世界設定(1) 〈学院〉について

○〈学院〉のおこり 


 11世紀末から12世紀にかけて各国の主要都市に登場した大学は、先述の通り神殿の付属学問所や学寮を下地に発展したものである。これら大学がその制度や運営の上で大いに参考にしたのが〈学院〉であった。

 そもそも〈学院〉は、成り立ちや組織化、広大な領域を有する擬制ぎせい国家への展開など、先に見た大学群の例とは著しく異なっている。


 この〈学院〉の起こりは古く、およそ6世紀中葉にはその原型が、シフィア湖畔南部に産声を上げている。その始まりは、俗世を嫌った隠遁者いんとんしゃたちの集住地であった。神殿や権力から離れ、人間の自由意志に従って生きることを理想とした者たちの集団が存在したようである。

 古典古代末期に花ひらいた個人主義的な哲学群の影響は大きく、個人の主体性や自由・平等を旨として、権力の統制を排して作られた共同体がその始まりであった。


 無論、〈学院〉は初めから〈学院〉であったわけではない。彼らの名声は彼らに学ばんとする人々を呼びこみ、いつしかそこは「教場」や「広場」などと様々に呼称されるようになった。それでも当初、この集住地に固有の名称は存在しなかった。

 名がないこと。それはどのようなものにでもなり得る可能性を秘めている。だが名前で形作られた秩序世界・既存の価値観からの逸脱であり、非常に不安定な感覚を人にもたらすのであろう。

 その無名性に耐えかね、命名の誘惑に抗しきれなかった者が現れ始め、彼らは〈学院〉を称し始めた。「学院に座する何某なにがし」といった文言が、早くも6世紀末に書簡史料上に散見される。


 長きにわたって、世俗から離れた修道会のような存在であった〈学院〉であるが、9世紀にもなると今日で言うところの学術都市的な空間の萌芽が見られるようになる。学堂と学寮が建てられ、そして彼らの生活を支える様々な手工業者や商業従事者が周辺に定住し始めた。もともとシフィア湖を臨む交通の要地でもある。10世紀以降、〈学院〉は急速に「都市化」されていった。

 やがて11世紀にもなると、「学生ギルド」と「教師ギルド」が結成され、ギルド内・ギルド間の規則が整い、組織の肥大化とともに「教師ギルド」の組合内規を拡大化する形で擬制国家としての〈学院〉が形成された。

 制度は高度に洗練され厳格化し、尚書部などの統治機関を生み出すと、〈学院〉は12世紀初頭には大陸で最も整備された「国家」と化した。また諸侯・諸王の寄進による領域の拡大により、その下に民衆を抱えるようになると徴税システムが整備され、領内の盛んな公路・河川交通による流通税は莫大な収入をもたらした。


 この擬制国家〈学院〉は、主席賢者長(総長)・次席賢者長といった賢人団の合議によって運営がなされた。賢人団の下に、導師・修士・学士・学生といった学問的階梯による称号が整備された。〈学院〉に特徴的なこととして、「学位が身分に勝る」という諺が示すとおり、世俗の階級はここではそれほど問題にされなかったようである。無論、〈学院〉入学者の大半は貴族階級であり、講堂を出るとそれに相応しい瀟洒な生活を送っていたようであり、平民階級の学生が学寮や下宿で慎ましやかに生活を送ったこととは対照的であった。それでも後章で見ていくように、こと講義空間においては身分の概念は意味を持たず、その自由と平等性の度合いは高かったようである。


○〈学院〉の教育機関と学位

 

 この〈学院〉は国家にして巨大な大学組織である。初等学院、高等学院、大学院の三つから成る学問研鑽所を持っている。

 初等学院は上位二学院にむけた基礎教育課程であり、礼法や古典語の素養を身につける場所としての色合いが濃い。上位二学院が、各国でいうところのいわゆる「大学」といえる。

 高等学院は、法・医・自由学芸の三学部から成る。「神の学問は神殿に」の言葉の通り、神学はそれほど重要視されなかった。修了者は学士(許可状取得者リケンティア)の学位を授与される。特に、法学部は古典古代の共通法研究機関であり、最も需要が高かった。就学期間は12世紀の断片的な統計から平均三年余であったことがわかる。ここで各国の官吏となるものも多い。さらに上位研鑽所である大学院へ進み学問を修めれば、修士マギステルの学位を有することになる。

 しかし更に〈学院〉で学問研究を続け業績著しい者は、推薦と解説講義の実践により導師レクトルの許可状を与えられ、教授者となることができた。


 高名な導師ともなるといわゆる「異名持ち」も多く存在する。「見者」「精妙導師」「清貧の博士」など様々な異名が知られている。もっとも一般的な異名は「賢人ドクトゥス」である。そしてこれは、導師の互選によって選出される四年一期の「賢人会議」構成員を務める者たちの称号ともなった。彼らは〈学院〉の運営に携わり、法典編纂などの大事業に従事した。また、この賢人会議の中から、主に年長者をもって主席賢者長や次席賢者長、会計院長官、大法官といった統治上の重職が担われていた。

 年功序列ではなかったようで、12世紀の終わりには、「全科導師」ロレンツォ・デステが二十代半ばで賢人会議に名を連ねている。


 章を改めて述べるが、女子に門戸を開いていたこともまた〈学院〉の特徴であり、女性の異名持ちも存在した。十二世紀末から十三世紀初頭には、「学堂の名花」アンジェリーク・ド・ラヴァルダン、ヴェルーシャの「赤き乙女」イレーネ、「楽師姫」メリュジーヌ・デルスクなどが知られる。彼女たちが優れた学問人であることは確かだが、男性の異名とに比べて、女性性を前面に押し出した異名であるのは時代的な限界であろう。

 なおメリュジーヌのそれは、各国で楽師たちの序列化を定めるために設定された「楽師王」や「楽師伯」、「楽師の女王」などとはまったく異なるものである。各国のそれが、楽師組合の元締に与えられ統治機関の一部局であったのと異なり、メリュジーヌのそれは純然たるあだ名であった。


※Ch.ホプキンス著(峰 舞香訳)『大学の誕生』,流音社,2007年(原著1948年)より。脚註略。

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