初めての旅(三)

 手始めに、彼女はリュートを奏でることにした。

 先ほどまで広間に満ちていた喧噪が静まり、多くの目が少女に注がれていた。

 愛おしげにその胴を抱きしめ、左の掌で竿ネックを包み込むかのように指を滑らせた。リュートの竿は大きく、少女の掌では心もとなく見えたが、メルシーナは滑らかに指を動かし力強く弦を指板に押さえつけていく。左手の運指に従い、右の指は時に優しく時に激しく弦を震わせた。

 哀切な音色が、秋から冬へと移ろいつつある夜の静寂しじまに響く。紡がれる音を重ねて、メルシーナは幻想の世界を創り出していく。現出した異様な空気は、ひそひそと少女を評していた聴衆の口を閉ざし、その動きを凍らせた。今や彼らはただ聴くことしかできなかった。

 リュートの音は次第に豊かさを増していく。

 それは心地よい緊張感を持って流れ続けた。やがて音の流れは、せせらぐ小川から、大きなうねりを持った八重波へと変化していた。リュートの音色そのものに、質的な変化が生じていた。

 音の連なりはメルシーナによって命を吹き込まれていた。そして、その生命を紡ぎだしている少女は美しかった。彼女の生命は輝き、同時に、自らの生命の中から一部を曲に与えているかのようでもあった。愛おしみ、慈しみながら、自分の命を削り取って曲に吹き込んでいく。それは悲しくも美しい光景に見えた。

 少女は傲慢に、まるで世界には自分一人しかいないとでも言うかのようにリュートを奏で続けた。篝火かがりびに映し出された薄暗い広間の中で、少女もまたその身を燃やしていた。

 ある時は深く青い川のようにゆったりと、ある時は水鞠みずまり跳ねる滝のような勢いで音は流れてゆく。そして、その一つ一つの音が流れ行く先は大海原。そこでは日常も非日常も、日々の嘆きも、祝祭の喜びも全てが昇華する。メルシーナは、そんな世界を作り出していた。

 やがて音の流れは、終息に向かいつつあった。彼女の紡ぎ出した音に永遠性はない。この世に生み出されたものである以上いつかは終わらなければならない。

 終息。音楽という一回性の魂。


 場の者たちは、少女に魅了され気圧けおされていた。数瞬の放心と、続く拍手。

 少女は照れたかのように微笑んだ後、再び請われ、今度は笛を取り出した。それは宮廷の正装であろうと旅装束であろうとも、常に腰に下げているものだ。

 小さく深呼吸した後、彼女は横笛に口を押しあてた。横目で自分の指先を見つめ、管に生命を吹き込んだ。そっと目を伏せた彼女の表情は、再び少女がこの現実世界から異界へ踏み出したということを雄弁に物語っていた。

 そして彼女を媒介に、この宴席に再び異世界の様相が訪れた。


 世界と異世界。日常と非日常。この両者をつなぐもの、それが詩人たちだった。詩人は人の世界と妖精や神々の領域を行き来する存在で、この時のメルシーナは確かに妖精たちの隣人だった。

 笛は素朴な楽器だ。しかし、その分だけ吹く者の心は素直に音に表れてしまう。嘘やごまかしは通用しない。母親の形見でもあるこの楽器を使いこなすまでに、メルシーナもかなりの時間を要した。なかなかいうことを聞いてくれなかった。しかし、音が出て来るようになると、自分の気持ちをそのまま表すことが出来て、とても嬉しかった。

 生きていると、悩み、苦しくて自分の心をごまかそうと必死な時があり、自分を偽りたい時がある。そんな時、この笛を吹くと彼女は自分の心を素直に表現することが出来た。心の表現や心情の吐露は、時として自分の望まぬ形で表れてくる。それでも、自分の偽り無き姿を知ることは必要だった。

 自分が解らなくて、自分を見失いそうなとき、彼女はこの笛を吹いた。それは、メルシーナの心を慰めた。それは亡き母との声無き会話であったとも言える。最近では笛に心慰められないことも多くなっていたが、それは娘の成長の証なのであろう。


