第一章 初めての旅

初めての旅(一)

 鉄の香をはらんだ冷気が鼻腔びこうを刺し、立ち込める夜の川霧は街の姿を包み隠していた。

 漆黒に融けた街並みは白いもやまとい、灰の人影は薄絹のような迷霧をまさぐるかのようにうごめく。石畳を踏みしめる靴音もまた濡れそぼっていた。

 都市の門をくぐり、艶やかに髪を湿らせた少女の気分もまた、靄がかったように晴れなかった。


 メルシーナがエメリア伯領の首府レイリアに着いのは、秋から冬へと移り変わろうかという肌寒い頃だった。彼女の最初の旅。まだ旅慣れない彼女には、〈学院〉から大きな街道を通って比較的容易に辿り着くことのできるこの地への旅でさえ、苦しいものだった。

 道中、幾度後悔したことか。〈学院〉に残っていれば、こんな困難など無かった。それでも彼女が旅を続けることが出来たのは、単純に〈学院〉にいたくなかったからだ。

 あそこは居心地がよいけれど、最近なんだかしっくりこなくなっていた。そんな自分自身の停滞感を振り払いたかった。そして、ある導師の勧めに従い、彼女は一度〈学院〉から距離を置くことにしたのだった。勧められてれてはいたが、少女は自分で決断した。

 それだけに、彼女は気を張って旅を続けた。少女特有の健気さかそれとも意地なのか、不自然に肩肘を張っているような頑張りではあったが、それでも旅は順調であった。


 旅の途中で数度、寒村に逗留とうりゅうした。「他所者よそものだ」。彼女が訪れると、村中が騒ぎ出す。彼女たち──メルシーナと彼女の護衛を務める四人の騎士──は目立った。

 村人は彼女の持つリュートを見るや、彼女が詩人に連なる者であることを知る。村人はそんな彼女を他所者として忌避きひしようとするものの、彼ら自身の興味と少女の持つ美しさ、そして何より旅人が持つ、独特の漂泊の香に引き寄せられるかのように、彼女たちに近づいてくる。反面、村人の眼差しは不信感に満ちている。多くの人々にとって、吟遊詩人や放浪芸人の類は賤業せんぎょうでしかない。

 しかし同時に、詩人たちは都市の流行を伝え、一時の憂いを忘れさせてくれる。そしてその技で彼らの興味を惹きつけてやまない存在である。共同体の非成員であるということは、その者が彼らの日常からかけ離れた特別な存在であるということを意味する。だからこそ、詩人は彼らを踊らせる祝祭の指揮者になれる。

 メルシーナは漂泊に生きる詩人では無い。だが羇旅きりょに身を置いている今、彼ら村人にとって自分たちは常ならざる者であるということは理解できた。


 メルシーナは思った、彼らの目にわたしはどのように映っているのだろうか。やはり、不吉を呼び込む忌むべき者と映るのだろうか。

 無論そんなことは訊かない。求めに応じただ歌い、ただ音楽を奏でた。

 彼女が生み出すリュートや笛の音を聴くと、村人たちはこの少女の優れた技量を理解した。そもそも騎士を従えていることやその着衣から、普段彼らが接する怪しげな放浪芸人の類ではなく、貴人の席に花を添えるような高貴な詩人であると人々は推察した。

 少女は刺繍に縁取られた青いローブをまとっていた。青は大衆の衣装にも用いられる色であったが、彼らのそれが大青草たいせいそうで染められた粗雑な青であるのに対し、メルシーナのそれは舶来の木藍で染められた美しい群青だった。ローブを脱ぐとあらわれる純白のブリオーも、織りや縫製が整っていて袖口や襟元に瀟洒しょうしゃな刺繍が施されていた。少女はその上に、胸元に青銅の留め具が輝く群青のハンゲログエプロン・ドレスを身に着けている。異質な着合わせだったが、これは少女の故国の装束だった。

 そのかんばせには高貴さがあった。旅暮らしで表情はくたびれかけていたが、その気品は消せない。その上、まだ十六の娘だ。多少の疲れは一晩もすれば回復できた。

 少女は美しかった。絶妙な均衡で形作られた顔貌。少女らしい夢見るような中にも、意志の光が輝く知性溢れる青い瞳。形の良いかわいらしい唇。薄く灰色がかった金の髪は、光の加減で、冬ざれの海のように様々な色合いに変化した。それぞれが自己主張することなく一体となり、壊れてしまう一歩手前のところで調和している。

 訪れる村々で、誰からともなく言い出した。──ただの楽師ではなさそうだ。

 そのような日々を送りつつ、彼女は首府レイリアに到着したのだった。


 四人の従属を伴った楽師の少女が、街道沿いの村を経由しつつレイリアを目指している。この噂は、彼女たちの足より早くこの地に到着していたようだ。彼女たちが宿をとったその翌朝、伯宮廷からの使者が宿を訪れた。彼女たちは目立つ。否応なく噂の少女だと判った。またエメリア伯は、その少女が現れたら宮廷に知らせ、丁重な歓待を求める旨の通告を出しいた。

 およそ宿屋というものは、単なる宿泊施設ではない。市場に依らない私的な商業取引や情報の中継点であり、また裁判の場にもなれば留置所ともなる公共性の高い施設だった。それを利用する人間も商人や旅人だけではなく、時としては犯罪者や騒擾そうじょうを企てる者なども含まれる。公的な市場を管理し、私的な取引を取り締まり、また市内の平和を維持するために、宿屋は市当局の統制下にあった。それ故に、宿屋の主には社会的信用が求められる。

 宿屋の主が、伯令に従ったのは当然であった。


 「私はエメリア伯の家令を務めておりますアルフィニ家のフィリップと申します。学士様、御名をお聞かせください」

 胸に手を当て,恭しく訊ねた初老の使者に対して、メルシーナは偽ることなく答えた。

「メルシーナ・エスルクスクレムと申します。楽を学ぶ〈学院〉の学士です。こちらの大学にオルヴァルの『音楽提要』があると聞き、手写させていただきたいと参りました」

 彼女の名乗ったクレムという家名を聞くや、使者の表情に緊張が走った。

 身分卑しからぬ伯の側近が、十六の小娘に礼を尽くす姿は滑稽な光景に見えたが、この娘にはそれをさせて当然といった雰囲気が備わっていた。それは純粋清廉な少女が持つ独特の傲慢さであり、その身に備わる貴顕性もそれを助長していた。辺境の小国とはいえ、メルシーナは王家の出である。〈学院〉に身を置くにあたり、メルシーナはその出自を語ることはなかったが、それは半ば公然の秘密であった。

 少女に対し、丁寧に使者はその用向きを述べた。少女がエメリア語を解するとはわかっていても、メルシーナの名をわざわざ〈学院〉の共通語であるシフィア語風に発音したあたりが、この初老の使者の生真面目さを物語っていた。

「クレム家の伯ルイの代理として、学士様をお招きするために参りました。どうぞ、我らが宮廷においでくださいませ、メリュジーヌ様」。

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