに少女のそばを離れていた。だから、帰るそぶりを示しつつ、少女の身体は立ち上がることを拒んだ。

 何をするでもなく、彼女はリラの胴を撫でては、ただぼうっとした。

 時折、音が出ないように指の腹で弦を撫でた。一本の弦だけを撫で、ほかの弦に爪が触れないように指を滑らせた。

 他愛のない一人遊び。

 不安、焦り、苛立ち、立腹感、矛盾、葛藤……あらゆる混沌とした感情を紛らわせながら、少女の背中は「わたしを見て」と言わんばかりの情感をあふれさせていた。無意識のうちに或る、惨めで哀れな自己主張だった。


 陽も落ち、雨は大降りになっていた。石造の建物を打ち付ける雨音は幾重にも重なり、騒がしくも静寂な世界を作り出した。夕暮れ直後の世界は、白砂のような水の幕に覆われ、先ほどまで視線の先に浮かんでいた蜘蛛の巣の光輪は、世界のどこかに沈んでいた。

 リラをいじる指の動きを止め、彼女は雨音に聴き入った。

 ──あぁ、帰りは濡れてしまうわね。

 規則正しく見えて、無秩序な雨声は好ましかった。堂々巡りの思考を打ち消した雨に、自然と心が落ち着いた。

 ──このまま、いつまでも雨が降り続けばいいのに……。

 

 心地よい雨の音に、気怠けだるい夏の夕刻の熱気。

 それは微睡まどろみを誘う鈍重な空気の塊となって、少女に襲いかかった。

 ──早く帰らなきゃ。

 思いつつ腰は上がらない。

 夢現ゆめうつつの中で、少女の脳裏に今朝の情景が去来していた。


 ※ ※ ※

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