 そんな笛の音は周囲に沁みた。メルシーナの深く透き通った情緒は曝露ばくろされ、聴く者はそれを自らの内に取り込むや己が心と対峙した。音の持つ強い喚起力は、皆に働きかけていた。

 澄んだ、それゆえにどこかうつむきがちで寂しげな音色が、宵闇に溶け込んでゆく。静けさを引き裂きつつもなお、静けさを生み出しながら、音は緊張感を増し一点に向かい集結し始めた。そして瞬間的な輝きへと収束してゆく。高まる期待感の中で、生まれる音色は輝きを増してゆく……そして結実。凝縮した一瞬の光は、まるで水しぶきのようにはじけ、その後ゆるやかに穏やかに流れ続けた。揺蕩たゆたう流れは瀬に辿り着きやがて消え、そしてメルシーナが笛を離した。

 目を伏せたまま、彼女自身も音の余韻に抱かれた。やがて開かれた瞳には恍惚が浮かぶ。笛との長い接吻の果てに唇は紅みを増し、しっとりと濡れたかのようだった。頬もまだ上気したメルシーナは年不相応に艶やかで、たった今の異界返りを物語っていた。

 そして唐突に少女の歌声が響いた。


 

  秋。日が短くなりゆく頃

  遠くの鳥たちの歌も悲しく

  一切を捨てた私の旅立ちも

  遙かな記憶を忘れさせてはくれなかった

  もの悲しく、辛く、苦悩の果てに

  私は凍え、打ちひしがれ

  遠くに響く歌声にも

  秋を彩る美しき花にも

  心は解けない

  喜び無き私の心は、凍てつく冬

 

 少女の艶姿あですがたに気圧されたかのように、動作を忘れた聴衆を後目しりめに、メルシーナの歌声は響く。その声は凛とした晩秋の夜空だった。声は単純にして最高の楽器であった。少女の声は澄み、それゆえに傲慢だった。

 水面に投じた一石が生んだ波紋のように、声は広がり場を支配した。


  愛されたときに、愛しませんでした

  愛されようとしたときに

  私は愛することを拒絶しました

  そして今、後悔と絶望のただ中にあって

  私は全てを失いました

  私の矜持、征服することが出来たならば

  私の貞節、こんなものがなかったならば

  全てを与えられようとしていたのに

  全てを拒絶してしまい

  慰めも喜びも見えず、今はただ泣くばかり

 

  この愛は、誰のものなのでしょう

  この愛を、誰に捧げればよいのでしょう

  失った恋を思い出さずに入られません

  恋という言葉を聞くたびに

  私はうろたえ、涙を流すしかありません

  恋という甘い言葉、こんなにも

  苦いものとは知りませんでした

  


十六の少女が歌うにしては、少し大人っぽすぎるかもしれないが、それはエメリア地方の港市フェルンの伯妃マリセタが、若き日に作ったとされる恋歌だった。幾多の騎士に情愛を捧げられ、恋多き女として知られた貴婦人による百年近く前の歌だ。知っているエメリア俗謡ということで選んだのであろうが、やや大人びた恋歌だった。

 少女にこんな恋の経験は無い。しかし、いつか彼女にも訪れるかもしれない感情を歌いきった。

 ──わたしにはまだ不似合いな歌だったかもね。

 メルシーナは困ったような表情を浮かべた。それはしかし、盛大な拍手を送られたことで、晴れ晴れとした安堵の表情へと変容した。

 

 伯ルイからも賞賛の言葉を受け、宴席に集う人々から休む間もなく話を求められて、メルシーナが饗応の席を抜け出すことが出来たのは、深夜を過ぎた頃合いだった。

 ところがこの時、宴の早い時間に彼女を襲っていた、あの鬱屈とした気分が一気に顕在化した。自分の身体の異変に気付き、どこかおかしいなと感じながらも、騎士リナルドに導かれて、メルシーナは何も言わずに与えられた部屋に向かった。質の悪い麦酒に悪酔いしたのだろうか。いや、この眩暈めまいは酔っているからじゃない……。

 そう感じたとき、彼女は壁に手を突いていた。そして、そのまま廊下に倒れ込んだ。

「メルシーナ様!?」──リナルドの声が、どこか遠くで響いていた。

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