初めての旅(二)

 エメリア伯ルイが設た饗応きょうおうの席で、メルシーナはどこか調子が乗らなかった。まるで宙に浮いているかのような、地に足の着かない思いだった。それでも、晩餐の席に集う人々の多さやその装飾の華美さに、メルシーナは驚いた。故国エルスクの宴席は盛大だが簡素で、このような華美な宴は初めて体験するものだった。

 なんとなく居心地の悪さを感じながら、メルシーナは時を過ごしていた。

 修士の学位取得を目指して修養中の者が、このような宴席にいて良いのだろうかと思った。系譜上の親戚であるとはいえ、未熟な一学士には過ぎた歓待だと感じていた。


 ほんの一年ほど前まで、彼女は学士の学位取得を目指して、音楽分野の学問研究をしていた。

 数年前、敵国の襲撃で故郷を喪失した彼女は、亡命者として中立地〈学院〉に身を置いていた。そんな彼女にとって、学問への没頭は幸福な時間だった。自身が抱える過去や出自に由来する問題から遠ざかることができた。

 だが、学士の学位を取得した時、メルシーナは一つの問題に直面した。

 ──今後、どうすればいいのだろうか。

 成年とされる年齢まではまだ時間があったが、亡きエルスク国の姫としてどう生きていけばよいのか、わからなかった。

 故国の再興のために身を捧げるのか、それとも故国とはもう距離をおいて生きていくのか。実のところ〈学院〉での生活が続いていくことを望んでいる自分がいた。だが、王族の生は自分一人のものではないこともまた理解していた。

 問題を先延ばしするかのように、彼女は自然と上級学位の取得を目指した。

 そのような折、たまたま推され、春分の祝祭で歌を奉献することになった。そして、その時の詠唱と演奏が彼女に「楽師姫」のあだ名をもたらした。それは老齢の賢人たちが孫の如き少女を愛でて呼んだ他愛の無い異名であるが、一介の学生には愛称以上に重みある称号となった。

 誇らしく思わなくも無いが気恥ずかしく、それ以上に重圧を覚えた。技量や情緒その他諸々の事どもが、その異名には未だ不相応なものであることは彼女自身が知悉ちしつしている。身に過ぎた異名に、彼女は苦しみ苛立った。歌うことや奏でることが、辛くさえ思えた。そして心地よいはずの〈学院〉での生活に軋みが生じた。

 そうした苦しみからの解放を求めて、彼女は〈学院〉を離れる遊学を決断したところだった。


 その楽師姫を歓待する伯ルイは、思慮深き雰囲気を醸し出す壮年の領主であった。その公正で誠実な伯領経営から「善良伯」との異名を持つ。エメリアの出ではなく、その生母がエメリア伯家出身者であったことから、早逝した前伯の後継者に指名された外様とざまの領主だった。その家名はクレムといいアラーネ王国など北方諸国の間では王の家系として知られている。メルシーナのエルスクスクレム家はこのクレム家の傍系──エルスク王国のクレム家──だった。ゆえに一門に連なるメルシーナを伯は心から歓待した。

 だが、宴の規模の大きさに比して、目の前に置かれた料理の数々は意外なほど質素であった。メルシーナは特に気になるわけではないが,伯は言う。

「昨年まで続いた飢饉からの復興途上で,簡素な物でばかりで申し訳ない。同じクレムの家に連なる貴女を歓待するにあたって,恥ずかしい限りではあるが。特に,この酒などひどい物だが」

 渋い表情で麦酒を飲んでみせた伯に、メルシーナは無言でほほ笑んだ。

 昨年まで続いたエメリアの大飢饉は一応の終息を見せていたが,その爪痕は残っている。飢饉に直面し,伯は小麦の代わりに麦酒醸造用の大麦やオート麦を食料用に転用し、領内の危機的状況を乗り越えていた。結果的に,味や品質の劣る飼料用の麦や穀類が醸造用に転用され,酒の質は劇的に下がってしまったらしい。

「お気になさらず」

 メルシーナはそう言って、少しだけ盃に口をつけた。水で薄めずに原酒を飲むことができる年頃になってはいたが、好み嗜んでいるわけではない。そんな酒に慣れていない彼女からしても、確かに「美味しくはない」飲み口であることは分かった。

 そんな麦酒の不味さに当てられてか、メルシーナの心はさらに重くなっていた。


 自分のための伯の心遣いは嬉しい。例えもっと粗末な歓待であっても、その嬉しさは変わらないだろう。だが、なぜだか心が重く、気持ちがついていかない。

 だが、横に座る伯の好意を無駄にしないために、少女は重苦しい心を隠し、喜びを表現しようと必死であった。それは少女の心からの気遣いであったが、悲しいまでの生真面目さでもあった。

 広間の数カ所で燃え上がる篝火かがりびの薄明かりは、少しだけ蒼白になっていた少女の表情を隠し、歓待の喧騒は少女の乱れた呼吸を掻き消した。そのため、メルシーナの様子が少しおかしいことには、誰も気付けなかった。

 彼女の護衛を務める騎士の一人リナルドは、メルシーナの様子に多少の違和感を感じていたが、他国の宮廷の空気に慣れていないからであろうと深くは考えなかった。

 やがて伯に乞われ、返礼に彼女が音を奏で歌う時がきた。

 今宵の宴における主役の晴れの舞台であった。重い体に鞭を打って、彼女は気丈に立ち上がった。





※文中に未成年の飲酒が描かれていますが、架空世界における設定上のことであり、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

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