初めての旅(五)
シフィア王領からエメリア伯領へと通じる街道を進み、エメリア伯の領域へと入って間もない寒村でのことだった。
村の中を流れる小川。その土手に膝を抱えて座り込む女の子を見かけたメルシーナは、ふと興味を覚えて近づいた。女の子の横に座り込むと、その子は顔を伏せたまま、上目遣いでメルシーナを見た。どうしていいのか判らなかったのであろう、最初はおどおどとしていたその子も、しかしメルシーナが微笑むと顔を上げて微笑み返した。
メルシーナを見上げるその眼差しは、晩秋の陽光を受けて
名前や年齢を尋ねるメルシーナに、その子は答えた。
「ジャンヌ。九歳。お姉ちゃんは?」
「メルシーナよ」
そう言って彼女はジャンヌに微笑みながら、一つの疑問を口に出した。
「どうして一人なの、ジャンヌ。まだお日様も高いのに」
少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、ジャンヌはつぶやいた。
「ケンカしちゃったの。仲間外れにされちゃった」
再び両の膝に顔を伏せたその悲しそうな様子に、メルシーナの心も少し沈む。
「お姉ちゃんはケンカしたことある?」
秋の、強烈とは言えないが鮮明な眩しさを孕んだ光が降り注ぐ中で、ジャンヌの
「あるわ。よくケンカしてたわ。仲のいい男の子がいたけれど、その子とはケンカばかりしていた気がする。女の子同士でもよくケンカしたわ。あなたと同じく、仲間外れにしたりされたり。でも、すぐに仲直りしたわ。あなたも、すぐに仲直りできるわ」
懐かしい思いを抱きながらも、メルシーナはジャンヌの表情が少しだけ和らいだことを感じた。だが子供の関心はころころと変わる。メルシーナの腰に下げられた笛を見て、彼女は尋ねた。
「お姉ちゃん、笛吹くの?」
「ええ。他にも楽器をいくつかね。それに歌うのも好きよ。それから……」
「あたしも好き!」
ジャンヌは嬉しそうにメルシーナの言葉を遮った。そうしておいて、彼女は歌い始めた。かわいらしい声があたりに響いた。
お星さまかがやく キラキラと
私はあなたが欲しいのよ
私の窓辺にやってきて
花瓶に飾ってあげるわ
私の元にやってきて
髪に飾ってあげるわ
お星さまかがやく キラキラと
他愛無い童歌にメルシーナは微笑んだ。
「いい歌ね」
「あたしの一番お気に入り」
胸を張って答えるその動作の一つ一つが、メルシーナにはとてもかわいらしく映った。
「お姉ちゃんも歌って」
「え?ええ、じゃあ、わたしの故郷の歌を歌うわ。わたしの故郷は北の海の彼方の国なの。冬になると雪が深く降り積もるの。わたしの胸ぐらいまで」
子ウサギ駆ける雪の中
白い野原を駆けめぐる
母親ウサギを探しては
飛んで跳ねては駆けめぐる
母さん、母さんどこいるの
探しているのに見つからない
幼心を思い出して口ずさんだ歌に、ジャンヌは喜んだ。北方語など解るはずがない。メルシーナの歌う声の優しさと調子に喜んだのだろう。意味を尋ねる女の子のために、メルシーナは歌詞を訳した。もう一回とせがまれ、メルシーナが歌ってやると、ジャンヌはメルシーナのまねをして歌い出した。
最初はおぼつかなかったが、次第に北方語になっていた。
メルシーナもまた、国を滅ぼされ突然奪われた子供時代を懐かしむかのように、もう戻れない子供時代を取り戻すかのように歌った。
子ウサギ駆ける……
寝具の中で、彼女は思い出して微笑んだ。
あの後、暗くなるまで歌い続けた。子ウサギの歌に続いて、雪の歌、吹雪の歌、海の歌。海を見たことのないジャンヌに、海を教えるのに苦労した。
純粋に歌を楽しんだ。「楽師姫」なんてあだ名をつけられて以来、あんなに楽しんで歌ったのは初めてだったかもしれない。
ふと思い出した旅の断章に、メルシーナの心は晴れた。
──この遊学の旅は、〈学院〉での鬱屈感を払拭したくて志した。
──でも、始めてしまった旅にわたしは後悔も覚えた。
──それが嫌で、我を張った結果が、倒れてしまった今の自分だ。
気持ちを整理すると、少し楽になった気がした。
──たった一度〈学院〉を離れただけで、わたしは色々なことを経験した。そこには色々な人が、そして様々なものが存在した。
──無理せず焦らず、
心の中で、そう小さく決意し、近い将来に想いを馳せた。
──いずれわたしは、亡国の人間として、あるいは〈学院〉の人間として、生き方を問われ決断を迫られるだろう。その決断を下すためのよすがは、たぶん様々な場所に存在する。それを見つけよう。
メルシーナが顔を横に向けると、視線を察したエミリアと目があった。エミリアは微笑み、嬉しそうな声で語りかけた。
「笑顔が戻られましたね」
泣き出しそうになる気持ちを抑えながら、メルシーナは微笑みを返した。
──散々な旅になっているけど、少なくとも今、自分の
そんな思いを伝えたくて、でも言葉はありきたりなものしか思い浮かばない。
「エミリア……」
「はい」
「ありがとう」。
(1193年 晩秋)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます