第二章 amanecer ― 夜明け ―

amanecer ― 夜明け ―(一)

 落日迫る世界に、小さな炎が次々と灯されていた。

 燭台の灯はろうの香りを漂わせながら、小さく震える。その頼りない揺らめきが、連なりながら鏡に反射し、濃淡まばらな世界が現出していた。それを打ち消すかのように、いくつかの篝火かがりびにも炎が踊っている。

 メルシーナは大広間の一隅に座し、周囲を見回した。〈学院〉に学ぶ学生や導師たちが集っている。その中にあって、目を引くのはエステ師だった。無造作に伸ばした黒髪、南方人特有の浅黒い肌、整った容貌の彼は目立った。

 本名をロレンツォ・デステという。大陸南部のラウィニア地方はアルバ市の中流貴族エステ家の子弟で、〈学院〉に籍を置いたのは十代の前半であった。後継争いの厄介払いで〈学院〉に送られたが、早熟で多方面に才を発揮し、今や「全科導師」と呼ばれている。もっとも本人は「馬糞のように知識を積み上げて来ただけ」と自嘲的に語る。

 メルシーナは、溜め息をついて大広間を一通り見回し、視線をロレンツォに留めた。

 若きロレンツォは彼女の憧れの対象だった。恋愛の対象というには不確かだが、颯爽としていて物事の答えをたくさん知っていそうなところに憧憬しょうけいいだいている。未だ精神的には、すぐに答えを求めたがる段階から抜け切れていない彼女にとって、膨大な知識を有しているということはそれだけで尊敬に値した。


 数年前、故国エルスクを失った彼女は、中立地でもあるここ〈学院〉に逃れ、縁故の導師を頼った。庇護者となった導師ハーゲンを通じてロレンツォの知遇ちぐうを得て以来、メルシーナはこの若き導師を慕った。ロレンツォもまた、自らと同じく十代の初めにこの〈学院〉で暮らさざるを得なかったその境遇に親近感を懐いたのか、いとう事なくメルシーナに時間を割いた。

 少女には年若き導師と話をしたいという一心もあったが、何より物事の答えを教えて欲しかった。同意であれ反駁はんばくであれ、自分の問いに応えてくれることが嬉しかった。時として、謎かけめいた言葉を返されたり、その応答に傷つくこともあったが信頼は揺るがなかった。


 だが今この時、メルシーナは何かを聞いてもらいたくてここにいるわけではなかった。無意識の領域においてはそうなのかもしれないが、今の彼女には自分から話しかけるような気力もなく、先方から出向いてくることをただ待っているだけだった。

 メルシーナの意識としては、ただ何となくここにいるだけだ。書庫におもむき、読みふけったのち、この広間でしばし座り込んで周囲を眺めては屋敷に戻る。

 この一連の行動は、このところ毎日繰り返されていた。


 手にもてあそぶリラ、無論ここで弾くわけではない。ただ持ち歩いているだけだ。

 ──このところ少しヘンだわ。

 声には出さず少女は思った。弾きたいと思ったら一日中でも弾いていられる。でもそのすぐ後に、何にも手をつけられなくなる。騒がしいと思うくらい弾き続けていたというのに、突然脱力感に襲われる。

 深い無気力感を前に,ならば寝ようと思っても寝つけない。それどころか、眠りたいのにますます目が冴えてくる。疲れ果てながらも眠れなくて、何故か湧き上がる焦燥感しょうそうかんもだえ苦しんでそのまま夜明けを迎える。

 そんな日が続いたかと思うと、今度は眠ってばかりいる。それも自室で眠ることはほとんどない。明るい場所。誰かの声が聞こえる場所でしか眠れなかった。

 人の目や他者の存在はうとましいはずなのに、どうしてか他人の気配のする場所で、灯りが煌々こうこうと降り注ぐ中でしか眠りにつけなかった……。


 と思えば、今度は極端に他人との関わりを拒絶する。

 ──孤独、いや孤立していていたい、とさえ思う。

 そんなときは、自分のことを思いやって他者が投げかけた言葉でさえも腹立たしく感じる。吐き気がするくらい苛立いらだってしまう。

 この例えようのない、整理できない気持ち。それをあからさまにしてしまうのは、もしかしたら簡単なことかもしれなかった。でも、小さな矜持きょうじが邪魔をして、メルシーナにはそれが出来なかった。


 鼻腔に甘い独特の香りが届く。蝋のそれではなかった。

 ぬるい風が雨の予感を運んでいた。

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